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異世界から学ぶライフスタイル 〜第三部 渇望を求めて〜  作者: カズー
第七章

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36話 諦め

 オークの群れが、地鳴りのような足音とともに全方位から迫ってくる。


 木々の隙間を埋め尽くす灰色の巨体。低く唸る声。湿った土を踏み砕く重い衝撃。

 数は、圧倒的だった。ざっと見積もっただけでも百、いや、それ以上。視界の端から端まで、牙を剥いた影がうごめいている。


 とてもじゃないが、全員が生き残れるとは思えない。


 逃げ場を探そうと振り向くが、どの方角にもオークがいる。木々の間を縫うように迫る影。退路は、完全に断たれていた。


 あと一分もすれば、あの巨体が一斉にこちらへ殺到してくるだろう。


 喉がひりつく。

 背中を、じわりと冷たい汗が伝う。


 オークから放たれる剥き出しの殺気と威圧感が、空気を震わせながらこちらに押し寄せてくるのがわかる。まるで見えない濁流に飲み込まれるようだ。呼吸が浅くなる。足が震える。


 ――終わりだ。


 諦めが胸をよぎった、その時だった。


「カズー、オークが迫っているわ!どうするの!?」


 ケイシアの叫びが、張り詰めた空気を切り裂く。


 振り向くと、彼女の額には汗が滲み、手にした弓がかすかに震えている。それでも、その瞳は必死に活路を求めていた。


「わからない!もう逃げる場所が無いんだ…」


 自分でも驚くほど弱々しい声だった。


 その言葉を聞いたケイシアは、一瞬、動きを止め、目を見開いたまま固まる。


(……こんなオレに、呆れたんだろう)


 リーダーのくせに、打つ手なしと叫ぶだけ。

 自嘲が胸を刺す。


 だが次の瞬間、ケイシアは強く唇を結び、何かを思い出したように顔を上げた。


「カズー! オークに効果あるかわからないけど……猪から逃げる時に、木に登ったことがあるわ!」


 猪。木に登る。


 その言葉が、暗闇の中の火花のように閃く。


 オレは即座に周囲を見回した。

 幸い、ここは古い森だ。幹の太い大木がいくつも立っている。


「よし、皆、木に登れ!急げ!」


 自分でも驚くほどの声が出た。

 迷いは、もうない。


 仲間たちが一斉に駆け出す。

 鎧が擦れる音。枝が折れる音。荒い呼吸。


 オレも目の前の大きな木へ飛びつく。幹はごつごつしていて、指が引っかかる。必死に腕へ力を込める。靴底が樹皮を削る。


 爪が痛む。腕が悲鳴を上げる。


 それでも登る。


 ――生きるために。


 ようやく二メートルほど登ったところで、地面が震えた。


「グオー! グオー! グオー!」


 オークの群れが到達したのだ。


 巨体が次々と木々の間から現れる。

 牙は黄ばんで鋭く、よだれが糸を引く。赤く濁った目が周囲を見回している。


 だが、そこに“獲物”の姿はない。


 オークたちは戸惑ったように鼻を鳴らし始める。


「ブオー! ブオー! ブオー!」


 湿った鼻が地面を擦り、空気を嗅ぐ。

 その仕草は獣そのものだ。


(……鼻が効くのか)


 嫌な予感が背筋を這う。


 次の瞬間、何体ものオークが一斉にこちらを見上げた。


 目が合う。


 赤い瞳が、確実にオレたちを捉えた。


「グオオオオ!」


 怒号とともに、オークが木へ体当たりする。

 幹が大きく揺れる。


 思わず枝にしがみつく。


 さらに別のオークが、太い腕で幹を掴み、登ろうとする。だが、分厚い体格と突き出た牙が邪魔をしてうまく体を引き上げられない。爪は樹皮を削るだけで、重い体はずるりと滑り落ちる。


 何度も、何度も挑戦するが――登れない。

 地面に落ちるたび、怒りに満ちた咆哮が森に響き渡る。


 だが、木の上にいるオレたちには届かない。


 荒い呼吸を整えながら、仲間たちに声をかける。

「どうやら……オークは木を登れないようだ。皆、オークが去るまで木で待機だ!絶対に木から降りるな!」


 あちこちの木から、小さく、しかし力強い返事が返る。

「わかったわ!」

「持ちこたえるぞ!」

「ニャ!」


 オークたちはしばらく木を揺らし、吠え、牙を鳴らしていた。だがやがて、届かぬ獲物に苛立ちを募らせながらも、次第に動きが鈍くなっていく。


 それでも油断はできない。


 木の上で、オレは枝を握りしめたまま、ゆっくりと息を吐く。


 さっきまで諦めかけていた命が、まだここにある。

 下では、牙を剥いた怪物たちがうろついている。

 だが今は、ほんのわずかでも希望がある。


 ――生き延びる。


 その一点だけを胸に、オレはじっと、森で唸りを聞き続けた。


 ―――一時間後。


 腕が、痺れている。


 指先の感覚が薄れ、枝を握る力が弱まっていくのがわかる。それでも離すわけにはいかない。二メートルとはいえ、落ちればただでは済まないし、その下には牙を剥いたオークが待っている。


