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おわりとはじまり  作者: 白鳥 海
1/6

「まいこ、早く起きなさい。学校に遅刻するわよ」

今日も同じ時間に定型文が高々と読み上げられ、夢の時間はコトリと終わりを告げた。今日も現実の世界が私を待っている。時計を見上げると6時35分を指していた。ママはいつも時間軸が少し早い。

のっそりと立ち上がり、洗面所で顔を洗う。師走の水は目覚めには十分すぎるほどで、鏡に映った自分の頬はあっという間に桃色に染まった。鳥のさえずりが聞こえて窓を見やると、結露の奥にうっすらと差し込んだ陽の光が今日という日の始まりをたたえているかの様だった。

制服に着替えて1階に降りると、キッチンからいつもの忙しないママの足音がした。パタパタと小気味よい音だ。なぜだかそれを聞くといつも安心する。「おはよう」と言うと、「今日はまいこの好きなハンバーグ、お弁当にいれてあるから」と言って、ママは颯爽と仕事へ向かった。

ごはんをよそい、味噌汁をお椀に入れて、テーブルに用意された鮭と食べながら、朝の情報番組を観る。芸能情報と占いにしか興味はないが、どこかの国で大規模な若者を中心とするデモが起こっているらしい。垂れ幕を掲げ手を高々に突き上げながら、道を埋め尽くす集団がぞろぞろと行進している。

「何の意味があるんだろう」とまいこは思った。デモなんか起こして、何が変わるんだろう。きっと何も変わらないのに。

「おはよう。」

そんなことを考えていると、背後で静かに声がした。体がびくりと止まる。一呼吸置いて「おはよう」と返事をした。「今日は鮭だよ」と笑ってみせると、「ああ」と言ってその人は自室に向かった。

どうでもいい会話。心の中で自分に匙を投げた。テレビに目を戻すと、思ったよりも時間が過ぎていた。慌ててご飯と味噌汁を掻き込む。手早く食器を洗い、家を出た。

 自転車で15分、T中学校の門をくくった。門のそばには池があり、鯉が泳いでいる。さぞかし寒いだろうと横目で追いながら、自転車置き場に向かった。ちょうど佳純が自転車を止めており、手を振った。

「おはよう」と言い終える前に、佳純は眉をしかめて言った。

「今日1限目テストなの忘れてた」

「あ。」

「まいこも?」

2人で笑いあった。始業までにはまだ時間がある。早歩きで教室まで歩いた。佳純とは2年になった今でも同じクラスで仲良しだ。いつも明るくにこにこと笑っている佳純を見ていると、自然とこちらまで笑顔になる。そんな佳純が羨ましかった。

2年1組の教室はちらほらと生徒がいた。寝ている子もいれば、テスト勉強に必死になっている子もいる。日直担当の小宮君は黒板に時間割を書いていた。

「おはよう」

佳純がいつものように教室中に響く声で挨拶をすると、小宮君が「朝から元気だな」と笑った。他の子達も「おはよう」と口々に言う。佳純の後ろで控えめに「おはよう」と手を振った私の手は、まだ、かじかんでいた。 


一時限目の英語のテストは何とか無事終わった。結果は可もなく不可もなくといった所だろう。前の席の佳純の表情は浮かない様子だったが、お昼休みのチャイムが鳴る頃には、何事もなかったかのようにすっかり元気を取り戻していた。

お弁当を持って、佳純と一緒に中庭のベンチに向かう。階段を降りて、中庭に続く渡り廊下の扉を開けると、冷たい風が頬を刺した。良く晴れた日ではあったが、風が強く吹いていた。

テニスコートほどの広さの中庭は一面芝生が植えられ、丸く整えられた木々が辺りを囲んでいる。四方には真っ白なベンチが置かれ、まるでおとぎ話の世界に迷い込んだような気分になる。

さっそく所定のベンチに向かった。持ってきた厚手のマフラーをぐるぐる巻きにして、ニット帽を目深に被り、冷え冷えのベンチにひざ掛けを敷いた。佳純が持ってきたひざ掛けを上からかければ、準備完了だ。どんなに暑くても寒くても、中庭のランチタイムは絶対だった。


