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溺愛王太子の前じゃ男装なんて無意味でした

作者:

現在公開中の連載「男装令嬢は王太子から逃げられない〜義家族から逃げて王太子からの溺愛を知りました〜」の設定を用いた短編です!!ちょっと違うストーリーを楽しんでいただけたらと思います。

侯爵令嬢であるレティシアは、静かにドアを閉めた。古びた蝶番が軋む音を押し殺し、息を潜めて廊下に出る。弟セシルの手を強く握り、漆黒の闇へと身を投じた。

――今夜、すべてを捨てる。


「姉さん……本当に行くの?」


セシルの声は、かすかな震えを含んでいた。月明かりが彼の頬を照らすと、そこにはまだ幼さが残っていた。

レティシアは小さく頷く。


「ええ……もう、ここにいては生きられないわ。私も、あなたも」


頬に夜の風が吹きつけ、レティシアの金色の髪がさらりと揺れた。庭の植え込みからは、虫の羽音が微かに聞こえてくる。


両親を事故で亡くして以来、義母と義妹による嫌がらせは日増しに激しくなった。その光景を目の当たりにしても侍女たちは目を逸らすばかり。貴族の娘として育てられたはずの彼女は、もはや「嫁ぎ先に売るための商品」として扱われていた。


レティシアは、決して自分を誇るような性格ではなかった。けれど、弟だけは守りたかった。たとえ貴族の身分を捨ててでも――。


森を抜け、冷たい夜風に揺れる馬車の中で、レティシアは窓の外を見つめた。かつて王宮で開かれた夜会で出会い、優しい時間を過ごした青年の面影が脳裏をよぎる。



――優しい瞳で笑ってくれたあの方は、私が姿を消すことで何を思うのだろう。



市井に到着したレティシアはすぐに新月の夜にひっそりと開かれている店を訪れ美しい髪の毛を売った。


貴族の娘としての自分を捨てたのだ。

弟のセシルと市井へと姿を消した。

髪の毛を売ったお金があれば数年は市井で暮らせる。

行方をくらましてから数年経てば落ち着くだろう。


数年後レティシアは男装し「レオン」という新しい名前を手に入れ訓練所へと入隊した。


訓練所の生活は厳しかった。それでも、レオンの心には自由があった。朝の剣術、魔力制御の授業、座学、走り込み。息が切れるまでの訓練の中で、汗が肌を伝い、剣の柄が手のひらに食い込む感覚がむしろ心地よくさえ感じられた。


厳格な教官たちは一切の甘えを許さなかった。些細なミスも見逃さず、時には木剣を投げつけて叱責することすらある。だがその中で、レティシア――「レオン」は、少しずつ自分の限界を押し広げていった。

特に親しくなったのは、明るく人懐っこいジェイドと、冷静沈着なアルベルトだった。ジェイドはいつも陽気に振る舞い、どんなに辛い訓練でも笑顔を忘れなかった。


「なあ、レオン。俺らで騎士になって、いつかみんなで酒でも飲もうぜ!」


「私は未成年なんだけど」


「なんだよそれ、冗談だろ~!」


そんな軽口を交わせる存在は、レオンにとって救いだった。笑い合い、ぶつかり合い、そして支え合う


――訓練所の中で芽生えた友情は、血縁以上に強い絆へと変わっていった。


アルベルトは生真面目で無口だったが、観察眼に優れ、誰よりも周囲を見ていた。

「ただ力任せに戦うだけじゃ生き残れない。状況を読むことが何より重要だ」

彼が何度もそう教えてくれたおかげで、レオンは戦術眼を養うことができた。

彼ら三人に加え、食堂で偶然席をともにしたのをきっかけに知り合ったのが、料理好きな少年・マクシムだった。


「この前のスープ、俺が作ったんだ。どう? 美味しかった?」


「えっ……きみが?」


「騎士も体が資本だろ? 食事も戦いのうちさ!」


マクシムは調理係として訓練所の厨房に出入りしながら、レオンたちの栄養管理まで気にかけてくれる存在だった。料理の腕も確かで、彼の作るスープやシチューは、疲れた体を芯から癒やしてくれた。