 恐る恐る木の下を覗き込む。


 ……いた。


 オレが登った木の真下に、三体。さらにその周囲にも十体以上。

 オークたちは、まるで根を張ったように動かず、ただじっと上を向いている。


 赤く濁った目が、オレを射抜いている。


「グルルル……」


 低い唸り声が、絶え間なく響く。

 奴らは諦めていない。


「皆、大丈夫か?」


 できるだけ平静を装って声をかける。


「大丈夫ニャ!」

 シャムの明るい声が、少し離れた木から返ってくる。


「カズー、大丈夫よ!」

 ケイシアの声も聞こえる。震えはあるが、意志は強い。


「こっちも大丈夫だ!」

 ベテラン冒険者チームの一人が、太い声で応える。


 これらの声に、わずかだが救われる。

 まだ誰も落ちていない。まだ生きている。


 しかし、時間は味方ではなかった。


 ―――日暮れ。


 空がゆっくりと赤く染まり、森が血の色に包まれていく。

 やがて赤は紫に、紫は群青へと変わり、木々の輪郭が闇に溶けていく。


 夜が来る。


 オレは再び下を確認する。


 ……オークは去らない。


 暗闇の中でも、奴らの目だけが鈍く光って見える。

 ときおり、牙を打ち鳴らす音が響く。


 ここで、夜を明かすしかないのか。


 枝に跨ったまま、背を幹に預ける。

 眠れば落ちる。落ちれば終わりだ。


 まぶたが重い。

 だが、閉じることはできない。


 夜の森は冷え込む。風が吹くたびに、木が揺れ、身体が軋む。そのたびに心臓が跳ねる。


 オークは、眠らない。


 ずっと、ずっと、下で待ち続けている。


 ―――翌朝。


 鳥のさえずりが聞こえたとき、自分がまだ生きていることに気づいた。


 ほとんど一睡もできなかった。

 腕も脚も、棒のようだ。背中は痛みで固まっている。


 それでも、声を出す。


「皆、大丈夫か?」


「……大丈夫ニャ!」

 昨日より少しかすれたシャムの声。


「カズー、大丈夫よ!」

 ケイシアも無事だ。


「こっちも大丈夫だ!」

 ベテランたちも、まだ持ちこたえている。


 朝日が森を照らす。

 その光の中に、はっきりと浮かび上がるオークの群れ。


 ……数は減っていない。


 むしろ、増えているようにすら見える。


 奴らは魔物だからなのか、眠る様子がない。

 ただ、じっと、こちらを見上げている。


 逃げ場は、まだない。


 ―――昼頃。


 限界が近い。


 同じ姿勢を続けたせいで、全身が悲鳴を上げている。

 仲間たちの返事にも、はっきりと疲労が滲んでいた。


 このままでは、落ちる者が出る。


 その時。


「主、大丈夫ニャ?」

 枝を軽やかに伝い、シャムがオレのいる木へと移動してきた。猫のしなやかな動きだが、顔には疲労が浮かんでいる。


「そろそろ、皆厳しそうだ」


 下を見れば、相変わらずオークの群れ。

 そのとき、シャムの耳がぴくりと動いた。


「主、近くにたくさんの人間が来ているニャ!」


「人間!? 冒険者か?」


「わからないニャ。でも、たくさんいるニャ!」


 希望が、胸に灯る。


「よし! 合図を送ろう!」


 オレは片手で枝にしがみつき、もう片方で魔力を練る。


 空へ向かって、魔法を放つ。


「マルチファイアブレード!」

 炎の刃が何本も空へ駆け上がる。


「ファイアアロー!」

 火矢が尾を引きながら天を裂く。


「ファイアボール! ウィンドボール! ウォーターボール! サンドボール!」

 火、風、水、砂――

 色とりどりの魔法が連続して炸裂し、空に花のような光を咲かせる。


 その瞬間。


 森の奥から、金属の擦れる音と号令が響いた。


 木々の間から現れたのは、鎧に身を包んだ兵士たちだった。


 かなりの数だ。

 整然と並び、弓を構えている。


「放て!」


 一斉に放たれた矢が、空気を裂く。


 次の瞬間、オーク数体が喉を射抜かれ、胸に矢を受け、頭を矢で貫かれて倒れていった。


「グオオオ!」


 怒号とともにオークたちが兵士へ突進する。


 だが、前列の兵士たちは鉄の盾を構え、槍を突き出す。


 鈍い衝突音。


 鉄の盾が衝撃を受け止め、槍がオークの腹や胸を貫く。


 後列からは次々と矢が放たれ、オークが地に崩れ落ちていく。


 統率された動き。

 無駄のない連携。


 森は瞬く間に戦場と化し、そして――静まった。


 最後のオークが倒れる。


 土煙の向こうに、動く影はもうない。


 オレは枝に額を預け、深く息を吐いた。


「……助かった」


 全身の力が抜ける。


 仲間たちも、次々と木から降り始める。

 震える脚で地面に立ち、互いの無事を確かめ合う。


 オレは空を見上げる。


 青い空。

 何事もなかったかのような静けさ。


 ケイシアのお陰で生き延びることができた。


 あの木の上での一昼夜は、恐怖と苦痛に満ちていた。

 だが同時に、生き残るための大切な教訓を、オレに教えてくれたのだった。


 そしてオレは学ぶ。


〈木の上は安全地帯になる〉


 と言うことを。

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