34話 魔法の探索
薄暗い森の奥、湿った土の匂いと朽ち葉を踏みしめる微かな足音だけが、静寂を破っていた。
視線の先にいる魔物――その名はオーク。
背丈は人間とほぼ同じか、わずかに高い程度だろうか。だが、纏う威圧感は比べ物にならない。人型ではあるものの、その顔は豚というよりも、牙を剥いた猪に近い。鼻先は低く潰れ、ぎらつく小さな眼は常に獲物を探しているかのように周囲を睨んでいる。
分厚い首から肩へと続く筋肉は異様なまでに発達し、まるで生身の上に筋肉の鎧を重ねているかのようだ。腕は丸太のように太く、握られた粗末な棍棒でさえ凶器にしか見えない。
そして何よりも目を引くのは、口元から反り返るように突き出た二本の長い牙だった。黄ばんだそれは鈍く光り、あれで一突きでもされれば、鎧越しであろうと致命傷は免れないだろうと直感させる。
見つけたオークは、今のところ一匹。
オレたちは、ベテラン冒険者チームを加えて総勢八人と一匹――シャムを含めれば、だ。戦力だけを見れば、単体のオークならば討伐は可能なはずだ。むしろ、連携が取れれば危なげなく仕留められるだろう。
だが、胸騒ぎが消えない。
オレは全員に手振りで静止を伝え、声を潜める。
「他にも魔物がいるかもしれない。もう少し様子を見よう」
森は広い。単独行動とは限らない。オークが群れる習性を持つ可能性も十分にある。
やがて、オークは鼻をひくつかせながら、ゆっくりと森の奥へ進み始めた。時折立ち止まり、耳を動かし、辺りを警戒している。
「良し、気づかれないように追跡しよう」
オレは意識を集中させ、《スキャン》のスキルを発動する。視界の奥に、淡い光の粒が浮かび上がる。敵性反応を示す赤い光点が、前方に一つ。
慎重に距離を保ちながら、足音を殺して追う。
―――最初のオーク遭遇から10分後。
追跡していたオークが、不意に足を止めた。茂みの向こうから、もう一つの赤い光点が近づいてくる。
やがて姿を現したのは、別のオーク。どうやら別方向から移動してきたらしい。低い唸り声で短く何かを交わすと、二匹は並ぶようにして再び森の奥へ進み始めた。
嫌な予感が、現実味を帯びる。
―――最初のオーク遭遇から20分後。
更に別方向から、二つの赤い光点が接近。茂みをかき分け、現れたのはまた別のオークが二匹。
これで四匹。
木々の間を進むその姿は、まるで森そのものが生き物のように、ゆっくりと数を増やしているかのようだった。
背中に冷たい汗が流れる。
―――最初のオーク遭遇から30分後。
重い足音が地面を震わせる。今度は四匹。別の方向から合流し、ついに八匹となった。
オレたちと同じ数だ。
ベテラン冒険者チームの実力は未知数だが、こちらにはケイシアがいる。彼女は優秀だが、決して前衛向きではない。万が一包囲でもされれば、守り切れる保証はない。
(一次撤退するか……)
そう考え始めた、その時だった。
《スキャン》のスキルで現れた視界の端で、新たな赤い光点が次々と灯る。
別方向から、さらに八匹。
合流し、合計十六匹。
もはや躊躇は出来ない。
空気が変わる。森の静寂が、どこかざわめきに満ちる。遠くから聞こえる枝の折れる音、低い唸り声。まるで森全体がオークで満ちているかのようだ。
オレは即座に判断する。
「魔物の数が多過ぎる。一次撤退しよう」
そう指示を出した瞬間、シャムの鋭い声が森に走った。
「主、左右からオークの群れが来るニャ!」
胸が跳ねる。
即座に探索スキルを展開。
「スキャン!」
視界に浮かび上がる赤い光点が、一気に増殖する。前方の十六匹だけではない。左右から、無数の赤い光が迫ってくる。
まるで血の雨が降るかのように、視界が赤に染まる。
左右から包囲するように、じわじわと距離を詰めてくる光点の群れ。足音が重なり、地面が微かに震える。鼻を突く獣臭が風に乗って流れてきた。
囲まれている。
森の奥へ続く道は、もはやただの獣道ではなく、罠の入り口にしか見えなかった。
喉がひりつく。
この数……尋常ではない。
オークは群れを成している。それも、狩りをする側として。
オレたちが追っていたのではない。
―――追い込まれていたのは、オレたちの方だ。
ざわめく森の空気が、さらに重く沈んだその時だった。
ケイシアが、張り詰めた声でオレに告げる。
「別の冒険者チームたちがオークから逃げているわ!」
その声には、はっきりとした動揺が滲んでいた。
どうやら、オークの群れはただ集結しているのではない。何かを――誰かを追っている。その進行方向が、偶然にもこちらへ向かっているということか。
「ケイシア! 逃げている冒険者チームの場所は何処だ?」
オレは即座に問い返す。
「いっぱいいるわ! 左右からと、前方からもいるわ!」
左右、そして前方。
三方向。
(どういう事だ!?)
