道に迷った夜、踊り子に借りを作った
王都から馬車で三日。エルフィード商業都市は、夜になっても眠らない街だった。
石畳の上に屋台が並び、どこかから楽器の音が流れてくる。酒場の扉が開くたびに笑い声がこぼれ、香辛料と焼き肉の匂いが路地に漂っている。
活気がある。それはわかる。
だが。
(……どこだ、ここは)
ラルフ・ヴァレンティは手元の略図と、目の前の路地の分岐を交互に見比べた。
三本ある。略図には「東通りを北へ」と書いてある。東がどこかわからない。夜空の星で測ろうとしたが、屋台の明かりが多すぎて使い物にならなかった。
(グレンが腹を壊さなければこうはなっていない)
責任の所在は明確だった。
部下のグレン・アッシュは本日夕刻から急激に体調を崩し、宿のベッドで「申し訳ございません、もう駄目かもしれません」と遺言めいたことを言い残して沈黙した。道案内は彼の担当だった。視察は予定にあった。グレン抜きで動くのは非効率だが、視察を翌日に回すのはもっと非効率だ。
ゆえにラルフは一人で出た。
ゆえに今、完全に迷っている。
(これは部下の管理不足だ)
断じて、自分の方向感覚の問題ではない。
今回の視察には、表向きの名目がある。エルフィード領の財政状況の確認、及び通商路の実態調査。それ自体は事実だ。
だが王太子から直接渡された封書には、もう少し踏み込んだ内容が書かれていた。
——エルフィード領における税収の不審な減少について、原因を特定せよ。
三年前から始まった税収の落ち込みは、表帳簿の上では「商業の不振」として処理されている。だが数字の動きが、ラルフには引っかかった。不振にしては、落ち方が綺麗すぎる。まるで誰かが計算して、少しずつ抜いているような落ち方だった。
金がどこかへ消えている。
誰が、どこへ——それを掴むために、ラルフはエルフィードに来ていた。
三本の路地の前で立ち止まること二分強。
ラルフは潔く現状を認めた。
(迷子だ)
通行人に聞けばいい。それはわかっている。だが周囲を見回すと、酔客、眼光の鋭い行商人、どういうわけか鶏を抱えた老人——有益な情報を持っていそうな人間が、どこにも見当たらなかった。
そのとき。
「あの」
声がした。右後方。
振り向くと、石造りの建物の裏口らしき扉の前に、若い女が立っていた。
薄い布地の衣装。腰に色とりどりの飾り紐。額にうっすら汗の光。扉の上の看板には「ラ・チェーラ座」とある。
この女が何者か、ラルフにはわからなかった。場末の興行に携わる人間の区別など、上流社交界で生きてきたラルフの知識にはない。ただ、劇場の裏口から出てきた、ということだけは判断できた。
「もしかして迷子ですか」
ラルフは即座に答えた。
「違う」
「じゃあなんで同じ場所で地図を三回見てるんですか」
(……見ていたか)
「……視察だ」
「同じ路地を三回?」
「念入りな視察だ」
女は「はあ」と言った。納得していない「はあ」だった。
(この女、馬鹿にしているのか)
馬鹿にしている様子はない。ただ純粋に、目の前の現象を把握しようとしている顔だった。それがかえって処理しにくかった。
「……赤煉瓦亭への道を知っているか」
「知ってますよ」
「教えろ」
「その前に一個だけ聞いていいですか」
(なぜ条件が付く)
「……なんだ」
「怒ってますか?」
「怒っていない」
「じゃあなんでそんな怖い顔してるんですか」
ラルフは一秒、止まった。
(怖い顔)
怖い、と言われたことがなかった。近寄りがたい、冷たい——そういう評は耳に入ったことがある。だが「怖い顔」と面と向かって言われたのは、記憶にない。しかも、怯えた様子が微塵もなく。
(俺の顔は、怖いのか)
我ながら間抜けな問いだと思いながら、しかし反論が出てこなかった。怖くない、と言い切るには、自分の顔を客観的に見たことがなさすぎた。
「……案内しろ」
「返事になってないですよ」
「案内しろ」
「……はい」
女はあっさりと歩き出した。深追いしない。怒りもしない。ただ「まあそういう人もいるか」という顔で前を向いた。
(奇妙な女だ)
ラルフはその背中を三歩遅れて追った。
歩きながら、女が口を開いた。
「視察って言ってましたけど、どこかのお役人ですか」
「そうだ」
「王都から?」
「なぜわかる」
「訛りがないので。あと靴」
「靴?」
「この辺の石畳、結構でこぼこしてるんです。慣れてる人は自然と歩き方が変わるんですけど、あなたまっすぐ歩いてる。よそ者だなって」
(靴と歩き方で判断したのか)
情報の収集経路として、それは有効だ。自分も似たような判断を人相手にする。ただし「靴」を起点にするというのは、ラルフの発想にはなかった。
「……観察眼がある」
「商売柄です」
「劇場の、何をやっている」
「踊り子です」
踊り子。王都の社交界で夜会の余興として楽団が演奏することはある。だが「踊り子」という職業の人間と言葉を交わしたことは、記憶にない。接点がなかった。
