16話 ケイシア
幼いころ、私は自分が他の人と違うとは思っていなかった。
世界は、ただ静かだった。
風が木々を揺らしても、鳥が空を舞っても、祭りの日に人々が集まっても、私の世界には音がなかった。けれど、それは欠けているという感覚ではなかった。物心ついたときからそうだったから、私にとってこの静寂こそが「普通」だった。
私は耳が聞こえない。
それを不便だと理解したのは、ずっと後のことだ。
母は、いつも優しかった。言葉の代わりに、表情や手の動き、触れるぬくもりで、私にたくさんのことを教えてくれた。私の目をまっすぐ見て、ゆっくりと口を動かし、何度でも伝えようとしてくれた。その姿は、今でもはっきりと思い出せる。
父はいない。
最初は、それが当たり前だと思っていた。他の家族と自分たちを比べることがなかったからだ。けれど、里の子どもたちの家に遊びに行き、父と母が並んでいる姿を見たとき、ようやく気づいた。
――私の家には、父がいないのだと。
私は、人の身振りや仕草、視線、口の動きから、ある程度その人の考えを読み取ることができた。だから、日常生活に大きな支障はない。ただ、どうしても理解が遅れることはある。
それが原因で、幼いころは仲間外れにされることもあった。
いじめ、と呼ぶほど酷いものではない。ただ、一緒に遊んでもらえない。近づいても、少し距離を置かれる。それだけだが、子どもにとっては十分に辛かった。
そんな私の心を癒してくれたのは、動物たちだ。
私は動物が好き。
犬や猫は、私が耳が聞こえなくても、父がいなくても、何も気にしない。ただ尻尾を振り、舌を出して、そこにいてくれる。それが、たまらなく嬉しかった。
犬たちと戯れ、森を走り回る私を見て、ある日、狩猟リーダーが近寄ってきた。
狩猟チームに入らないか、と。
私は弓が得意だ。音のない世界に生きる私は、余計なものに気を取られず、ただ的だけに意識を集中できる。弓を引き、息を整え、放つ――その一連の動作は、私にとって自然なものだ。
狩猟チームに入ると、すぐにチームの一員として認められた。言葉が喋れなくても、結果がすべてを語ってくれた。
そんな私の日常に、ある悲しい出来事が訪れた。
母が、家から出ていくようになった。
最初は数日で戻ってきた。だから私は、あまり深く考えなかった。けれど、それが何度も続き、やがて母はほとんど家に帰らなくなった。
ある日、私はこっそりと母の後を追った。
知らない家で、母は一人の男と会っていた。二人の距離は近く、母の表情は、私が見たことのないものだった。
それから、母のお腹は大きくなり、やがて子どもが生まれた。
母はその男と、生まれたばかりの赤ん坊を連れて家に来た。私に見せるためだと言わんばかりに。
しかし、それきりだった。
母は、ほとんど家に帰ってこなくなった。
――私のことは、忘れてしまったのだろうか。
胸の奥に、言葉にできない空洞が広がっていった。
―――。
そんな悲しみに沈んでいたある日、一人の旅人が里にやってきた。
私たちとは明らかに違う顔立ちをしていたが、不思議とすぐに里の人々と打ち解けていった。その旅人は魔法を使い、危険な魔物を討伐するほどの力を持っていた。
(すごい力だ)
そう思ったが、完璧ではなかった。
彼は、弓が驚くほど下手だった。
ある日、突然、弓の練習場に現れ、私と同じ距離から矢を射ち始めた。だが、矢は的から大きく外れるばかり。
(危ない……)
私は思わず、彼に弓の持ち方や姿勢を教えた。すると彼は満面の笑みで応える。その後も、彼は弓の練習に来て、ある時、私にお菓子をくれた。
(とても、甘くて美味しい)
そして、彼の足元には、いつも一匹の猫がいた。
(猫に好かれる人に、悪い人はいない)
そう思った。
私は、その猫に会いたくて、彼の家を訪れるようになった。彼は身振り手振りで、必死に私に何かを伝えようとする。その様子が、どこかおかしくて、温かかった。
(面白い人だ……)
果樹園で三人――いや、二人と一匹で過ごしたとき、少しだけ胸がちくりとした。彼と猫は、本当に仲が良かった。まるで長年連れ添った仲間のようだった。
(……少し、羨ましい)
やがて、祭りの日が来た。
彼は、私を祭りに誘った。
母とよく行った祭り。母がいなくなってからは、一度も足を運んでいない。
けれど、彼と猫が一緒なら、不思議と寂しくなかった。色とりどりの灯り、人々の笑顔、踊る影――音は聞こえなくても、祭りは確かに楽しい。
そのとき、偶然、母の男にぶつかった。
母は、私ではなく、その男の心配をしていた。
(私を捨てた母が……)
胸が締めつけられ、私は母から逃げるように踊りの輪の中へ向かった。
―――何故か涙が流れて来る。
彼と猫は、すぐに私の異変に気づき、心配そうな目で私を見る。
その視線に、私は決めた。
(私を、あなたたちの仲間にして!!)
言葉はなくても、気持ちは確かにそこにあった。
静かな世界だからこそ見えるもの、感じられるものがある。
私は、あなた達と生きていく。
そしてオレは学ぶ。
〈静寂は必ずしもハンデではない〉
と言うことを。




