楽しむ
感情が生まれたばかりの彼女には善悪の区別がなかった。
そもそも、善悪の基準すら己の半身を基準としていた。
そんな彼女が一般的な価値観を持つはずがなく、全ては半身を助けるのか、それとも害するのか―――それだけのものでしかなかった。
この世界は生命が満ち溢れている。
那由他がこの世界を見た感想はその一つだけであった。
彼女の目が忙しなくあちこちへと向き、その度に輝いていく。まるで新しい玩具を見つけた子供のようだった。
那由他にとって幻想郷の風景はこれまでにない程の〝色〟を持っていた。
外の世界は人も物も全てが一つの色しか持っていなかった。しかし、此処は違う。森の木々が、雲が、何気ない水溜りにまでいくつもの色が混ざり、同じ色が存在しない。それだけでなく、絶えず変化までしていた。
その景色が嬉しく、楽しく、美しかった。
なるほど、と納得もしてしまう。
こんなに素晴らしい世界ならば不可能などあるわけがない。
人間の自分が空を飛ぶことも、きっと当たり前なのだ。
那由他は何気ない動きでステップを踏む。その姿が黒一色でなければきっと妖精にも見えただろう。
それだけ今の彼女は無邪気な少女そのものなのだから。
「止まれ」
不意にかけられた声に那由他は止まった。
声が聞こえた瞬間に、一ミリも、視線すら動かさずに停止した。
ステップの途中で停止した那由他の姿はまるでその瞬間だけの時間を切り取ったかの様だった。それこそ絵画や写真のように。
「……貴様、人間だな。何故此処に立ち入った。これより先は天狗の領域だ」
丁度背を向けていた那由他は首だけを傾けて声の主を見た。
白い髪と、同じ色の獣耳と尻尾。手に持つ大剣と逆の手に持つ紅葉の描かれた盾。
その姿は〝あの人〟の目を通して見たことがあった。
「……白狼天狗」
天狗のテリトリーを守る為に哨戒警備を行う白狼天狗。
天狗社会の中では地位は低く、哨戒以外にも戦闘時の先兵隊からただの小間使いまで様々な任務を行う者達。
それが那由他が〝あの人〟を通じて見た白狼天狗のイメージだった。
そしてその白狼天狗が警告をしてきたということは知らないうちに妖怪の山へと足を踏み入れていたのだろう。
那由他は周りが見えなくなる程に自分が浮かれていた事に驚いた。
生まれてから大して感情が揺れ動かない自分が我を忘れる程感情を高めていた。つまりは浮かれていたという事実に自然と頬が緩む。
―――あぁ、楽しい。楽しいなぁ。
―――楽しむという事はこういう事をいうのか。あぁ、あぁ……私は今、楽しんでいる!!
「これより先は人間が立ち入ってよい領域ではない。即刻立ち去れ」
そこまで言われて、はじめて那由他は体全体を白狼天狗の少女へと向けた。
半分しか向いていなかった顔も向けて真っ直ぐに相手の目を見る。
同時に少女の〝色〟も見つめる。
はじめに見えたのは鋼の様に鋭い混ざり毛の無い鈍色だ。
まるで刀だ。
一切の疑問を持たず、上司の命令を絶対とし、ただ振るわれるだけの刀。
しかし、その色に隠れて彼女自身の色も見える。
今の時期の山と同じ、ヒラヒラと舞い散る紅葉、又は儚く消えていく夕陽の様な美しい茜色。
優しい色だと、那由他は思わず見惚れてしまった。
同時に、この幻想郷には外の世界にはない色があり、そして個人が複数の色をその身に宿している。
そう、個人が複数の色を持っている光景など、この能力が開花した幼い頃にしか見たことがない。
だから、それが堪らなく恋しくて、愛しくて、嬉しくて、楽しかった。
そして、唐突に那由他は理解した。
今、自分が笑っているのはきっと自らが目指す場所の一つに到達したからだと。
幼い頃の自分が恋い焦がれた光景をもう一度見たかった。その目標がたった今、達成された。
―――あぁ……あぁ……なんて、達成感。
「聞いているのか!?」
唐突にそう叫ばれて那由他は意識を戻す。同時に放たれた弾幕が頬を掠めていった。
目の前にいる白狼天狗は険しい顔でこちらを見ていた。
それを一切無視して、那由他は少女に問いかけた。
「ねぇ……名前を教えて?美しい茜色を鈍色で包むお姉さん」
「……なに?」
その問いかけに、白狼天狗の少女は困惑した。目の前の少女は妖怪である自分を見て、更に弾幕で脅されたにも関わらず一切の恐怖を感じていない。
それだけではない。焦りも、逃走する気配もなく、ただ微笑みながら名前を尋ねてきた。まるで友人と語らう様な気軽さで。
それが、彼女には何よりも不気味だった。
「……犬走椛だ」
「ありがとうございます。椛さん。とても良い色を見せてもらったわ。
私も自己紹介しますね。永月那由他といいます」
椛には那由他の言う〝色〟というものが何かわからなかった。
しかし、この少女は己を見て何かを見出したのだ。そして、それがとても気に入ったのだろう。現に彼女は笑顔だ。
なのに、椛は背筋が凍る程、恐ろしいものが彼女の中から自分を見つめている様な気がしてならなかった。
「ふふ……大丈夫ですよ。私は何もしないわ。人を探しているだけなの」
「……」
心を読まれたのでは、と内心冷や汗をかきながらも顔には出さず、椛は大剣を握る手に力を込めた。
「彩花という名前の人なの。何処で会えるか知っています?」
静かなのに、ハッキリと聞こえる不思議な声だ。
椛は無表情を貫きながら大剣を持ち上げ、那由他から見て右の方角を指し示した。
「……この方角へ行けば博麗神社へと着く。彩花さんはそこにいるだろう」
「そう、ありがとうございます。助かったわ」
最後に心からであろう笑顔を浮かべ、小さく頭を下げると、那由他は椛の指す方角へと飛んでいった。
その姿が見えなくなるまで見送り、椛は強張った体から力を抜いた。
途端に全身から汗が吹き出し、意味もなく息が荒くなった。
見れば自分の尻尾が逆立ち、それを直そうと手を伸ばそうとしてその手が震えているのに気がついた。
「ぁ―――」
そうして漸く、椛は自らが先程の少女に怯えていたのだと自覚した。
自覚した瞬間、椛の視界が滲み始めた。それが涙だと理解する前に、椛の体は全力で山の頂上付近へと向かっていた。
一刻も早くあの少女の事を上司に伝えなければ、その思いだけが頭に浮かび、涙を拭いもせず、ただひたすらに急いだ。
そうしなければ、手遅れになる。
何がそうなるかはわからない。でも、それだけは間違いないと本能が告げていた。
◇◇◇◇◇◇
……少女祈祷中
イラストのリクエストなどがありましたらどんどんしてください。
投稿済みの話でも構いません。あのシーンが見たいとか、ここはどんな感じなのかとか。
できる限り答えていきたいと思います。