「踊り子というのは、劇場で踊って生計を立てているのか」
「そうです」
「毎日か」
「週に五日くらいは」
「それで食えるのか」
女が少し振り向いた。
「食えますよ。失礼な」
「失礼ではない。純粋な確認だ」
「確認の仕方が失礼なんです」
(そうか)
この手の指摘に対する適切な返しを、持ち合わせていなかった。
「その劇場、ラ・チェーラ座というのか」
「そうですよ。知ってますか?」
「知らない」
「正直ですね」
「知らないものを知っていると言っても意味がない」
女は少し間を置いてから「まあそうですね」と言った。
「ラ・チェーラ座は、この街では大きい劇場か」
「そこそこです。もっと大きいのは、北区に一軒あります」
「北区」
「マルディ座です。あっちは貴族の方もよく来ますよ。うちはもう少し、庶民向けで」
(マルディ座)
その名前に、ラルフはわずかに反応した。
表帳簿の中に、その名前があった。エルフィード領内の娯楽産業として、税収の項目に記載されていた。だが申告額が、この街の規模にしては——
(少なすぎる)
頭の中で数字が動いた。
(後で確認する)
「……お前、この街に長いか」
「生まれてからずっといますよ」
「マルディ座のことは詳しいか」
女の歩みが、ほんの一瞬だけ変わった。止まったわけではない。遅くなったわけでもない。ただ——何かを測るような、微妙な間があった。
「……普通には知ってますよ。なんでですか」
「視察の参考だ」
「視察、さっきまで迷子になってたやつですよね」
「念入りな視察だと言った」
「……はい」
女は前を向いた。
(なぜ間が空いた)
大通りをひとつ越えたところで、「赤煉瓦亭」の看板が見えた。
「こちらです」
女が振り向いた。わずかに息が上がっている。
「……確かに」
ラルフは懐から金貨を取り出した。
「受け取れ」
差し出した。
女は金貨を見た。次に顔を上げたとき、表情が変わっていた。
「……安く見ないでください」
声は静かだった。だが、怒っていた。
「道案内の対価だ。相応の額のはずだが」
「相応かどうかの話じゃないです。困ってそうだったから声をかけた、それだけです。そこにお金を出されたら、最初から打算があったみたいで嫌じゃないですか」
「……善意で、見返りなしに声をかけたということか」
「そうです」
「なぜ」
「なぜって、困ってたから、としか言えないですよ。理由があって親切にするんですか、あなたは」
(理由がなければ、親切にする道理がない)
ラルフにとっては当然の前提だった。人は何かを得るために動く。得るものがなければ動かない。
だがこの女の顔を見ると、その前提が通じない世界が確かに存在するように見えた。
「……失礼した」
女の目が、丸くなった。二秒、三秒——それからぽつりと言った。
「……貴族の方って、謝るんですね」
「謝らないと思っていたのか」
「思ってました」
「全員が謝らないわけではない」
「そうなんですか。初めて見ました」
「……そうか」
女はしばらくラルフの顔を眺めてから、小さく笑った。
「面白い方ですね、あなた」
「面白い」
「怖い顔で謝って、そうかって言う人、なかなかいないので」
(それの何が面白いのか)
理解できなかったが、不快ではなかった。
「お前、名前は」
「セラです。セラ・マルコ」
「……ラルフ・ヴァレンティだ」
「聞いてないですよ」
「名乗るのが筋だろう」
「……そうですね」
セラは少し意外そうな顔をして、それから「そうですね」と繰り返した。悪くない、という顔だった。
「では、お気をつけて。次は地図、ちゃんとしたの用意してもらってください」
「部下に言っておく」
「その部下の方、今日はご一緒じゃないんですね」
「……ああ」
「王都からわざわざ来た偉そうなお役人が、夜の見知らぬ街を一人でうろうろしてるの、なんか変だなとは思ってたんです」
それだけ言って、路地の角を曲がった。
消えた。
ラルフは「赤煉瓦亭」の看板の前で、しばらく立っていた。
セラ・マルコ。ラ・チェーラ座の踊り子。マルディ座の話をしたとき、確かに間があった。
変わった女だった、と片付けるつもりだった。
できなかった。
宿に入り、階段を上がり、部屋に戻った。上着を脱ぎ、ベッドに横になる。窓の外から楽器の音が聞こえた。
(どうでもいい)
目を閉じた。
何故か、なかなか眠れなかった。
◇
翌朝、廊下に宿の主人が立っていた。
「ヴァレンティ様。部下の方ですが、夜中からかなり具合が悪くなりまして。医者が、療養所に移した方がいいと」
扉の向こうから、グレンの呻き声が聞こえた。
「……わかった」
ラルフは視察の日程を、頭の中で静かに組み直した。
残り六日。正規のルートだけでは、真実には辿り着けない。地元の人間から話を聞く必要がある。この街の裏側を知っている人間から。
昨夜の女の顔が、頭に浮かんだ。
(どうでもいい、と言ったはずだが)
ラルフは上着を手に取り、部屋を出た。
つづく




