38話 特別商談
オレが商人のマルコから「追加で塩を買わないか」と打診を受けたのは、昨日の夕刻だった。
宿屋の食堂で声を掛けられたとき、胸の奥がじんわりと熱くなったのを覚えている。
あのベテラン商人――数多の商談を渡り歩き、幾度も荒波を越えてきたであろう商人に声を掛けられるということは、それだけで一人前の商人に近づいた証のように思えたのだ。
(オレの商人レベル、上がったんじゃないか?)
思わず頬が緩む。
「主、シャムも行くニャ!」
足元からひょいと飛び上がり、シャムが器用にオレの背中へとよじ登る。黒と茶色の混じった毛並みが陽光を受けてきらりと光った。
「露店目当てだろ」
「ち、違うニャ。主の護衛ニャ!」
言い訳をしながらも、シャムはさっさとバックパックの中に潜り込む。商人ギルドの近くには香ばしい肉串や甘い焼き魚の露店が並ぶ。狙いはどう考えてもそっちだ。
オレは苦笑しつつ、シャム入りのバックパックを背負い直し、商人ギルドへと向かった。
◆ ◆ ◆
石造りの重厚な建物――商人ギルドは今日も賑わっていた。
大きな扉をくぐると、すぐに喧騒が耳を打つ。
「小麦は三日後に届く!」
「いや、その値では赤字だ!」
「次の船はいつ出る?」
帳簿を抱えた商人たちが忙しなく行き交い、革靴の足音と羽ペンの走る音が重なり合う。香辛料や革の匂いが混ざり合った、独特の空気が満ちていた。
受付の女性に声を掛ける。
「マルコさんから呼ばれているカズーと言います」
「はい、聞いております。こちらへどうぞ」
丁寧な応対に、背筋が自然と伸びる。
どうやらマルコさんがきちんと段取りを整えてくれていたらしい。
案内されたのは二階の個室だった。分厚い絨毯が足音を吸い込み、壁には繊細な筆致の風景画が飾られている。棚には色鮮やかな陶器、光を受けて虹色に輝くガラス細工が整然と並んでいた。窓辺から差し込む午後の光が、それらを柔らかく照らしている。
部屋の中央、重厚な机の前にマルコは座っていた。
「カズーさん、待っていましたよ」
落ち着いた声。だが、その目にはわずかな焦りが見える。
「マルコさん、お待たせしました」
オレが腰を下ろすのを待ってから、マルコも椅子に座った。商談の礼儀を崩さないあたり、流石だ。
「ご連絡しました通り、塩を急ぎ売却したいのです。急遽、別の大口商品を仕入れることになりましてね。ですが、塩の売買は基本的に定期取引。今この量をさばくのは難しい」
彼は指先で机を軽く叩く。
「そこでカズーさん。前回よりお安くお譲りします。特別に、金貨五枚で塩百袋で如何でしょうか?」
(安い……!)
市場価格から考えても破格だ。
オレにはアイテムボックスがある。保管も運搬も問題ない。
今は買い時だ。
「わかりました。買わせて頂きます」
即答だった。
マルコは安堵したように胸を撫で下ろす。
「助かります。明日、品を用意しておきますので、またこちらへ」
「はい、わかりました」
商談は成立した。
ギルドを出ると、シャムがひょこりと顔を出す。
「主、焼き串の匂いがするニャ」
「はいはい、帰りに一本な」
こうしてその日は、上機嫌のまま終わった。
――翌日。
再び訪れた商人ギルドは、昨日と変わらぬ喧騒に包まれていた。
マルコは倉庫スペースの一角に立ち、整然と積まれた麻袋を指し示す。
「カズーさん、用意できております。どちらに置きますか?」
百袋の塩。白い粉が袋の隙間からわずかに覗いている。
本来なら荷馬車が必要な量だ。
オレは一瞬だけ言い淀む。
(この言い訳、あまり使いたくなかったんだが……)
「実は、私は魔法のバックを持っています」
そう言って、背中のバックパックを掴んだ。
(本当はアイテムボックスだけどな)
マルコの目が見開かれる。
「それは……随分と貴重な品を」
周囲の視線も集まり始める。
軽く咳払いをし、オレは手早く作業に移った。
【塩】を一袋ずつアイテムボックスへ収納する。
意識の中で数が積み上がっていく。
【塩】×99。
一枠を占有した表示が脳裏に浮かぶ。
最後の一袋だけは、わざとバックパックへ。
(10kg、こうして持つとかなり重いな……)
ずしりとした重みが肩にかかる。
そのときだった。
倉庫の入口から、荒い息遣いが響いた。
「カズーさん!!」
振り向くと、鎧姿の冒険者が駆け込んでくる。額には汗、顔色は蒼白だ。
「大変だ! あんたの仲間のエルフたちが――拐われた!」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
倉庫のざわめきが遠のく。
耳鳴りがする。
「……は?」
喉がひどく乾く。
「仕事の帰り道で、武装した連中に襲われたらしい! エルフ全員がやられた、連れ去られたって……!」
視界が、ぐらりと揺れた。
背中の塩の重みが、急に現実味を失う。
(冗談だろ……?)
昨日まで、笑っていた。
仕事を始め、街で交流し、食事を囲んで語り合った仲間たちが。
準備も覚悟も関係ない。
日常は、音もなく裂かれる。
オレは無意識に拳を握り締めていた。
商人としての計算も、利益も、塩の相場も――
すべてが遠くへ吹き飛ぶ。
「どこだ!?」
自分でも驚くほど低い声が出た。
「どこへ連れて行かれた!?」
胸の奥で、何かが静かに燃え始める。
商談の成功に浮かれていた昨日の自分は、もういない。
そしてオレは学ぶ。
〈拉致は突然起こる〉
と言うことを。