そんなある日――



「今日の訓練、無茶だったな……」


日が沈んだあと、寮の屋上に腰を下ろしたレオンの隣に、ジェイドがやって来た。


「お前、また最後まで立ってたな。剣の握りもかなり安定してきてる」


「ありがとう。でも……まだまだだ」


「そうやっていつも自分に厳しいよな、お前」


ジェイドが小さく笑って、ぽんと肩を叩いた。


「……本当は、怖いんだ」


レオンはぽつりと漏らした。


「ここで落ちこぼれたら、どこにも居場所がなくなる気がして。私は……後がないから」


思わず本音がこぼれた自分に驚きながらも、ジェイドは何も言わず、それを受け止めた。


「大丈夫。俺もそうだったよ」


「え……?」


「うちは貧乏貴族でさ、次男坊。家には期待されてない。だから、ここで騎士になれなかったら、行き先なんてなかったんだ」


「……ジェイド……」


「だからさ、レオン。俺たち、一緒に騎士になろう。絶対、なろうな」


「……うん」


月明かりが彼の横顔を照らしていた。その笑顔は、温かく、どこか切なげで、それでも前だけを見ていた。


ある冬の日。冷たい風が吹きすさぶ中、訓練所の敷地内で“雪中訓練”が実施された。凍てついた地面に膝をつきながらの長距離行軍。重い装備を背負い、吹雪の中での演習。脱落者が続出する中で、レオンもまた限界寸前まで追い込まれていた。


「……くっ……足が……」


霜焼けになりかけた足を引きずりながら歩いていたそのとき、背中にふわりとマントがかけられた。


「無理すんな。ちょっと休め」


振り向くと、ジェイドとアルベルトが立っていた。


「ここは交代制にしてるはずだろ。自分の責任感だけで倒れたら意味がない」


アルベルトが眉をひそめてそう言うと、ジェイドが大きく頷いた。


「ほら、背中貸すよ。今は無理して頑張るより、ちゃんと生き残る方が大事だ」


支えられながら、レオンはまたひとつ、仲間の大切さを噛みしめた。


訓練所には“最終戦闘試験”と呼ばれる最大の難関があった。実戦さながらの模擬戦で、魔術と剣術を組み合わせた戦術を駆使しなければ勝ち残れない。


「作戦は私が立てる」


そう宣言したのはアルベルトだった。彼の指揮のもと、ジェイドは前衛、レオンは側面突破を担う。

レオンは心を燃やして剣を振るった。指示通りに動く中で、誰かの背を守り、誰かに守られる――それが「仲間」だと知った。チームは最終戦まで勝ち抜き、無事合格。その夜、三人は寮の裏でこっそりと乾杯した。もちろん、マクシムお手製のノンアルコールで。


「俺たち、やったな」


「あぁ。信じて、ついてきてよかった」


「おうよ。次は配属先だな――どこに飛ばされるか、楽しみ半分、不安半分だ」


焚き火の炎がゆらりと揺れ、まるで未来を映すように彼らの目を照らしていた。





半年後、配属先が発表された。壇上の教官がレオンの名を呼ぶ。


「王都警備隊・直属護衛班。王太子付き、ジルクハルト殿下の警護任務に就け」


その瞬間、空気が止まったように感じた。レティシアの背中に、冷たい汗がつっと流れる。


(ジルクハルト……?)


かつて優しい時間を共に過ごした男の名が発せられた瞬間、心臓が跳ねた。


(まさか……でも、気づかれるわけにはいかない)


胸の奥がざわつくのを抑え、彼女はゆっくりと深呼吸した。眉一つ動かさず、騎士としての口調で答える。


「ジルクハルト殿下の直属護衛になれたこと、光栄に存じます。この身に代えて、殿下をお守りいたします」


直属護衛とはいえ、初めは王太子に直接接することもない。遠巻きに見守る役割に過ぎない――はずだった。


(きっと、殿下の視界に入ることもないわ)


そう言い聞かせながらも、胸の奥で不安と懐かしさが静かに混ざり合っていた。


壇上で名が呼ばれてから数日後、レオンは王都の中央衛士棟に配属されていた。


整然と整えられた執務室で、王太子であるジルクハルト・ヴォルヘルムの護衛任務が始まったばかりの頃。レオンは常に背筋を伸ばし、無言で殿下の後ろに控えることに徹していた。


