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怖い顔の天才エリートは、歓楽街の踊り子に恋を教わる  作者: 江合 花果


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1/1

道に迷った夜、踊り子に借りを作った

 王都から馬車で三日。エルフィード商業都市は、夜になっても眠らない街だった。


 石畳の上に屋台が並び、どこかから楽器の音が流れてくる。酒場の扉が開くたびに笑い声がこぼれ、香辛料と焼き肉の匂いが路地に漂っている。


 活気がある。それはわかる。

 だが。


(……どこだ、ここは)


 ラルフ・ヴァレンティは手元の略図と、目の前の路地の分岐を交互に見比べた。


 三本ある。略図には「東通りを北へ」と書いてある。東がどこかわからない。夜空の星で測ろうとしたが、屋台の明かりが多すぎて使い物にならなかった。


(グレンが腹を壊さなければこうはなっていない)


 責任の所在は明確だった。


 部下のグレン・アッシュは本日夕刻から急激に体調を崩し、宿のベッドで「申し訳ございません、もう駄目かもしれません」と遺言めいたことを言い残して沈黙した。道案内は彼の担当だった。視察は予定にあった。グレン抜きで動くのは非効率だが、視察を翌日に回すのはもっと非効率だ。


 ゆえにラルフは一人で出た。

 ゆえに今、完全に迷っている。


(これは部下の管理不足だ)


 断じて、自分の方向感覚の問題ではない。


 今回の視察には、表向きの名目がある。エルフィード領の財政状況の確認、及び通商路の実態調査。それ自体は事実だ。


 だが王太子から直接渡された封書には、もう少し踏み込んだ内容が書かれていた。


 ——エルフィード領における税収の不審な減少について、原因を特定せよ。


 三年前から始まった税収の落ち込みは、表帳簿の上では「商業の不振」として処理されている。だが数字の動きが、ラルフには引っかかった。不振にしては、落ち方が綺麗すぎる。まるで誰かが計算して、少しずつ抜いているような落ち方だった。


 金がどこかへ消えている。

 誰が、どこへ——それを掴むために、ラルフはエルフィードに来ていた。


 三本の路地の前で立ち止まること二分強。

 ラルフは潔く現状を認めた。


(迷子だ)


 通行人に聞けばいい。それはわかっている。だが周囲を見回すと、酔客、眼光の鋭い行商人、どういうわけか鶏を抱えた老人——有益な情報を持っていそうな人間が、どこにも見当たらなかった。


 そのとき。


「あの」


 声がした。右後方。


 振り向くと、石造りの建物の裏口らしき扉の前に、若い女が立っていた。


 薄い布地の衣装。腰に色とりどりの飾り紐。額にうっすら汗の光。扉の上の看板には「ラ・チェーラ座」とある。


 この女が何者か、ラルフにはわからなかった。場末の興行に携わる人間の区別など、上流社交界で生きてきたラルフの知識にはない。ただ、劇場の裏口から出てきた、ということだけは判断できた。


「もしかして迷子ですか」


 ラルフは即座に答えた。


「違う」


「じゃあなんで同じ場所で地図を三回見てるんですか」


(……見ていたか)


「……視察だ」


「同じ路地を三回?」


「念入りな視察だ」


 女は「はあ」と言った。納得していない「はあ」だった。


(この女、馬鹿にしているのか)


 馬鹿にしている様子はない。ただ純粋に、目の前の現象を把握しようとしている顔だった。それがかえって処理しにくかった。


「……赤煉瓦亭への道を知っているか」


「知ってますよ」


「教えろ」


「その前に一個だけ聞いていいですか」


(なぜ条件が付く)


「……なんだ」


「怒ってますか?」


「怒っていない」


「じゃあなんでそんな怖い顔してるんですか」


 ラルフは一秒、止まった。


(怖い顔)


 怖い、と言われたことがなかった。近寄りがたい、冷たい——そういう評は耳に入ったことがある。だが「怖い顔」と面と向かって言われたのは、記憶にない。しかも、怯えた様子が微塵もなく。


(俺の顔は、怖いのか)


 我ながら間抜けな問いだと思いながら、しかし反論が出てこなかった。怖くない、と言い切るには、自分の顔を客観的に見たことがなさすぎた。


「……案内しろ」


「返事になってないですよ」


「案内しろ」


「……はい」


 女はあっさりと歩き出した。深追いしない。怒りもしない。ただ「まあそういう人もいるか」という顔で前を向いた。


(奇妙な女だ)


 ラルフはその背中を三歩遅れて追った。


 歩きながら、女が口を開いた。


「視察って言ってましたけど、どこかのお役人ですか」


「そうだ」


「王都から?」


「なぜわかる」


「訛りがないので。あと靴」


「靴?」


「この辺の石畳、結構でこぼこしてるんです。慣れてる人は自然と歩き方が変わるんですけど、あなたまっすぐ歩いてる。よそ者だなって」


(靴と歩き方で判断したのか)


