18.目覚めた時から焦らせる
鉛のように、重い体。
もう自分の意志では動かなくなったそれを、強く抱き締め走り続ける人がいた。
真っ白な景色が次々と後ろに流れていく。
まるで、風に乗ったようだ。
凍てつく空気に、白い息がすぅっと溶ける。
瞬けば、澄んだ雫が宙に流れた。
もう誰も。
凍えさせたくない。
――だからどうか、眠らせて欲しい。
きっとそれで、全てが終わるから。
力が途切れ、それでもこの荷を離すことなく、岩陰に身を潜めた相手が目に映る。見返す瞳が滲み出し、冷えた身が包まれた。
――ごめん、
ごめん、なさい……っ
血を吐くように叫んだ声は、何かを取り戻そうとしていた。
***
(む……)
瞼を開く。薄ぼんやりと、見慣れた天井が目に映り、今まで眠っていたのだと気が付いた。
寝返りを打ち、気怠い体をゆっくり起こす。
そのままゆらゆらとしていると、眠りに落ちるまでのことを思い出し、ニコは軽く俯いた。
随分、勝手をしてしまった。
他の研究室に許可なく押し入り、魔法を使って意識を失くした。
これにより、発作に対応したイルニス達は勿論、師匠と、恐らく学院にも迷惑を掛けた。
契約上、フォルスは欠陥品の管理を優先することになっている。ニコが眠れば、彼は講義を休まざるを得ないのだ。
(私が、余計なことを、したから)
師匠といると麻痺しがちだが、機関の人間は優秀だ。
多少時間は掛かっただろうが、あの火事も部署内で片付けることが出来たはずだ。ニコが手を出すまでもない。
それにそもそも、師匠があの事態を望んだのだ。
ぎゅう、と手を握り締める。
(でも、それは、嫌で……)
この結果を、師匠はどのように思っているのだろう。
ニコはこれまで従順で、彼の思惑を崩したことはなかったし、監視下以外で発作を起こしたことも初めてだ。
詫びねばならないとは思うものの、それだけでは一番大切なことが彼に届かない気がした。
(……、だめです)
落ち着かなくて、思考が上手く纏まらない。もやもやとする気持ちの行き場が無くて、ニコは寝台から足を下ろした。
(今日は、いつ、でしょうか……)
何時間、若しくは何日間、師匠を放置したのだろう。
厚手のカーテンが遮切れない光を見れば、夜でないことはよく分かる。ただそれが、何日ぶりに見る陽光なのかまでは伺えなかった。
答え求めて立ち上がれば、寝衣の裾が脹脛まで覆い隠す。けれど薄手のそれは寝具の外では心許なく、ニコは掛けていた毛布を被って扉を開いた。
彼がいつも通りそこにいる。その姿が確認できればそれでよかったのだが――。
「おはよう」
何故か師匠と目が合った。
そのままかたりと席を立つのを目にし、ニコは咄嗟に扉を閉めてしまう。
「? どうした」
足音が近づき、取っ手が傾く。向こう側から扉が引かれる力を感じ、ニコは思わず抗った。
「――ちょ、っと、待って……下さい」
「何故」
「な、何ででも、……どうも、しません、から……」
「どうもしないことはないだろう。……まさか、どこか悪いのか?」
「!? 違……っ」
探るように、低くなる声に慌てて返す。
「なら、どうして」
(それは……)
勝手をした。迷惑をかけた。でも、放っておくことは出来なかった。
だから、どんな顔をすればいいか分からない、のに。
「ニコ」
師匠が呼べば、応えずに居ることなど出来なくて。
「っ、わたし、は……、お師匠樣の印が、あのような結果を起こすのは、苦し、くて……」
「――成程」
そう聞こえた瞬間、急に取っ手がぐっと強く引かれた。当然、ニコは扉と共に前へと倒れ込み――。
ぽす、と師匠の胸にぶつかった。
「……あぁ、いい子だ」
自分でそうした癖に、褒める言葉を口にする。そして、ぎゅう、とニコを腕の中へ閉じ込めた。
彼の高い体温が、少し遅れてニコの体にじわりと伝わる。
「……、いい、子じゃ、ありません」
その証拠に、ニコを想って動いた彼にどうしてと、心の中で問うている。
主を理不尽に詰っているのだ。なのに。
「いい子だよ。……だから、大丈夫だ」