その数歩先を歩く殿下の背は高く、威厳があるのに、時折ふと視線が自分に向けられるのを感じた。そのたびにレオンの心臓は跳ね、喉の奥が焼けるように熱くなった。


(どうか……気づかれていませんように)


そんな祈りを胸に抱きながら、日々は過ぎていった。

ある夕刻、王宮の書庫から出た帰り道。渡り廊下でジルクハルトと二人きりになった時だった。


「……レオン」


名を呼ばれ、レオンは即座に一歩前に出た。


「は。何かご用でしょうか、殿下」


ジルクハルトは少しだけ間を置いてから、微笑のようなものを浮かべて問うた。


「剣の構えが、貴族のそれだな。……教わったのは誰だ?」


「……師は亡父でございます。家は小貴族で亡父は三男でした。平民になりましたが訓練だけは厳しく」


レオンの返答は即興だったが、声に迷いはなかった。王太子はその答えに小さく頷くと、何も言わず歩き出した。

その後ろ姿を見ながら、レオンはそっと息を吐く。


(危なかった……)


けれど、ジルクハルトは気づいていた。

あの目も、あの声も、構えも、剣を交えた夜会の少女と同じだったから。

その夜、王宮の一室。煌びやかな執務机の前で、ジルクハルトは蜂蜜色の瞳の男と向き合っていた。


「……殿下。あの“レオン”と名乗る新入り、どうにも違和感があります」


クロード・アマルフィ。王太子の側近にして、宰相の嫡男。冷静な氷の魔力を内に宿す、政務の才に長けた男だ。


「違和感、とは?」


「動きです。所作、立ち居振る舞い、そして視線の配り方。――あれは、生まれつきの平民ではない。誰かから徹底的に仕込まれた“模倣”に見えます」


「ほう……」


ジルクハルトは、まるで面白がるように眉を上げた。

クロードはさらに言葉を重ねた。


「剣筋は見事です。ですが、戦いの“経験値”が少ない。加えて、私の視線をやけに避ける。何かを隠している目、です」


「……まるで仮面でも被っているような、か?」


「その通りです。殿下。……危険とは言いません。ただ、“本物の顔”を見せるまでは、常に御身のそばに置くべきかと」


「……なるほど。クロード、君の勘はよく当たる」


ジルクハルトは椅子に深く腰を沈めたまま、窓の向こうに目をやった。


(仮面か……いや、仮面にしては、あまりにも懐かしい)


思考は過去へと遡る。あの夜会の月明かり。ドレスの裾が揺れ、優雅に舞った少女。最後にかわした言葉――あの人と、どこか、似ている。


その後も日々の任務の中で、ジルクハルトは“レオン”を意識せずにはいられなかった。

騎士団の訓練では無駄のない動き。礼儀作法も完璧。まるで、何もかもを「隠す」ことに長けた人間。


(この者は、一体何から逃げているのだ?)


疑念はやがて確信へと変わっていった。

ある夜、星が冴えた静かな庭園で、ジルクハルトはそっと問いを放った。


「レオン。……お前に、昔会ったことがある気がする。夜会の会場で」


レオンの身体が一瞬、わずかに震えた。


「それは……殿下の思い違いでは?平民は夜会へ参加することはできません」


静かに言葉を返す声が、どこか怯えていた。

その反応が、すべてを物語っていた。

ジルクハルトはそれ以上は追及しなかった。ただ、彼女が自ら“名を明かす”その日を、じっと待つことにした。

クロードは、そんな主君の内心を誰よりも敏感に察していた。


「……殿下、少々お顔に甘さがございます。ご自分ではごまかしておられるつもりかもしれませんが、政敵には格好の的です」


「甘さ、か……。もし、仮に“レオン”が何かを隠しているとしても、それは悪意ではない。彼の剣は、いつも俺を守ろうと動いていた」


「ええ。それは私も感じました。ですが、殿下。誰かの“真意”を守るためにご自身の命を賭けるなら、その人間が何者かを――ご自身で見極めなければならない」


「……それも政の一つか」


「ええ。愛と政は、常に表裏です。殿下」


クロードの蜂蜜色の瞳が、ひやりと光った。

その夜、レオンは一人、訓練場で剣を振っていた。


(ジルクハルト殿下の視線……あれは、何かを知っている目だった) 


