タワマン最上層のランチ会
エレベーターのドアが開いた瞬間、俺は思わず息を呑んだ。
廊下の向こう、床から天井まで続く全面ガラスの向こうに、白い雲海が広がっていた。雲ではない——雲の上だ。このタワー「スカイピラー・レジデンス」の八千百二十二階は、もはや別の世界だった。廊下の空気はひんやりと乾いていて、鼻の奥がわずかに痛む。地上のじめついた初夏の空気とはまるで違う。足元の大理石タイルは、歩くたびに靴底が吸い付くような静かな反響を返してくる。
「パパ、くもがしたにある」
息子の蓮斗が、俺の手をぎゅっと握りながら窓の外を指差した。五歳の手はまだ小さくて、温かい。
「そうだな」と俺は答えた。「すごいな」
我ながら語彙が貧困だと思ったが、本当にそれしか出てこなかった。
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俺——桐島修二、三十四歳——は今春、このスカイピラー・レジデンスの四〇階に越してきた。低層フロアと呼ばれる帯域だ。地上から百数十メートル。普通のマンションなら上等な部屋だが、このタワーでは最底辺に近い。
東都大学山岳部で四年間、北アルプスの岩稜を歩き回った体は、今や週五の通勤と深夜残業で鈍りつつある。妻の奈緒を三年前に病で亡くしてから、蓮斗と二人の生活が続いている。転居したのは、奈緒との思い出が染み込みすぎたマンションに、これ以上いられなかったからだ。それだけだ。タワーマンションへの憧れなんか、正直なかった。
今日はマンション内の幼稚園ネットワーク——スカイキッズ・コミュニティ、と誰かが名付けたグループ——によるランチ会だ。声をかけてきたのは同じ幼稚園バスを使う保護者たちで、その一組が八千百二十二階に住む永瀬夫妻だった。
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永瀬宅のドアを開けたのは、永瀬麻衣子さんだった。四十代前半だろうか、シルクに近い艶を持つクリーム色のブラウスを着て、薄くつけたパールのイヤリングが蛍光灯ではなく自然光に映えている——八千階超の自然光に、だ。
「桐島さん、いらっしゃい。蓮斗くんも来てくれてありがとう」
彼女の声は低く落ち着いていて、でも人を安心させる温かみがあった。リビングに通されると、すでに何組かの家族が揃っていた。
同じ低層帯の住人、三十代の田中夫妻は俺と同様に、どこかきょろきょろとした目をしていた。夫の健司さんが小声で俺に耳打ちしてきた。
「やば、ここ。うちの部屋、全部入りそうですよ」
確かに、リビングだけで俺の部屋の二倍はある。調度品は主張しすぎず、それでいてすべてが本物だとわかる。テーブルの上に並んだ料理の香り——トリュフオイルだろうか、土の奥にある甘さのような、嗅いだことのない豊かな匂い——が部屋に満ちていた。
子供たちはすぐに打ち解けて、低重力云々より床のフカフカした絨毯に夢中になっている。蓮斗は永瀬家の息子の颯太くんと、すでに何かのブロックで遊び始めていた。
俺は内心、どこか居心地が悪かった。
これは嫉妬ではない、と自分に言い聞かせながら、実際には嫉妬だと知っていた。同じタワーの住人、同じ幼稚園の親、でも俺たちは四〇階で、彼らは八千百二十二階だ。この格差は数字以上の何かを意味している気がして、うまく笑えなかった。
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食事が始まり、しばらくは和やかな時間が流れた。
永瀬直樹さん——がっしりした体格で五十代に近い——が子供たちにガラス越しの景色を説明している。
「ほら、あの白いの、積乱雲だよ。夏になるとね、もっと大きくなる」
「せきらんうん、なに?」と蓮斗が聞いた。
「入道雲。お化けみたいな雲」
「こわい?」
「入ったら雷に打たれるけど、外から見る分には綺麗だよ」
俺はその様子を眺めながら、グラスの冷えた白ワインを口に含んだ。酸味と果実の甘さ。窓から見下ろす雲は、たしかに美しかった。
