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ピロロロロロ……
携帯電話が鳴った。
「はい」覆面パトカーを運転中の葛西が出た。
「わかったぞ! たったいま情報提供があった。犯人は雑居ビルに潜伏している。場所と、部屋番号は……」
山際が、まるで送受機のスピーカーを怨んでいるように、大声で叫んだ。山際は四十代後半の壮年刑事で、入署二年目の葛西とコンビを組むのは、これで二度目だった。お互い相手の性格がいまひとつ好きにはなれなかったが、双方の実力は評価しているという間柄で、今回はまたぞろ世間を騒がせている異常心理犯罪犯を追いかけていた。初動捜査から八週間経ち、ようやく犯人と目星をつけた女の居場所を突き止めたところだった。
「わかりました」
用件を聞くと、葛西は乗っていた覆面パトカーの方向を変えた。場所は都内某所。カーナビで最短距離を探す。携帯電話のスイッチは入れたままにしておいた。警察無線を使わないのは、犯人に傍受されるのを予見してだ。
「おれの方も現場に向かう」携帯から山際がいった。「だが、たぶん着くのは、おまえの方が速いだろう。が、無茶はするな」
「わかりました。着き次第、犯人が潜伏していると思われる部屋のある階で待機しています」
「無線が使えないのはやっかいだな。応援のパトカーも呼べやしない」
山際の声には怒気がこもっていた。無理もない、と葛西は思う。一度ならず、自分の娘を人質に取られそうになったのだ。が、少し黙っていて欲しいと思ったのも真実だ。
「山際さん、建物が確認できました」
ビルの頭が首都高速の向こうに見えたところで、葛西はいった。
「ちょいっと渋滞してるんで、あと五分くらいはかかりそうです」
「そうか。おれの方は、そうだな急いでも三十分はかかるな。……気をつけて行動してくれ。くれぐれも言っとくが、焦るんじゃないぞ!」
「わかってますよ」
並んでいた車がふいに別方向に車線変更したので、思っていたより速くビルの正面道路に抜けることができた。その雑居ビルのデータはカーナビにはなかったが、葛西は当たりをつけて、そこに地下駐車場があると踏んだ。そのまま車を直進させる。その一瞬、カーナビの表示画面に何か白いモノが映り、左から右に移動した。人の形をとり、何かを言おうとしているように見えた。
「ん?」
葛西は目を疑った。が、白い幽霊は、現れたときと同様、あっという間に消え去った。
「どうした?」と山際。
「いえ、何でもありません」と葛西。「少し緊張しているんでしょう」本音をいった。「これからビルに入ります」
「了解、気をつけてくれ!」
葛西の勘は当たっていた。ビルには地下駐車場があったのだ。ただし、思っていたよりも小さかったが…… いま乗っている車が犯人に確認されていたので、ビルに入る際、犯人が窓の外を覗いていないことを、葛西は切に願った。犯人の部屋がビルのこちら側にあるかどうかは、わからなかったが……
白い幽霊のことは、頭から抜け落ちていた。が、それが、己の緊急必要性が選んだ結果なのか、潜在意識がそのように誘導された結果なのか、葛西には知りようがない。
車を降り、駐車場のリフトに乗って十七階まで昇った。1712号室が犯人の潜伏が予想される部屋だった。廊下に出て部屋の並びを調べると、リフトの反対側にあることがわかった。運の悪いことに、それは窓から駐車場が見下ろせる側のビルの部屋だった。最上階は二十階。
「部屋の前までいってみます」
小声で、葛西はいった。
「了解。慎重にな。おれの方は、あと十五分くらいで着く」
すでにボリュームを絞ってあったので、スピーカーから聞こえてきた山際の声は小さかった。通話を終えると、葛西はさらに受信用スピーカーの音量を絞った。スイッチは消さない。なにげない風を装って廊下を歩く。いくつか企業のテナントがあったが、それも居住区域の中にポツポツと紛れ込んだもので、ビルのこの階にあるのは、ほとんどが住人の住む部屋だった。
ガチャリと1715号室のドアが開き、若い母親と幼稚園児くらいの女の子の親子連れが、手を繋いで部屋から出てきた。1712号室の前を通り過ぎる。と、その刹那、急に部屋のドアが開き、中からサングラスに黒のつなぎという出立ちの女が現れ、子供と手を繋いだ方の母親の腕を掴むと振り上げた。ついで、手が離れて不安定な姿勢になった子供を葛西の方に足で蹴飛ばすと、楯にした母親の咽許にナイフを突きつけた。
「くっ!」
葛西は唸ったが、自分の方に投げ出された子供を両手で受け止めていたため、とっさに銃を抜くなど、次の行動に移れなかった。
と、そのとき空間がグラリとゆれた。
「ななな……」葛西はうめいた。
何もないはずの廊下の空間に一条の筋が走り、それが壁や床のコンクリートの部分まで続いていた。葛西には見えなかったが、それはコンクリートの中も貫通し、さらにビルの外まで続いていた。直径は五センチくらい。とたんにその筋の部分めがけて隣接した空間と、空間がのせているビルの部分がグイと近づき、重なった。それに引きづられるようにして、その動いてしまった空間に隣接した空間、またその隣接空間と、順繰りに空間が元筋があった部分に引き寄せられた。一瞬のことだ。
「わっ!」
つなぎの女も、葛西も、母親も、子供も、当然、空間とともに二・五センチ分、元筋のあった方向に引き寄せられた。女がぐらつき、一瞬、母親から手を放した。すばやく体勢を立て直そうとしたが、子供を受け止めるために腰をかがめていた葛西の方に分があった。
バン!
鋭い拳銃の発射音と、空気に拡散する硝煙の匂い。犯人の女の胸に咲く赤い薔薇。泣く子供。腰を抜かした母親。まわりのドアから覗く何人かの住民の顔。
「くそっ!」女が叫んだ。
葛西の銃弾は致命傷を与えられなかったようだ。
くるりと振り返ると、傷口を押さえながら、女がリフトに向かった。ボタンを押すと、すぐにドアが開いた。リフトはまだその階にあったのだ。女が乗り込み、葛西が追う。が、間一髪のところで間に合わなかった。そのとき、引き攣れたような振動がビルを中心とした辺りの空間を襲った。急速に動いてしまった空間のわずかな揺り戻し。さっきの空間衝撃の余震のようなものだった。動きとしては小さかったが、壁などビル建材の構成物質をボロボロにするには充分だったようだ。ビルの外壁、内壁の何枚かが落ち、落ちたコンクリートの欠片がリフトのケーブルを切った。
数分後、階段を使って、葛西は地階に降りた。さらに数分して、山際と応援のパトカー、救急車などが到着し、警官や消防隊員たちが、力ずくでリフトのドアを開いた。
身体中の骨という骨がグシャグシャになった三井美也子は目を見開いて死んでいた。山際がポンと葛西の肩を叩き、無言で首肯いた。葛西は、狂ってしまったその女の左手薬指に嵌められた自分と同じ婚約指輪を見て、事件がはじまって以来、はじめて涙を流した。