かつて感じた優しさが、今は怖い。けれど、どこか救いでもあった。


(私が本当に“男”だと信じているなら、あの微笑みは向けない)


そう思えば思うほど、胸が苦しくなった。

けれど、守りたかった。自分の名も、弟の未来も。そして――彼の隣で、剣を振るう自分自身も。


だからこそ、レオンは男装を解くことなく、牙を食いしばって戦い続けた。

やがて、魔獣討伐の報が届く。

ジルクハルトが護衛を引き連れ、王都近郊の森へ向かう直前、クロードはひとことだけ進言した。


「殿下。どうか、過信なさいませんように。“真実”を目の前にして人は、剣より鋭い“感情”で刺されることもあります」


「……それでも俺は、確かめたいんだ。彼が何者であろうと、“その刃”が俺を護るものである限り」


ジルクハルトの瞳は迷いながらも、どこか決意を秘めていた。

そして彼らは、あの森へと向かう。

すべての仮面が、やがて剥がされるその時を――待ちながら。




そんなある日、王都近郊の森で「魔獣の異常発生」が報告された。討伐訓練を兼ねて、王族近衛騎士・警護班・訓練生から選抜されることに。


「レオン、お前も来い。力を試すいい機会だ」


「……は。光栄です、殿下」


胸の奥で何かがざわめいた。ジルクハルトの瞳は穏やかだったが、その奥に測り知れないものを感じた。だが今は、騎士としての任務に集中しなければならない。


現地に到着した瞬間、レオンの背筋を寒気が走った。


(空気が……重い)


湿った土の匂い。風に混じる鉄のような臭気。そして、森に満ちる異様な魔力の流れ。


(これは……ただの異常発生じゃない。何かがおかしい)


魔獣の気配は明らかに異常だった。従来の境界を越えて移動しており、中には魔石を無理やり体内に埋め込まれた個体もいる。それは自然の存在ではない――人工的な、意図的なものだった。


(誰かが、魔獣を操っている。これは、罠――)


「ジルク殿下!」


レオンは素早く前へ出た。


「私に、囮役をお命じください。森の奥を迂回し、敵を背後から挟撃します」


「無茶だぞ、レオン!」


ジルクハルトの声に怒気が混じる。だがレオンは引かなかった。


「今なら、まだ間に合います。挟撃できれば、この場を維持できます!」


ジルクハルトの眉がわずかに揺れたのを見て、レオンは一礼し、即座に森の中へと駆け込んだ。


鬱蒼とした森の中を抜けながら、彼女は魔力を指先に集めていく。緊張で胃がねじれるような感覚があったが、呼吸を整えて無理やり抑える。


(逃げてきたんじゃない。私は――戦うために、ここにいる)


剣を抜き、魔術の構えをとる。空気がぴんと張り詰め、突如、茂みの奥から獣の咆哮が響いた。


「来た……!」


巨体ね魔獣が枝をへし折りながら飛び出す。毛並みは黒く、目は真紅に燃えていた。牙から滴る唾液が、落ちた地面を腐らせている。

一歩、二歩――レオンは地面を蹴った。疾風のように魔獣へ接近し剣を振り下ろす。

金属の衝突音とともに、前脚を切り裂いた。

だが魔獣は怯まない。怒り狂ったように咆哮を上げ、今度は横薙ぎの爪で襲いかかる。


「くっ!」


間一髪でかわすも袖が裂け、肌に赤い傷が走る。その痛みで、むしろ意識が冴えた。

剣を逆手に持ち替え、魔力を刃に込めて突き刺す。


「――《火の刃、我に応えよ》!」


青白い炎が刀身を包み、魔獣の脇腹を焼いた。苦しみの声を上げてのたうつ魔獣。だが、終わらない――二体、三体と気配が集まってくる。


(時間が……!)


