Ⅳ
昼休みになり、まいこはいつも通りお弁当を持って中庭に足を運んだ。「まいこちゃんも一緒に食べない?」と隣の席の梨々花ちゃんが誘ってくれたけれど、一人になりたくて丁重に断った。朝から心が四方八方に飛び回ったおかげで、正直くたくただった。
にぎやかな教室を離れ、中庭までの道のりをゆっくり歩いた。段々と人の気配も声も聞こえなくなった頃、渡り廊下の扉の前にたどり着いた。扉を開けて、校舎と廊下をつなぐ段差を両足でぴょんと跳んだ。踏みしめた足裏がじんじんして、何だか心地よかった。
幸い中庭は誰もいなかった。刈り込んだばかりの芝生からふわっと緑の匂いがする。マフラーをぐるぐる巻きにしていたあの真冬の寒さは嘘のように、ポカポカとした陽気に包まれ穏やかな春風が吹いている。
所定のベンチに腰掛け、黙々とお弁当を食べた。普段は半時間ほどかかるのに、一人だとあっという間に食べ終えてしまい、まいこは時間を持て余すことになった。
ふと頭上に目をやる。
どこまでも薄く引き伸ばされたブルーの上に、白い雲がまだらにかかっている。その中を悠々と飛行機が飛んでいた。ミニチュアみたいな大きさのそれは、機体をキラキラと反射させながら、ゆっくりと高度を上げていく。一体どこに向かっているのだろう。まいこは思い切り腕を伸ばし、指で機体をなぞった。
機体が雲の中に消え、手を元に戻した瞬間、嫌な感覚が襲った。
「ああ、またか」とまいこは目を閉じた。
それは心の奥深くでひっそりと生息している黒い塊の存在だった。重くて、所々ネバネバしている醜いやつだ。いつもは鍵をかけた部屋で大人しく寝ているけれど、突然何かをきっかけに駄々をこねて暴れ始める。
まいこはおもむろに両手を重ね、銃の形を作った。
腕をまっすぐ伸ばし、眼を細めてねらいを定めた。
その先に捉えているのは、あの人だ。
平穏な毎日の中に突如現れた、「パパ」になるかもしれない存在。
その存在に日常を脅かされようとしている今、武器を持って戦うのか、それとも迎合していくのか。まいこにとって「キジマヨウスケ」という存在はエイリアンや、はたまた得体の知れない侵略者のようにも感じられた。
無口で愛想が無くて、何を考えているのかも分からない。大人なら、パパになるなら、普通はもう少し歩み寄ったりするものではないのか。
この半年で「キジマヨウスケ」がまともに発した言葉は「おはよう」くらいのものだ。仲良くなんてなれるはずがない。
ママもママだ。私に何の相談もなく、ある日突然「同居します」だなんてあんまりだ。「友達」だって紹介してたけど、そんな見え透いた嘘をどうして言えたのだろう。恋とか愛とかまだ分からないと思ってるかもしれないけど、二人の間にある特別な空気みたいな物は私にだって分かる。
何より、ママはなぜあんな人を選んだのだろう。優しくてにこやかなパパとは何から何まで正反対だというのに。まいこには到底理解できなかった。
張り詰めた心は熱を帯び、震えていた。
〝ママはもうパパを忘れてしまったのだろうか〟
私が小学2年生の夏、パパは交通事故で突然この世を去った。
その時の記憶は断片的にしかない。
家に帰ると、知らない人が沢山いたこと、
布団で寝ているパパを起こそうとして誰かに止められたこと、
遠くに住んでいるママの妹の奈々ちゃんが来て喜んだけど、すぐにママの部屋に入って行ったこと。
大好きなパパはピクリとも動かない。
ママは全然そばにいてくれない。
その日は誰とも目が合わなくて、
1日中部屋の隅にいて、
何だか寂しくて、不安だった。
一つだけ確かに記憶していることがある。
夜になって、パパが起きているかもしれないと思った私は部屋を抜け出し、パパの眠る和室の襖をこっそり開けた。
そこにはママがいた。
ママは真っ暗な部屋の中、パパの隣で横たわり、声をかみ殺すように泣いていた。
目の前の視界が見る見るうちに霞み、私は瞬間的に溢れ出しそうになったものを必死でこらえた。
そして、そっと襖を閉めた。
なぜ自分がそんな行動をしたのかは分からない。
でも、今思えば、その時はじめてパパの死が私に降りてきたのだと思う。
ママの泣いている姿を見たのは、後にも先にもそれが最後だった。
パパが死んで、再び夏が巡ってきた頃、
「これから二人で頑張っていこうね」
仏壇の前で、ママが私を抱きしめてそう言った。その手はわずかに震えていた。
ママは、私が「痛いよ」というまで、何かを確かめるように、きつくきつくいつまでも私を抱いて離そうとしなかった。
まいこは胸の前で構えた銃を、自らのこめかみに当てた。
「バーン」
引き金を引くと、体の中の黒い塊はわずかに身をよじり、這うようにして元の部屋に戻っていった。