「桐島さん、低層フロアって、やっぱり地上と変わらないですか?」
麻衣子さんが隣に来て、にこやかに尋ねてきた。悪意はない。ないのはわかっている。
「そうですね、まあ、普通の生活ですよ」と俺は答えた。「地に足がついてる感じで」
うまいことを言ったつもりで、後から思えば少し刺のある言い方だった。麻衣子さんは気にした様子もなく笑った。
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それは食後のコーヒーが出た頃だった。
最初に感じたのは音だった。いや、音というより振動——骨の内側で何かが共鳴するような感覚。山でかつて経験した岩盤の微細な揺れに似ていたが、もっと鋭い。
次の瞬間、衝撃が来た。
窓が白くひび割れ、ドンという腹に響く低音とともに、テーブルの上の食器が吹き飛んだ。蓮斗の叫び声が聞こえた。
そして耳が詰まった。
山で経験したことがある——急激な気圧変化。稜線での嵐のような、空気が薄くなる感覚。だがこれは比較にならなかった。耳の奥で何かが破れるような痛みとともに、視界がにじんだ。
俺はとっさに床に這い、蓮斗を探した。
「蓮斗!」
「パパ——」
声は近い。絨毯の上、颯太くんと一緒に座り込んでいる。二人とも泣いていたが、意識はある。俺は蓮斗を抱き寄せ、自分の胸に顔を押し付けるようにした。
田中健司さんが、白目を向いて床に崩れ落ちた。奥さんも、壁に寄りかかったまま目を閉じた。別の低層の母親が「頭が——」と言いかけて、そのまま動かなくなった。
頭痛がした。猛烈な頭痛。視界の端が暗くなってくる。
だが、俺は意識を繋ぎ止めていた。
大学時代、三千メートル超の稜線でテントが吹き飛びそうになりながら一晩過ごした。低酸素と低温で意識が遠のく感覚を、身体が覚えていた。吐き出しちゃいけない——山では教わった。焦って呼吸を速めると酸素を消費する。浅く、ゆっくり。リズムを刻む。
ゆっくり吸って、ゆっくり吐く。
ゆっくり吸って、ゆっくり吐く。
目を閉じるな。
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霞む視界の中で、俺は直樹さんたちが動いているのを見ていた。
高層フロア居住の保護者たちだ——直樹さんと麻衣子さん、もう一組の高層住人の夫婦。彼らはすでに、壁際の収納から取り出した小型の酸素マスクを顔に当てていた。動きに迷いがない。これも訓練の一部なのだと、霞む頭でも理解できた。
マスクをつけたまま、直樹さんたちは、ウォークインクローゼットから銀色の大きなバッグを引き出した。人一人が入れるサイズの気密バッグだ。
倒れた健司さんを、二人がかりで滑らかな動作でその中に収める。チャックを閉める。バッグの横についたポンプらしきものを操作する。バッグがわずかに膨らんだ。
「タンク残量どう?」と直樹さんが妻に声をかけた。
「三本ある。あと緊急要請、もう飛ばした」
「了解。気密パッチは?」
「二番窓、貼り終わった。もう一枚いるかも」
二人の会話は無駄がなかった。マニュアルを暗記しているというより、何度も確認してきた手順を体に刻んでいる人間の動きだった。
俺は、このタワーの高層フロアの住人たちが、こういう事態に備えて訓練を受けていることを、その瞬間に理解した。彼らにとってここは、単なる高級住宅ではない。それなりの危険と隣り合わせた、特殊な居住環境なのだ。
頭痛が少し引いてきた。気密パッチが効いてきたのか、気圧の低下が止まりつつある。
麻衣子さんがマスクを顎までずらし、俺の隣に来て腕に触れた。
「桐島さん、意識ある?」
「あります」と俺は言った。喉が乾いて声がかすれた。
「これ、使って」
差し出されたのは予備の酸素マスクだった。装着すると、数呼吸で頭痛が引いていった。
蓮斗と颯太くんは、永瀬家の他の部屋に連れて行かれていた。子供たち向けの小型気密テントのようなものがあるらしかった。