焦りが喉元まで込み上げたそのとき――


「レティ……いや、レオン! 無事か!?」


聞き覚えのある声が、森の奥から響いた。振り返ると、黒馬を駆るジルクハルトがいた。


ジルクハルトが到着してから、戦況は目まぐるしく動いた。


「レ――レオン下がれ!」


彼の声とともに、鋭い風が駆け抜けた。ジルクハルトの剣が、火花を散らして魔獣の牙を弾き飛ばす。

だが、それで終わりではない。森の奥から、新たな咆哮が響いた。暗闇の中から、体長三メートルはあろうかという異形の魔獣が姿を現す。

漆黒の体表に、紫がかった魔力の紋様が走っていた。人為的に施された禁術――魔石融合体。


(あれが……中枢)


「ジルクハルト殿下! あれを仕留めなければ!」


「分かっている!」


レオンは剣を握り直し、魔力を刃に集中させた。


「《聖火よ、剣に宿れ――!》」


焔を纏った剣が、夜の空気を切り裂く。ジルクハルトも同時に、左腕に防御障壁を展開し正面から魔獣へ突撃した。

魔獣は二人を目掛けて咆哮を上げ地面を蹴って襲いかかる。その巨体が放つ風圧に木々がしなり地面が震える。

ジルクハルトが障壁で攻撃を受け止め、その隙にレオンが跳躍。彼の背を踏み台にして、空中から魔獣の肩へと剣を突き立てた。


「――ッ!」


鋭い金属音。肉が裂け、魔獣が悲鳴を上げてのたうつ。だが、それでも立ち上がる。


「しぶとい……!」


ジルクハルトが構え直し、低く息を吐いた。レティシアの隣に並び、視線を交わす。


「――次で決めるぞ」


「はい、殿下。必ず」


二人は同時に踏み出した。

ジルクハルトは真正面から剣を突き出し魔獣の注意を引く。その隙にレオンは背後を取り、魔石のある首筋に狙いを定めた。


「《浄化せよ――!》」


聖魔法の光が刃先から放たれた。それが魔石に到達した瞬間、眩い閃光が爆ぜる。

魔獣が断末魔の叫びを上げ、巨体が崩れ落ちた。





――沈黙。





森が、静寂を取り戻していた。鳥の声ひとつしない張りつめた空気の中、二人の呼吸だけが響く。

レオンは膝をつき、肩で息をした。剣を支えにしなければ立っていられなかった。


「……やった……の?」

「――ああ。倒した」


ジルクハルトがゆっくりと剣を収めレオンに手を差し伸べる。その手は、温かくて、力強かった。


「ありがとう、殿下……」

「ありがとうは、俺の方だ。お前がいてくれなければ……危なかった」


小さく微笑むジルクハルトに、レオンの胸がきゅっと締めつけられた。


(あの頃と、何も変わらない……)