待ちに待った6限目終了のチャイムが鳴った。
金曜日ラストの授業は数学だから、最後の最後まで皆の目が冴え渡っている。
数学の東先生はとても怖いから、居眠りをしようものなら、何が飛んでくるか分からない。飛んでくると言っても、巨大なコンパスや分度器が空中を移動するわけではない。
噂によると、教科書の問題をひたすら当てられたり、個別テストが科せられたりするらしい。そんな拷問を避けようと、誰もがいつも以上に黒板にかじりついている。
先生が教室を去ると、一気に皆の緊張がほどけるのが分かった。解放された反動で机に突っ伏している子も何人かいる。
その中でただ一人、まいこだけは不思議と達成感すら感じていた。
はやく佳純に会いたい、その一心だった。
あと少し。まいこは教科書を手早く片付け、一番に席を立った。
掃除の時間を知らせる放送がかかり、快活なクラシック音楽が流れ始めた。
「もう、早く移動しなよ」
掃除に向かわない、だらだらしている男子の尻を叩いているのは学級委員の心音ちゃんだ。さすがにしっかりしている。
1組は真面目な子が多い。もちろんやんちゃな子もいるけれど、学年の中でもまとまりのあるクラスだと、先生達の間でも評価が高いらしい。
教室当番だったまいこは、すぐに掃き掃除に取り掛かった。
掃き掃除が終わりモップで床を拭いていると、突然2組の水島さんが背後から声を掛けてきた。
「きゃっ」と驚いた私は思わずモップを床に落としてしまった。
「ごめん」と笑った水島さんの手にはしっかりと箒が握ってある。先生に見つからないようにこっそり教室を抜け出し、廊下を掃くふりをして1組の教室にきたらしい。
水島さんは佳純の幼馴染だ。時々、二人が廊下で談笑しているのを見たことがある。
水島さんは頭の先からつま先まで、意識が行き届いている。さらさらのロングヘアにバレない程度にメイクもしている。膝上丈のスカートからは細く白い脚がのぞいていた。
佳純に言ったことはないが、まいこは水島さんがどこか苦手だった。
「佳純のことなんだけどさ、知ってる?」
水島さんは猫の様にピタっとこちらに体を添わせて、こっそり耳打ちした。
私が何のことかと首を振ると、水島さんは一瞬意外そうな顔をして話を続けた。
「今日の朝、校庭の隅ですごい泣いてたらしいよ。2組の子が見たって」
「えっ?」
まいこは驚いて、反射的に水島さんから少し離れた。
「まいこちゃんでも知らないことがあるんだね」
水島さんは明らかに挑発するような笑みを浮かべて、去って行った。
体中の血の気が引いていくのが分かった。
朝感じた、どこか釈然としない嫌な感覚が再び蘇った。
一体佳純に何が起こったというのだろう。
まいこは心がえぐられるような気持ちに襲われた。
水島さんの言っていることがもし本当なら、その場に真っ先に駆け付けたいのは私だった。佳純が泣くなんて、よっぽどのことがあったに違いない。私の登校がもう少し早ければ、事態は防げたのかもしれない。
「ごめん」
佳純を思い、二度、三度心の中で繰り返した。
掃除があらかた終わり、下げられていた机が音を立てて一斉に戻され始めた。
下校が近いせいだろう。心なしか皆の足取りも軽く、早々に机は元の場所にきれいに並べられた。
まいこは一人、教室の隅でモップに体を預けたまま佇んでいた。
「高橋さん、具合でも悪いの?」
声を掛けてきたのは平岡先生だった。ベージュのスーツはどうやらお役御免となった様子で、いつものスエット姿に戻っている。胸の位置にはハンバーガーがでかでかとプリントされていて、いかにも先生らしい。
「いえ、大丈夫です」とまいこが応えると、
「今日この後、原口さんのお家に行くでしょ?」
まいこの考えていることはすでにお見通しだと言わんばかりに、先生は満面の笑みを浮かべてそう言った。
「悪いんだけど、連絡プリントを渡してもらえないかしら?」
まいこが快く承諾すると、先生はころんとした丸い手でグッドサインを作った。
夕方が近づき、少しだけ傾きかけた西日が頬を照らす。わずかに開けた窓からは、囁くような風がカーテンを揺らしている。
「最後まで、人の話を聞きなさい」
終礼中、数人の男子が椅子からほとんど立ち上がっている姿を見て、平岡先生が一喝する。誰かがくすくすと笑っている。
まいこはそれを横目に、配られたプリントを素早く折り畳み、そっと荷物をまとめ態勢を整えた。いつもと違う、内心そわそわしている自分が何だか可笑しくもあった。
連絡事項が終わり、最後に先生が良く通る声で言った。
「さようなら。また来週」
まいこは佳純のリュックを持って、颯爽と教室を後にした。