さらり、と大きな手が髪を梳く。
(――狡い、です……)
何もかも許そうとする声が優しくて、流されたくなくて、ニコはぐりぐりと頭を擦り付けた。
師匠の息が、僅かに止まる。次いで、しょうがないなと囁く声が耳に届いた。
「体調はどうだ?」
穏やかな声音で問いかけて、彼は毛布ごとニコを抱き上げた。
「……なんとも、ないです」
「お前の『平気』は信用ならないからなぁ。ほら、よく顔を見せてみろ。痛みはないか? 傷は治ってるが……痺れが残ったりはしてないか?」
「いえ……、その……」
「そうか、触らないと分からないかも知れないな。ちょっと部屋を暖めるから、脱いで診せ――」
狼狽えるニコに、師匠が重ねて求めたその時だ。咳払いがその場に響いた。
びくっと体を震わせて、音のした方を振り向けば。
「い――、イル、ニス、様……」
いつからそこに居たのだろう。
来客用の椅子に腰掛けた、赤髪の男が気まずそうに視線をずらす。
一瞬で、自身の耳が熱くなるのがよく分かった。
「……っな、何故、仰ってくれなかったのです……!」
抱えたもやもやをぶん投げて、隠れるように師匠の首にしがみつく。
「あぁ、お前が目覚めた喜びでつい忘れた」
「忘れ、ないで、下さい……っ」
どうすればすぐそこに居る人間を、記憶の中から消せるのか。
寝起きで適当な格好を晒す方の身にもなれと思い、師匠の服を握り締めた。
「どうしよう」
師匠が呟く。
「……何がだ」
イルニスがそれに応じた。
「可愛い」
「聞き返すのではなかった……」
不機嫌というよりは、脱力に近い声だった。
落とされる溜息がまた、ニコの居た堪れなさを倍増する。
出て来なければ良かった。
いや待て、今からでも遅くない。隣室へ戻ってしまえばいいのだと、そうニコが思いついた時。
「出直す」
「っ、お待ち下さい……!」
がたりと席を立つ音に、ニコは思わず声を上げた。
多忙な相手を、こんなことで煩わせる訳にはいかない。
「も、うしわけ、ありません。直ぐに、隣室へ戻りますので――」
「不要だ」
ばっさりと否定され、ニコは何も言えずに固まった。すぐ傍で、小さく溜息が落とされる。
「イルニス。お前な」
「……不要な負荷を掛けさせたのはこちらだ。余計なことは考えず、休め」
異論など許さぬようでありながら、告げる声音は気遣うようだ。
だからニコは俯いた。発作を起こすに至った出来事は、イルニスの所為ばかりではないのだ。
「……、強情な助手だな」
「だろ。そこを突き崩すのも楽しくはあるんだが……」
――今回は一筋縄ではいかなさそうだ。
苦笑する主に、イルニスがふんと鼻を鳴らす。
「次までに下を向くのを止めさせろ。……あれも相当、心配している」
そんな言葉だけ残し、ぱたんと扉が閉じられる。思わず、ニコは師匠を見下ろした。
あれとは一体何なのか。
己の内に沸いた疑問が、彼にもあると思ったが――。
「素直じゃないというか、言葉が足りないというか……。目覚めて良かったくらい言えるだろうに」
師匠は呆れたようにそう言った。
「あの……、あれが何か、ご存知なのです?」
「ん? 助手だろ?」
事もなげに返されて、ニコは瞬いた。彼の助手というと思い浮かぶのは一人だが、何故『あれ』が彼女だと分かるのか。
まじまじと見つめていれば、師匠は直接聞いたと答えを返した。
「ミュゼット、だったか。あいつ本当、小さい生き物に弱いよなぁ」
「小さい……、生きもの……」
それが視界に入っても、何か居たか、位の認識しか持たなさそうな男だと思っていたが。
(ま、真逆……?)
「ちなみにお前も含まれる」
「はっ……?」
「もしあの栗鼠みたいな助手が居なければ、お前は絶対あいつと関わらせない」
「な、なにゆえ」
理解が追いつかない中それだけ問えば、師匠はそうだなぁと微笑んだ。
「どうしてなのか、じっくりと教えてやりたいところだが――、その前に少し診た方がいいかな」
新年のご挨拶が出来ることを感謝したかったのに、じ、地震、が……っ
み、みなさんご無事、ですか……!?