そして彼は、静かに告げたのだった。


「……俺は、ずっと前からお前の正体に気づいていた。構えも、目も、声も――全部、あの夜のままだった」


――――いつから気づかれていたの?――――騙すつもりなんてなかった――――嫌いにならないで……


言葉にできない想いがレオンの胸の中を渦巻いていた。


魔獣が鎮圧され仮設野営地に戻った頃には、すっかり夜が更けていた。森の奥では遠くでまだ火の粉が燻っている。静けさの中に戦の余韻が残っていた。

焚き火の前でレオンとジルクハルトは再び向き合っていた。周囲には他の騎士たちの気配もあるがレオンの世界には彼だけしか見えていなかった。


炎がはぜる音が、言葉の代わりに響く。赤く揺れる光が、彼の横顔を照らすたびに、レオンの胸が苦しくなる。


「なぜ……なぜ、何も言わなかったのですか?」


言葉が、ようやく唇から零れた。偽りの名前も、仮面も、今この瞬間だけは脱ぎ捨てた。

ジルクハルトはしばらく何も言わず静かに彼女の髪に手を伸ばした。長い夜風に揺れる髪が指の間をすり抜ける。


「君が……自分の意思で、また俺の前に現れてくれる日を、ずっと待っていたんだ」


「誰にも強いられず、誰にも縛られず、君自身の意志で、“レティシア”として」


その言葉に、胸の奥がじんと熱くなる。風が木の葉を揺らし、ぱちりと焚き火が弾ける音がした。


「私は……逃げていました。過去からも、あなたからも。でも――」


「ずっと、忘れたことなんてなかった」


涙が頬を伝いそうになるのを、彼女は懸命に堪えた。


「あなたに……もう一度、会いたかった。けれど私はただの逃亡者で、名も、身分も偽って……それでも、あなたは……」


その言葉を遮るように、ジルクハルトは彼女の手を取り、そっと口づけた。


「君が誰であろうと、何を背負っていようと――俺は、君を守る。何があっても」


「次に君を手放したら……きっと一生、後悔する」


その言葉に、レティシアの中で何かが崩れ落ちた。少女としての想い、騎士としての覚悟、恐れ、願い――全てが彼の言葉に溶けていく。

彼の腕の中は、炎よりもあたたかかった。もう、隠さなくてもいい。もう、嘘をつかなくていい。


(私は……もう一度、恋をしている。あの頃と同じ、いや、それ以上に――)



魔獣討伐から数週間が過ぎた。

王都では異例の速さで調査が進み、事件の全容が少しずつ明るみに出てきていた。魔獣たちは自然発生ではなく、禁術によって人為的に改造され、意図的に暴走させられていたのだ。


「王族の信頼を揺るがせ、混乱に乗じて騎士団の再編を促すつもりだったのでしょう。背後には、貴族階級の影が見えます」


クロードが淡々と報告する声が王宮の執務室に響いた。机上に並べられた資料の山。その一部には、オースティン家と禁術師との裏取引の証拠も含まれていた。


レティシアの義母――エリザベートは、魔獣暴走の黒幕として逮捕され、王命により厳重な監視下に置かれた。オースティン家の財産は全て凍結され、残された弟セシルには、王族の保護が与えられた。


「……これで、もう安心して眠れるよね?」


学院への入学が決まったセシルが不安げにレティシアを見上げる。彼の小さな手を包み込み、彼女はゆっくりと頷いた。


「ええ、セシル。これからは、あなたが自由に夢を描ける未来を生きていけるわ」


その言葉を口にしたとき、レティシアの中で「レオン」という名が静かに役目を終えた。

男装し、訓練所で剣を振るい、護衛として戦い抜いた自分。それもまた確かな自分だった。だが今、彼女は自らの名を取り戻す決意を固めていた。


その想いを胸に、王都最大の行事――「戦功感謝式典」の日を迎えた。白亜の大広間は、幾百もの光が交錯する祝祭の場。豪奢なシャンデリアが煌めきを放ち、赤絨毯はまるで血潮のように壇上へと続いている。列席する貴族たちの衣擦れの音すら、緊張に震えていた。


深紅のドレスに身を包んだレティシアは、柱の陰で静かに息を整える。胸の奥で、遠い記憶と今が交錯する。剣を握り、荒れ狂う魔獣の牙をかわしたあの夜。そして、王太子の腕に抱きとめられた瞬間――。すべては、このときのためにあったのだと信じた。

名を呼ぶ声が、張りつめた空気を切り裂く。


「レティシア・オースティン。前へ」


ジルクハルトの澄んだ声。その一言で、会場の視線が一斉に彼女を貫いた。だが、レティシアの歩みは迷いなく、静かで――誇り高かった。

壇上に立つジルクハルトは、すでに王の風格を纏っていた。蜂蜜色の瞳を細めるクロードが、その横で冷ややかに列席者を見渡している。この場の誰が、次にどんな駒を動かすのか――彼はすべてを見抜いていた。

そしてジルクハルトは、高らかに宣言した。


「この者は命を賭して王族を守り、王国を救った。まさしく真の騎士にして、我らの誇りである――そして、私の婚約者だ」


一瞬、世界が止まったように静まり返る。やがて、ざわめきが奔流のように広がった。

レティシアは、その波を正面から受け止めるように顔を上げた。

蜂蜜色の瞳が、ふと彼女を射抜く。――クロードだ。鋭い視線は「本当にそれでいいのか」と問うているように見えた。だがレティシアが次に視線を合わせたのは壇上の彼――ジルクハルト。その眼差しは、ただ静かに彼女を肯定していた。

