7.実験動物の希望
「それじゃ、始めろ。指定した等級は覚えてるな?」
「勿論です。ちゃんとクレアさんを守って下さいね」
ニコは頷きつつフォルスに釘を刺した。
彼が指定したのは五級魔法で、最も小規模である十級から始まり十二段階ある階級の真ん中だ。
物理的な力に変えると一般的な民家を一瞬で半壊させられる規模になり、生半可な防御だと命に関わる。
当然行使に必要とする魔力量も多く、そもそも印の閲覧に関して制限を設けられているものも少なくない。
能力としても立場としても、使えるものは一握りという領域の魔法。初めて使うそれを成功前提で話すニコに、フォルスは笑った。
「大した自信だ。流石俺の弟子」
間接的に自分を上げた師匠の発言に呆れを返し、ニコは大きく開けた実験場の真ん中へと向かった。
(さてと)
魔法は印を描く大きさに関わらず、必要魔力量も効果も変わらない。だが一般的に等級が上の魔法ほど大きく描かれる。
印が複雑になるため、小さくするのが難しいからだ。
間隔を開けるべき線同士が接触するだけで、それは魔力を浪費するだけの落書きに成り下がってしまう。
目立たないよう小さく描くことが求められる時もあるようだが、今のニコには関係ない。全ての結果が同じならば、与えられた自由の中で今この時を好きなように振舞おうと決め、ニコはそっと目を閉じた。
呼吸を整え、胸の印に手を添える。
(――さぁ、始めましょう)
目を開き、魔力を紡ぐ。
はじめは静かにゆっくりと、指先を宙に滑らせる。だが描く印の大きさに、次第に肩が動いて腕が伸びる。上体を軽く捻って手を振り上げれば、虚空に柔らかな弧が浮かび上がった。
まるで踊るようにして、指先から紡がれる軌跡。それは、ニコの瞳と同じ透き通るような空色をしていた。
それが自身の思い通りに、淡く光りながら繊細な模様を作り出す。
――――とても、綺麗だ。
複雑で華やかに見えるのに、それが持つ色合いから澄んだ真水のような清らかな印象を受ける。
これほど美しいものが自身から生み出され、それが憧れた魔法に繋がると思うと、自然とニコの気分が高揚していく。
止めることなど到底できない。
(――……あぁ、もっと……)
もっと、描きたい。
私だけの、この美しい奇跡を。
求めるニコの胸が熱くなっていく。
溢れる喜びを抱える心と――物理的な意味で。
もうニコには見なくても分かる。胸元を彩る飴色の模様は、薄い輝きを放っている事だろう。
それは不具合のあるニコの器官の機能を補うため、フォルスが彼女に刻んだ維持魔法だった。
普段は過剰な魔力を体外へと流す役割をしているが、ニコが魔法を使う時には印に注がれた魔力を追加消費し、魔力を紡ぐ助けをするのだ。
その熱で、ニコの身を焼きながら。
(――)
フォルスの魔法が魔力を燃焼すると、刻まれた印が熱を持つ。紡ぎ出す魔力の量によって熱さも変わり、等級の高い魔法を使う時ほど熱くなる。
だが、これのお陰でニコは漸く人並みになれた。
毎度熱がる弟子を見てにやにやしている変態師匠には口が裂けても言うつもりはないが、本当は尊敬している。
知識欲を満たすためと言いながら、ニコに居場所を与えて望みを叶えたフォルスには、返し切れない恩がある。
だから、耐えられる。この熱も、この先に起こることも。
ニコが描いた模様を円で閉じた瞬間、そこから一抱えでは収まりきらない炎が噴き出した。
印が消えてもなお実験場の壁を舐めるそれを、ニコは冷静に水を呼んで消し去る。火を相殺するには過剰すぎた奔流が自身を濡らす前に、土塊の器に全てを収めた。
泥土を置いて新たに荒れ狂う風を生み出せば、その拍子に束ねていた髪が解けて旋風にさらわれた。
薄い金糸が靡いて光を弾くのを見て、ニコは周囲から明るさを奪い去る。作られた暗闇の中で魔力を紡げば、彼女の期待通り碧く澄んだ輝きは一層美しく見えた。