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衝撃からおよそ十分後、廊下の向こうで重厚なドアが開く音がした。
入ってきたのは、銀色の作業着を着た三人組だった。背中に「スカイピラー・レジデンス緊急対応班」とある。全員が与圧対応の装備を身につけ、動きに一切の無駄がない。リーダーらしき人物が直樹さんと二言三言交わすと、残りの二人はすでに破損した窓へと向かっていた。計測器を当て、パネルの寸法を確認し、工具を展開する。全員が黙々と、しかし淀みなく作業を進めていく。
十分足らずで、ひび割れた窓には分厚い気密パネルが貼り付けられ、室内の気圧が完全に安定した。
俺は呆然とその様子を見ていた。
うちのマンションで水漏れが起きたとき、管理会社の人間が来るまで二時間かかった。ここは十分だ。しかも夜間でも祝日でもない——いや、そんな問題ではなく、この対応班はおそらく常駐しているのだ。このタワーの、どこかに。
月々の管理費が通常のマンションの十倍近いと聞いたとき、正直ぼったくりだと思っていた。今は少しだけ、納得する気持ちがあった。これはサービスではなく、インフラなのだ。
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倒れていた人たちが次々に目を覚ました。健司さんが、頭を押さえながら身を起こそうとしたので、バッグから出るのを手伝った。
「……なんだったんですか」
「スペースデブリの衝突です」と直樹さんが静かに答えた。「このフロアはカーマンラインに近い。小さいのなら、数年に一回は当たる。気密が破れるほどのものは滅多に起こりませんし、それがよりによって今日当たるとは思いませんでしたが」
「そんな話、聞いてませんでしたよ」と健司さんが言った。怒りより、呆然とした声だった。
「低層フロアの案内には書かれないんです。申し訳ない」
リビングは散らかったままだった。料理が床に落ち、白ワインがカーペットに染みていた。それでも、窓の外の空は変わらず青く、眼下の雲はゆっくりと流れていた。
麻衣子さんがコーヒーを淹れ直してくれた。今度は缶入りの加圧式のやつで、宇宙食みたいだなと俺は思った。
直樹さんが、俺の向かいに腰を下ろした。
「桐島さん」
「はい」
「倒れなかったですね」
「山をやってたので」
「それだけじゃない」と彼は言った。落ち着いた目で俺を見ていた。「パニックにならなかった。呼吸を整えていた。子供を守った。判断力があった」
俺は何も言わなかった。
「上のフロアに来る資格がある人間というのはね、お金だけじゃないんです」と直樹さんは続けた。「ここに住むというのは、リスクを理解して、それでも上を選ぶということでもある。修二さんは、その素質がある」
麻衣子さんが、横から静かに添えた。
「次の更新のとき、上のフロアを検討してみませんか。私たちから、管理組合に話を通すことができますよ」
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帰り道、エレベーターの中で蓮斗が俺の手を握って言った。
「パパ、またあそこいける?」
「どうだろうな」と俺は言った。「行けるかもしれない」
扉が開き、四〇階の廊下に出た。地上の喧騒からは遠いが、雲の下で、夕暮れの湿った空気が漂ってきた。
いつもの場所だ。でも、いつもと少し違って見えた。
俺は蓮斗の手を引きながら、ふと上を見上げた。このタワーは、ここから先もまだずっと続いている。雲を突き抜け、青空を越え、カーマンラインの向こう、俺には見えないどこかまで。
上がる理由が、少し変わった気がした。
怖かったからではなく——そこに行く準備が、自分の中にあるかもしれないと、初めて思えたから。
タワマン上層階の方々がどのような生活を送っておられるのか、想像しながら書きました。実際と違う点があれば、ご教示いただければ幸いです。