「まいこさぁ、例のあの人とはどうなの?」

もぐもぐとご飯を口いっぱいに頬張りながら、佳純はまん丸い目でこちらを見ている。

思わず食べていた卵焼きが口から飛び出しそうになり、口を押さえた。

「あやしい聞き方やめてよ」

私は誰もいない中庭をきょろきょろと見回した。

「じゃあ何て呼べばいいのさ」

「・・・」

「ほら」と言わんばかりの顔で佳純は続けた。

「せめて名前くらい呼んであげれば?」

「考えとく」と生返事をしたものの、この3ヶ月それを考えない日はなかった。あの人と毎朝会うたびに心がズキズキする。それは恋煩いだと、テレビで誰かが言っていたけれど、恋をしているのは私じゃない。ママだ。

私は最後に残してあった大好物のハンバーグをじっと眺めた。


ママが突然あの人を家に連れてきたのは3か月前のことだった。

「紹介する。友達の木島洋介くん。訳があって今日から家に住むことになったから。」

人生で初めて「心臓が止まる」くらいの気持ちを味わった。

「キ・ジ・マ・ヨ・ウ・ス・ケ?」

ママの声は聞こえているけれど、頭は変換機能を失い、ただの意味を持たないばらばらの文字に消えていく。一体何の話をしているのだろう?

沈黙がしばらく続き、場の空気に耐えかねたママがその人に目配せをした。

「はじめまして」

その声は、今まで聞いてきたどの「大人」の声とも違う響きを持っていた。

歳はママより少し上だろうか。焼けた肌に、縮れた長髪を後ろに束ね、全身黒ずくめの恰好のせいか眼光がやけに鋭く見えた。

「はじめまして」と答えるのが精一杯だった。学校から帰ってきたばかりの私は、すぐに2階の自室に上がった。

部屋のドアを閉めたと同時に、体が脱力して膝から崩れ落ちた。短距離走の後みたいな鼓動が体中で反響していた。なぜこんなにも動揺しているのだろうか。でもその答えをまいこはすでに知っていた。心の奥底でずっと恐れていたことが今まさに起こったからだ。

まいこは机の上に置かれた写真立てに目をやった。そこにはママと私、そしてパパがいる。小学校の入学式の写真で、ママとパパの間にいる私はくったくのない笑顔でそこにいる。おめかしをしたママの化粧の匂いと、私の肩に置かれたパパの手の大きさと温もりを今でも覚えている。

気付けば涙が一つ二つと頬をつたっていた。今まで写真を見るたびに、心の中で何かがうごめくのを感じていたけれど、考えないようにしていた。避けていた。でも、決まって真っ暗な心のど真ん中に白地の判は否応なく押されるのだ。

「あの頃に帰りたい」

パパはもうこの世にはいない。そんなこと分かっているはずなのに、幸せだった当時の記憶が、くったくのない笑顔でそこにいる私が、手綱を引いて離そうとしないのだ。

ずっと空席だったパパの席。ママの心の中にはずっとその席があったのだろう。でも、私はその席を隠してきた。隠し過ぎてどこに行ったのかも分からない。


ひんやりとしたハンバーグが口の中で生ぬるく分離していくのを感じながら、まいこはそれをごくりと飲み込んだ。早々に食べ終えた佳純はもうおやつのグミを食べている。「食べる?」と差し出した佳純の鼻腔から漏れ出すブドウ味の香りが私を少し元気にした。

「ありがと」

空を見上げると、悠々と二羽の白鳥が飛んでいた。薄いうすい三日月が遠くに見える。この世界とあの世界を隔てるものは何もない。でも、私はあの世界の住人にはなれない。私は鳥でも月でもない。ここで生きるしかないただの人間だ。

「まいこ、また難しい顔してる。」

佳純が私のほっぺたを指でつついた。私ははっとして笑って見せた。

「そんなことないよ。」

いつから友達に虚勢を張るようになったのだろう。

頭上で予鈴が鳴った。あちこちで聞こえた笑い声が少しずつ消え、すっかり静かになった中庭を私たちも後にした。校舎の中は驚くほど暖かく、じんわりと眠気さえするほどだった。



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