 情報の収集経路として、それは有効だ。自分も似たような判断を人相手にする。ただし「靴」を起点にするというのは、ラルフの発想にはなかった。


「……観察眼がある」


「商売柄です」


「劇場の、何をやっている」


「踊り子です」


 踊り子。王都の社交界で夜会の余興として楽団が演奏することはある。だが「踊り子」という職業の人間と言葉を交わしたことは、記憶にない。接点がなかった。


「踊り子というのは、劇場で踊って生計を立てているのか」


「そうです」


「毎日か」


「週に五日くらいは」


「それで食えるのか」


 女が少し振り向いた。


「食えますよ。失礼な」


「失礼ではない。純粋な確認だ」


「確認の仕方が失礼なんです」


(そうか)


 この手の指摘に対する適切な返しを、持ち合わせていなかった。


「その劇場、ラ・チェーラ座というのか」


「そうですよ。知ってますか?」


「知らない」


「正直ですね」


「知らないものを知っていると言っても意味がない」


 女は少し間を置いてから「まあそうですね」と言った。


「ラ・チェーラ座は、この街では大きい劇場か」


「そこそこです。もっと大きいのは、北区に一軒あります」


「北区」


「マルディ座です。あっちは貴族の方もよく来ますよ。うちはもう少し、庶民向けで」


(マルディ座)


 その名前に、ラルフはわずかに反応した。


 表帳簿の中に、その名前があった。エルフィード領内の娯楽産業として、税収の項目に記載されていた。だが申告額が、この街の規模にしては——


(少なすぎる)


 頭の中で数字が動いた。


(後で確認する)


「……お前、この街に長いか」


「生まれてからずっといますよ」


「マルディ座のことは詳しいか」


 女の歩みが、ほんの一瞬だけ変わった。止まったわけではない。遅くなったわけでもない。ただ——何かを測るような、微妙な間があった。


「……普通には知ってますよ。なんでですか」


「視察の参考だ」


「視察、さっきまで迷子になってたやつですよね」


「念入りな視察だと言った」


「……はい」


 女は前を向いた。


(なぜ間が空いた)


 大通りをひとつ越えたところで、「赤煉瓦亭」の看板が見えた。


「こちらです」


 女が振り向いた。わずかに息が上がっている。


「……確かに」


 ラルフは懐から金貨を取り出した。


「受け取れ」


 差し出した。


 女は金貨を見た。次に顔を上げたとき、表情が変わっていた。


「……安く見ないでください」


 声は静かだった。だが、怒っていた。


「道案内の対価だ。相応の額のはずだが」


「相応かどうかの話じゃないです。困ってそうだったから声をかけた、それだけです。そこにお金を出されたら、最初から打算があったみたいで嫌じゃないですか」


「……善意で、見返りなしに声をかけたということか」


「そうです」


「なぜ」


「なぜって、困ってたから、としか言えないですよ。理由があって親切にするんですか、あなたは」


(理由がなければ、親切にする道理がない)


 ラルフにとっては当然の前提だった。人は何かを得るために動く。得るものがなければ動かない。


 だがこの女の顔を見ると、その前提が通じない世界が確かに存在するように見えた。


「……失礼した」


 女の目が、丸くなった。二秒、三秒——それからぽつりと言った。


「……貴族の方って、謝るんですね」


「謝らないと思っていたのか」


「思ってました」


「全員が謝らないわけではない」


「そうなんですか。初めて見ました」


「……そうか」


 女はしばらくラルフの顔を眺めてから、小さく笑った。


「面白い方ですね、あなた」


「面白い」


「怖い顔で謝って、そうかって言う人、なかなかいないので」


(それの何が面白いのか)


 理解できなかったが、不快ではなかった。


「お前、名前は」


「セラです。セラ・マルコ」


「……ラルフ・ヴァレンティだ」


「聞いてないですよ」


「名乗るのが筋だろう」


「……そうですね」


 セラは少し意外そうな顔をして、それから「そうですね」と繰り返した。悪くない、という顔だった。


「では、お気をつけて。次は地図、ちゃんとしたの用意してもらってください」


「部下に言っておく」


「その部下の方、今日はご一緒じゃないんですね」


「……ああ」


「王都からわざわざ来た偉そうなお役人が、夜の見知らぬ街を一人でうろうろしてるの、なんか変だなとは思ってたんです」


 それだけ言って、路地の角を曲がった。

 消えた。


 ラルフは「赤煉瓦亭」の看板の前で、しばらく立っていた。


 セラ・マルコ。ラ・チェーラ座の踊り子。マルディ座の話をしたとき、確かに間があった。


 変わった女だった、と片付けるつもりだった。

 できなかった。


 宿に入り、階段を上がり、部屋に戻った。上着を脱ぎ、ベッドに横になる。窓の外から楽器の音が聞こえた。


(どうでもいい)


 目を閉じた。

 何故か、なかなか眠れなかった。


     ◇


 翌朝、廊下に宿の主人が立っていた。


「ヴァレンティ様。部下の方ですが、夜中からかなり具合が悪くなりまして。医者が、療養所に移した方がいいと」


 扉の向こうから、グレンの呻き声が聞こえた。


「……わかった」


 ラルフは視察の日程を、頭の中で静かに組み直した。


 残り六日。正規のルートだけでは、真実には辿り着けない。地元の人間から話を聞く必要がある。この街の裏側を知っている人間から。


 昨夜の女の顔が、頭に浮かんだ。


(どうでもいい、と言ったはずだが)


 ラルフは上着を手に取り、部屋を出た。


つづく

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