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私とお師匠様との研究記録  作者: やなぎ いつみ
研究対象の変容
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20.弟子の最も重い罪

 

 師匠が、吐き出す。

 もどかしそうな表情で。遣る瀬無さの滲む声で。

 ニコの在り方をそうと言い、固く握り締めた手に触れた。


「何もかもが、師匠のためだ。怒りもせず、泣きもせず。煩わせようとすることは全部排除して――」


 目覚めてもなお、冷たさを残す肌。

 彼はそれを包み込み、


「死ぬかもしれない眠りすら、平気になってしまう」


 祈るように、自身の額に押し当てた。


(……、あぁ)


 ――駄目だ、と。

 そう、思った。


 これは、大丈夫だと、平気だと、いくら告げても意味がない。そんな単純な言葉で終わりに出来るはずがない。


(だって……) 


 掠れた声と触れた肌。そこから伝わる苦悩と恐れ。

 彼が決して見せて来なかった心の内は、抑えられていてもなお、これ程までに苦しかった。


 当然だ。

 彼の『大切なもの』が守られていないのだから。


 そして、それを脅かしているのは他でもない。

 ニコだ。

 感情を殺し、彼が避けようとする眠りを平気で許し、何ともないと――大丈夫だと、省みることもしようとしない。


(お師匠様の、仰った通りです……)


 放っておかないと、でないと自分を殺すと彼は言った。

 その通りだ。ニコは必要とあらば、自分の命を消費しても構わないと思っている。だからこそ彼は、ニコが()()へ辿り着いてしまわないよう、この場所に繋ぎ止めてくれていた。

 決して欠かすことのない、過剰ともいえる観察と、――弟子が知らずにいた覚悟を以て。


 なのに、ニコは。


「……ご、めん、なさい……わたし――」

「それは、怒ると言っただろう?」


 ニコの声が、震えたからか。顔を上げ嗜めるように笑った師匠に、また胸が絞られる心地がした。

 けれど、彼が感じた痛みはこんなものではないはずだから。


「怒っても、良いです。怒られてもいいです。それくらい――」


 平気なのだと言う度に。長い、眠りを迎える度に。彼は、どんな思いでそれを見守っていたのか。

 それを考えるほど――。


「私は、お師匠さまに甘えていると……、思い、知りました」


 あなたのために生きられるならそれで良い。

 あなたが幸せであるならそれで良い。

 今でも確かにそう思う。でもニコの大事な人は、きっとそんなものを望んでいない。


 望まれないものを押し付けて、それでも赦してくれたのは、ニコがそんな風にしか生きられなかったからだ。

 購い、怒らず、嘆かず、迷惑にならないように息を潜め。何も持たないニコが、何も失くさないように。


 そうして必死でしがみつく中で、恐らくニコは、沢山の想いを蔑ろにしてきた。


「……でも、私は貴方にちゃんと……、笑って欲しい、喜んで欲しい、幸せでいて欲しい、から……」


 翳ることなく。師匠らしく、自由な心で。

 抱いた願いが届くように、掴まれた手を今度はニコが握り返した。


「だから、きちんと考えます。私は、何を大切にするべきなのか。私の傍にいる人が、本当は何をどう感じているか。……そうして」


 触れた端から、二つの体温が溶け合っていく。それが大切で、離れ難くて。


「今度は私が……大事な人を、守れるように。……もう二度と、悲しい気持ちで笑わせることがないように……。難しくても、苦手な事でも頑張ります」


 その手のひらに頬を擦り寄せた。


 師匠は何も答えない。

 ただ、暫しの沈黙の後、唸り声が漏れ出した。

 

「あ……あの、ごめん、なさい」


 それがあまりに低く、ニコは慌てて拘束を解いた。

 だが――。


 下ろしかけた腕に、手が伸びた。

 膝へと落ちる前に届いて捕まり。

 次の瞬間。


 ニコは、師匠の腕の中に居た。


 彼の熱と匂いが身を包み、思わず身動ぎする。

 ぎゅぅ、と拘束が強まった。


「……そんな風に言われて、俺が許さずにいられると思ってるのか」

「……ええ、と……」


 まるで溢れる何かを堪えているような。そんな押し殺した声で、師匠はニコを詰ってきた。

 怒りたいけど怒れないと、理不尽を訴えられている気もする。なので。


「……その、自由は……あります」


 ニコは、師匠の思いを擁護した。

 だがそれに返されたのは、あるものか、という苛立ちを込めた一言だった。

 互いの隙間を埋めた囲いの中、ふと、師匠が頭を垂れたのを感じ取る。


「……選択肢なんて、ない。お前の願いを、狡いものだと思うほど……」


 一呼吸、彼は何かを飲み込んで。


「叶うよう、守ってやりたくて……堪らなくなる」


 一層強く、ニコの体を抱き締めた。


(――……、もう……)