(もう少し……)
願いながら闇を照らす光の印を紡ぎ出す。思うままに腕を振れば、青い曲線が無を彩りながらニコを照らしていった。
あと少し。もう一筆で、満たされる。
期待に昂り、手を返したその瞬間――。
輝く軌跡がふつりと途切れた。
(――、あ)
その意味に気づいたのは、一拍遅れてからだった。胸を焦がす熱は消え、じりじりとした余韻だけが残っている。
ニコの魔力が無くなったのではない。フォルスの魔法が消えたのだ。
望み、描いていた模様が何も成せずに霧散する。その様を呆然と見つめる間にも、ニコの体には魔素が取り込まれ続けていて――。
「――……っ!」
どく、と。心臓が一際強く、波打った。
痛いほどのその鼓動に、一瞬息が吸えなくなった。
だが体と心を宥める間もなく動悸が生じ、ますます呼吸が出来なくなる。
「……っ、は……、く」
荒ぶる拍動が響いている。それでも体は命を維持するために、口を開けて無理やり空気を取り込んだ。
聞くに耐えない、醜い音が喉の奥で鳴る。
見苦しい姿だろう、と思う。
過剰な魔力が毒となり、ニコを侵すときはいつもこうだ。
肉体を蝕む脅威に膝をつき、頭を垂れて、儘ならない呼吸を繰り返す。珠のような汗をかき、冷えていく四肢に震えながら、それでも死に抗い続ける。
師匠が求める結果のために。
お互いの姿は見えない。でもフォルスは続かない魔法の意味に必ず気づく。
そうすれば光でも打ち上げて、きちんとニコを見つけるだろう。
(……大事、な……、実験動物、だから)
崩れそうになりながら、それでも体を支えて荒い息を吐いていると、ふと、ニコの背中に大きな手が添えられた。それはニコの腕を伝って手の甲に辿り着き、肌を滑って飴色の軌跡を刻んだ。
「――っ、ぁ……、はぁ……っ」
すぐに押し潰されそうな圧迫感がなくなり、魔素の取り込みを止められたことを理解する。
「あ、……あり、がとう……、ございます」
過剰になった魔力はそのままなので、未だにニコの心臓は荒れている。
それでも吐く息の合間を縫って伝えると、意外と力のある腕がニコを引き寄せた。
抵抗する力を失くした身体は容易く背後へと倒れ込み、慣れ親しんだ温かさに包まれる。
「……今日は終わりだな。もう休め」
一度凭れかかってしまうと、座っていられない程の重怠さを自覚して、ニコは身体を預けた。
「……程々、に、……して、下さい、ね……」
何をかは言わずとも、フォルスには伝わる。だが彼がそれを守るかどうかは別だというのが、ニコにとって難点だった。
近頃僅かな懸念が彼女の胸にあり、クレアとの会話がそれを大きくした。
(……そろそろ、本気で意識させないと……まずい……です……)
外聞を気にしない師匠を案じつつ、ニコは休息を求める身体に引き摺られ意識を手放した。
お読みいただき感謝です!
因みにあらすじの会話は実験場に辿り着くまでのものだったりします。
「熱いって言うのを客観的に確認したいんだよな。表面温度を測る道具でも作るか? でも眼鏡も改良したいし、そもそもの研究も進めたい……。……やれやれ、お前といると眠れない」
「それは誠にすみません」
笑みを浮かべて責めるフォルスに、ニコはいつも通り謝っておいた。時間の使い方は自己責任だとか、そもそも苦だと思っていないだろうとか、突っ込むのはとうの昔に止めていた。
内心はどうあれ従順に返すニコに、フォルスは益々笑みを深めて指示を出す。
「とりあえず、俺の印をどれくらい熱く感じたかちゃんと覚えとけよ」
「……楽しそうに言わないで下さい。ヘンタイにしか見えません」
毎度のことながらこればかりは見過ごせず、ニコは本日何度目かの溜息をついて、どうしようもない師匠の言動を改めた。
いつかニコが殴って止めてくれたりしないかと思いましたが、無理そうです。