レティシアは深く息を吸い、震えを押し殺して言葉を紡ぐ。


「私は、レティシア・オースティン。過去を偽り、男装し、訓練所に身を置いていました」


一瞬、会場が再びざわめく。だが、彼女は言葉を続けた。


――あの日、暗闇に逃げ込んだ自分とは違う。今日の私は、すべてを背負って立っている。その視線の先には、彼がいる。もう一度、隣に並ぶと誓ったから――。


「ですが、もう逃げません。自分自身からも、愛する人からも、そして――この国からも」


その声は、最初の一言よりもずっと強く響いていた。レティシアの瞳に宿る光が、会場の空気を一変させる。クロードは静かに息を吐き、視線を横に流した。

――これでようやく、駒は盤上に揃った。


ジルクハルトはそんなクロードの動きを横目で見ながらレティシアの手を取った。しっかりと、誰にも割り込ませない力で握りしめる。


「俺の隣に立つ者として、王国の未来を共に歩んでほしい」


その言葉は、式典の宣言であり、同時に彼の個人の誓いだった。ざわめきの中、レティシアはそっと笑みを浮かべ、頷いた。





――あの日、偽りの名で生きた少女は、今ここで、真実の愛と誇りを取り戻した。














華やかな式典は、最後の祝辞と共に幕を閉じた。だが、大広間に渦巻く熱気はまだ消えない。次々に押し寄せる祝福の言葉を受け流しながら、レティシアはそっと視線を巡らせる。

――逃げ場など、もうどこにもない。けれど、不思議と心は軽かった。

やがてジルクハルトが、静かに彼女の手を取った。

「外に出よう。君も少し息をつきたいだろう?」


頷くと、二人は人々の視線を背にバルコニーへと歩み出る。夜風が、熱を帯びた頬を撫でた。王都の灯が、星々と競うように瞬いている。


「……本当に、言ってしまったな」

ジルクハルトの低い声が、夜に溶けた。その声音には、どこか安堵と、微かな震えが混じっている。

レティシアは微笑む。

「あなたの隣に立つと決めたのは私です。だから――」

言葉を区切り、真っすぐに彼を見た。

「これから先、何があっても逃げません」


その決意に、ジルクハルトの瞳が熱を帯びる。次の瞬間、彼は何も言わずにレティシアを抱き寄せた。夜風よりも温かい腕の中で、彼女はそっと目を閉じる。

――だが、その穏やかな時間は、長くは続かない。


大広間に戻るとクロードが壁際で杯を傾けていた。深い青の髪に、シャンデリアの光が淡く揺れる。蜂蜜色の瞳は獲物を射抜く鷹のそれだ。


「随分と人払いが上手いですね、殿下」

言葉とは裏腹に、クロードの声は淡々としている。だが、その一言に潜む棘をジルクハルトは見逃さなかった。


「必要な時間だった。それに、君なら理解しているはずだ」


「もちろん。王太子殿下が公の場で婚約を宣言した意味も、それに、誰を最も不安にさせたかも――ね」


クロードは杯を回し、黄金の液面をじっと見つめる。

「今日、笑っていた貴族たちの中に、牙を研いでいた者がいましたよ。――式典は、戦場と同じですから」


ジルクハルトはわずかに笑った。

「そのために、君がいる」


「お任せを。ただ……」

クロードは意味深に瞳を細め、視線をバルコニーの扉へ向けた。

「守るだけでは足りないでしょう?――次に動くのは、こちらです」


その声音には冷たい決意が滲んでいた。ジルクハルトも同じだ。腕に残る温もりを確かめながら、心の奥底で誓う。



――レティシアを奪おうとする者がいるなら、この国を敵に回してでも、俺は戦う。

王都の夜は、静かに、だが確実に嵐の前の気配を孕んでいた。



(完)

続く感じになりましたが続くかどうかは気分ですかね。


バレたかな?バレてないかな?のドキドキ感は連載版でお楽しみいただけます♥︎︎登場人物設定を使った短編でしたが連載版は内容が違いますー。


「男装令嬢は王太子から逃げられない〜義家族から逃げて王太子からの溺愛を知りました〜」

https://ncode.syosetu.com/n4328gm/

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