17.その想いこそが全ての理由
入室の挨拶も、医務室員への声かけもない。こつこつと、靴音だけが真っ直ぐにこちらへと向かってくる。
医務室所属の誰かなのかと、普通は思う。まだ誰も、知らせに行ってはいなかったし、週の頭は講義をする日だと聞いていた。
だが。
イアンがすっと立ち上がる。そして寝台に横たわる、助手の顔色が見やすい、寄り添いやすい場所を空けた。
――全ては主である、男のために。
「っ、……」
こつり、とすぐ傍で靴音がした。
息を飲むミュゼットを庇ったのは無意識での行動だ。だが、現れた男は外野など微塵も興味がなかった。
ただ真っ直ぐに、己の助手の下へと歩を進め、その傍らに膝をつく。
手を伸ばし、そっと頬に指を滑らせて――。
「――……あぁ」
ようやく深く、息を吐く。
それだけで、変人と謳われた人間が、助手の身を案じていたことが分かってしまった。
(……だが、この男は、これを……)
どう考えても、話が合わない。研究成果を見る限り、この研究者は助手に対して常人には計り知れないことをして来たはずだ。
だというのに、今。
乱れた金糸を梳く、その手つき。
労るように。慈しむように。
長い髪に指を通し、惜しみながら寝台へと零していく。
――到底、雇用関係には見えない。
背後のミュゼットも、漂う雰囲気にえ、え、と戸惑っている。
ただ、事情を知っているらしい医師だけは、静かに男に呼び掛けた。
「……今のところ、反応は普段の検証後と同じよ。呼吸も循環も、あなたが取った記録の平均値と変わらない」
「……」
さらさらと、金の髪が流れる。大きな手が、助手の小さな額を覆った。
「正確な時間は計れていないけど、阻害は完全に崩れる前にされている。溜まった魔力も全て抜かれて、体内には欠片も残ってなかったわ」
「――他には」
一切の無駄を削ぎ落とした問いだった。医師の返答が僅かに淀む。
「…………手に、裂傷が出来ていたから治したわ」
「へぇ」
ぞくりとした。
「魔法を破った時に負う、傷ではあるけれど――」
「なら」
ゆるりと、飴色がイルニスの方を向く。
「俺の弟子は、他人の魔法に抗ってこんなことになったのか。なぁ、イルニス?」
笑顔だ。いつもの、にやにやと余裕ぶった笑みではなく、人好きのする爽やかな笑い方だ。だがその飴色の瞳は煌々と輝いていた。
(――不味い)
凄まじく、怒っている。それが容易に分かるほど、目の前の相手が纏う空気が冷えていた。
詰め寄られるだろうとは思っていたが、恐らくその程度では済まない。
(……、完全に、見誤った……)
改めて思う。
――五年間、なのだ。
前例のない、一つ間違えば命を奪う研究を、それだけの期間続けてきた。
今の印が出来るまで、どれほど期待と落胆を繰り返してきたことだろう。その度に、何度苦痛に喘ぎ、己の異常さを突き付けられてきただろう。
それでもこの『欠陥品』は折れることなく、人間らしさを失わず、ここに居ることが出来ている。
何故かなど、問うまでもない。
この男が、そうあるよう心を砕いてきたからだ。
消え入りそうな声を聞き、言葉に出せなければ汲み取って、抱えた痛みを癒やし、緩和し、歩かせる。
その時間と労力は、単なる興味や関心で費やせるものではない。
ようやく、分かった。
「誰が、こいつを苦しめた」
これは、正当な怒りだ。研究者という立場を超え、想う相手をただ守りたいと願う者の憤り。
飴色の瞳の奥で燃える感情を真っ直ぐ見つめ、イルニスは口を開いた。
「……全て、私の責任だ」
その瞬間、男の怒気が膨らんだ。同時にイルニスの体が後ろへ吹き飛び、勢いよく壁に叩きつけられる。
(っ……)
「! イルニス様っ!」
ミュゼットが、悲鳴を上げるように名を呼んだ。それに応じる声が出ない。強く背を打ち付けた衝撃で、呼吸がまともに出来なかった。
「……っ、……寄る、な……」
辛うじてそれだけ告げて、駆け寄ろうとする助手を遠ざける。激情をぶつけられるのは、今この場ではイルニスだけで十分だ。
噎せこみつつも身を起こせば、こつ、と静かな足音が迫ってくる。
薄く開いた視界の端で、飴色の軌跡がふわりと浮かんだ。
「――っ、駄目よ!」
ぱちん、と魔力のぶつかる音がした。顔を上げれば完成間近の魔法を消し去って、男の行く手を遮るイアンが見えた。