一つのチームではない。複数の冒険者チームが、別々の方向から逃げてきている? それを、オークの群れが追い立てている?
まるで――
森全体で狩りが行われているかのようだ。
その時、背後の茂みが激しく揺れた。
シャムの鋭い声が飛ぶ。
「後ろからオークが1匹と人間たちが来るニャ!」
背筋に冷たいものが走る。
「わかった! 皆、戦闘準備だ!」
短く、強く指示を出す。
一斉に、金属音が鳴り響く。剣が抜かれ、槍が構えられ、弓に矢が番えられる。魔法使いは詠唱の準備に入る。緊張で空気が張り詰め、森の静寂が一瞬で戦場のそれへと変わった。
「来たニャ!」
シャムの合図と同時に、木々の間から黒い影が飛び出す。
現れたのは、オーク1匹。
だが、その様子はこれまで見た個体とは明らかに違っていた。
目を血走らせ、荒い呼吸を繰り返しながら、地面を蹴る。その脚力は尋常ではない。筋肉が爆発するように収縮し、巨体とは思えぬ速度で一直線に駆け抜けてくる。
(なんて早いスピードだ!)
反応が、ほんの一瞬遅れた。
だが――
そのオークは、オレたちに一瞥もくれなかった。
牙を剥き出しにしながら、まるで何かから逃げるように、そのまま横を走り抜けていく。風圧が頬を打ち、土煙が舞い上がる。
誰も、攻撃できなかった。
剣を振る間もなく、矢を放つ暇もなく、ただ構えたまま見送るしかなかった。
森の奥へと消えていく背中を、呆然と見つめる。
静寂が、ほんの一瞬だけ戻る。
だがすぐに、背後から複数の足音が迫ってきた。
鎧の軋む音。荒い息遣い。
後方から、別の冒険者チームが飛び出してくる。
「オイ! オークを見なかったか!?」
額に汗を浮かべ、必死の形相で叫ぶ男。
ベテラン冒険者チームの一人が即座に答える。
「あっちに走って行ったぞ」
森の奥を指差す。
「ありがとう。よし、追いかけるぞ!」
そのチームは、止まることなく走り去った。焦燥と怒気を背負い、一直線にオークの消えた方向へ。
足音が遠ざかる。
再び、森に重苦しい空気が戻る。
(どうする? オレたちも追いかけるか?)
だが――
左右から迫っているオークの群れ。
前方にも反応。
《スキャン》の視界には、無数の赤い光点が散らばり、収束し、動いている。
考えがまとまらない。
その時、シャムが低く唸るように告げる。
「主、前方からもオークの群れが来たニャ!」
前、左右、そして背後には通り過ぎたルート。
完全に、包囲の形。
続けて、ケイシアの声がゲームシステムを通して、直接脳裏に響く。
「……先程の冒険者チームは、全員オークに殺られたわ」
時間にして、わずか数分。
追いかけた先で、瞬時に殲滅された。
喉が凍りつく。
(そんな馬鹿な……)
いや、違う。
オレは、そこでようやく気が付いた。
逃げていたのは、オークではない。
追われていたのは、冒険者たち。
そして、逃げたように見せた一匹のオーク。
あれは――誘導だ。
(オレたちは罠に嵌っている!)
森の構造、群れの動き、複数方向からの追い込み。
最初に見た一匹は、囮。
合流して増えていったのも、自然な集結ではない。計算された配置。
オークは、ただの獣ではない。
狩りを理解している。
戦術を持っている。
森の奥から響く低い咆哮が、まるで勝利を確信した号令のように聞こえた。
赤い光点が、ゆっくりと、しかし確実に距離を詰めてくる。
一歩、また一歩。
包囲網が、閉じていく。
胸の奥が、ひりつくように痛む。
―――油断。
単体なら倒せる。
数が増えても何とかなる。
そう思った、その慢心。
オレは、この瞬間、骨の髄まで理解した。
この森では、真理だ。
それは、ただの教訓ではない。
そして今、その代償を払うのは――
オレたちかもしれない。
そしてオレは学ぶ。
〈一時の油断が死を招く〉
と言うことを。