 どうしてこのひとは、これほど甘いのだろう。


 ずっと、途方も無いものを願うのが怖かった。捨てられるような存在に、購えると思わない。だから心が動く度に歯止めをかけた。


 なのに師匠は、望まなくても溢れるほどのものを与えて、ニコに『もっと』を願わせる。いくら拒んでも、彼が止めることはない。

 きっと、これからも。

 

 ニコの体を受け止めた、師匠の広い背中に手を伸ばす。

 我儘だと思う。贅沢だと思う。けれど今は、ごめんなさいとは言いたくなくて。


「……ありがとう、ございます」


 代わる言葉を届ければ、師匠の肩がぴくりと揺れて、深い、深い溜め息が落とされた。

 ニコを包んでいた体がゆっくりと離れていく。


「全く、お前は本当に……。笑って欲しいとか守りたいとか。もっと自分のためになることを欲しがれないのか」

「……ですが、そう、仰られても……」


 確かに結果はあまり変わっていないかもしれない。でも今は、単に居場所を得るためというよりも。


「嬉しい、ので。もし、私が……お師匠様を、幸せに出来たのなら。だから、これは全部……自分のため、なのです」


 紛うことなき事実を述べれば、師匠は何故か、天を仰いだ。


「あの、お師匠さま……」

「……分かった。もういい。やっぱりお前は自分の罪を自覚すべきだ」

「!? ゆ、許して下さるようなことを仰っていませんでしたか……!?」

「あぁ。俺の言う事を聞かず、繰り返した謝罪と抱負についてはな。だが……それ以外は許してない」


 背けた顔を手で覆う。目も合わせようとすらしない程だが、ニコには師匠がそこまで怒った理由が分からない。


「わ、私は、一体」

「……そうだな。まず一つ確実に言えるのは」


 何をと問うニコに、師匠はまた溜息を落とし――ぐい、と捕えた体を抱き上げた。

 

「俺を殺しかけた罪」

「……、はい!?」

「それから俺を飢えさせ続けてきた罪に」

「な、」

「病を加速させている罪と」

「ちょ、ちょっと待って下さい……!」


 いきなりとんでもない罪状を突きつけられた上、身に覚えのない悪行が連なった。必死の思いで制止すれば、彼は今まで座っていた寝台の――今度は真ん中辺りへニコを下ろし。


「なんだ」


 と、口の端を吊り上げた。


(な、なんだと言われましても……!?)


 ひとまず『知りません』とだけは言ってはならない。長年の経験による勘に従うも、ではどう反論すれば良いかまでは導けない。泣きそうになりつつ師匠を見上げれば、彼は、ふと目を眇めた。


「ああ、無自覚に俺を誘う罪もあったな」


 それは絶対濡れ衣だ。

 思ったものの、師匠が向ける視線に全ての言葉が封じられる。抗議の一つも出せないニコを前に、彼は嫣然とした笑みを深め。


「異議はないようだな? なら」


 華奢な肩をとん、と押した。

 予期せぬ力にニコの体がぐらりと傾く。咄嗟に倒れまいと手を伸ばしたが、そこに掴めるものなど何もなく。


 ぼすり、と柔らかな寝具がニコを受け止めた。


「――大罪人には、相応のお仕置きをしないとな」


 ぎしり、と。寝台が軋む音を響かせて、師匠がニコの上へと乗り上げた。

 まるで腹を空かせた肉食獣が、獲物へとにじり寄るような。そんな感覚に襲われて、ニコはこくりと喉を鳴らした。

 飴色の瞳が、潤む湖水をひたと捉える。だが不意に、その見つめる先が下へと下がり始めた。

 薄紅の唇から、晒された白い喉。細い鎖骨から――開かれた胸元へ。

 なぞるように、ゆっくりと。


「ぅあ、ああの……!!」

「うん?」

「……しっ、診察、は……」


 堪え切れず絞り出したニコの言葉に、師匠は優しく微笑んだ。


「心配するな」


 大きな手が、ニコの肩をぐっと押さえこむ。

 逃がすものかと、瞳が語った。


「隅っ々まで診てやるよ。――俺の五感をすべて使って、な」

「――!! ぁ、待……っ!」


 止める間もなく、ニコの口が塞がれた。

 食らいつくような接触の(のち)、続いた口腔内の診察。二度目の事とは言えど、ニコがそれに対応できるはずもなく。

 翻弄され、息を乱したニコの心拍は、過去最高の異常値を叩き出し。


 ――後日二人でイアンにこってり絞られることになったのだった。










2024.6.21大きく改稿致しました。

本当にすみません!


この章はこれでおしまいになります。

次は閑話で、お仕置き後の二人の様子などお届けできればと思います❀

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― 新着の感想 ―
[一言] こんばんは♪ 元気そう(だよね?)で良かったです。何はともあれ、更新ありがとう&お疲れさまでした(o´ᴗ`o)♡ 私は新しい様式になれず、やっとこさ書き始めました(めっちゃ休載中(꒪꒳꒪…
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