「少し、落ち着きなさい……っ」
「……? 落ち着いてるだろう?」
「馬鹿言わないでっ、魔法を使うのを止めなさい!」
イアンが腕を横へ薙ぐ。紡がれた赤い魔力が男の魔法と反発し合い、その場の空気を震わせた。
「もう、ずっと前から――この子を外へ出すと決めた日から――こういうことも有り得ると、きちんと想定してきたはずでしょう……っ」
「……あぁ、そうだな……。でも、どうしても……覚悟しきれるものじゃない」
静かな声音で呟いて、男は自身の手に視線を落とした。
「俺の見えない場所なんだ。不測の事態なんて幾らでもある。もし、この魔法が作動しなければ? 発作の処置が遅ければ?……あの湖水に、二度と俺は映らない」
「っ……」
男が告げたのは、ただの事象と成り行きだ。けれどその声に籠められた感情を、恐れと呼ばずしてなんと表現すれば良いだろう。
片手で覆い隠した表情も、絞り出すような低い声音も、怒りより遥かにイルニス達を責め立てた。
「…………申し訳なく、思っている……」
到底足りない。
分かっていながら謝罪を告げれば、ふと笑う声がした。慌てたように、イアンが待てと男の腕を引き留める。それを押し退け、欠陥品の主は静かにイルニスを見下ろした。
「――なら、どうして連れて来なかった」
「なにを……」
「これに直接、手を出した奴をだよ。馬鹿真面目なお前には、『憐れ』な欠陥品を害するなんて出来ないからな」
「……」
「難しくないだろう? お前が責任を負わなきゃならないような、部下の居所を吐くだけだ」
な、と凍えるような笑顔を浮かべ、イルニスの胸倉を掴んで引き上げる。向けられた男の瞳は、最早飴色と思えないほど昏かった。
「あぁ、それともまさか、お前だけで責任を負い切れると思ったか?」
「そんな、ことは、……っ」
「なら言えよ。それは今、どこに居る」
ぎり、と襟首が締められる。
「……報告、を、機関長に」
「必要ない。二度とおかしな気を起さないよう、俺が始末をつけてやるよ」
「待て……っ、あれの罪は、その娘に害を与えただけではない……」
青い瞳の、静かな助手。
それはどんな状況であろうと、他者との衝突を避けていた。性格や立場がそうさせるのか、理由はイルニスには分からない。けれど主が誰かを傷つけて、喜ぶようには見えなかった。
ぐっと奥歯を噛み締めて、胸倉を掴んだ手を握る。
「備品は焦げ、資料は灰になっていた。その中で、それは怒りを抱えて部下のことを責めていた。――どのようにして、その魔法を知ったのか、と」
ゆっくりと、男が目を見開いた。イルニスを掴んだ手が僅かに緩む。
「何故、分からないようにしていたのに――どうして、と」
イルニスもまだ、事態の全てを把握出来た訳ではない。それでもこの言葉一つで、己の部下が何をしたのか察しがつく。そしてフォルスは、『どのようにして』ロイが魔法を知ったのか、分かるはずだと見返した。
答えはない。
生み出されたその沈黙が、どれくらい続いた時だろう。不意に男は、あぁ、と小さく呟いた。
「そうか……」
俯いて、力なくイルニスから手を離す。
表情は見えない。ただ、発した声からは、怒りが抜け落ちていた。
「どうして、走ってしまうんだろうなぁ……」
「……、あなたのためでしょ」
「そうだな……何もかも、俺のためだ。こいつがしたがることは、全部。……もっと自分のために、生きていいのに」
もどかしそうに、想いを吐露する。二人をよく知る主治医だけが、それに応えた。
「貴方が願うなら、叶えてくれると思うわよ」
「俺は、こいつ自身に願わせたいんだ」
「……そうね。いらないことを言ったわ」
己がいかに手の掛かる存在か。理解すればするほど、自分自身で贖おうとする。
人形のような見た目とは違い、それは、悲しいくらい人間らしい娘なのだと改めて理解した。
また傍へと侍り、祈るように小さな手を包んだ男に、主治医が軽く息をつく。そしてイルニスの方へと向き直った。
「……防ぎきれなくて悪かったわね」
「支障ない」
「そういうわけにもいかないわ。不都合があればまた来なさい」
「ああ」
立ち上がり頷きを返せば、イアンがまた軽く呆れたような溜息を吐く。
「次はもう少し、きちんと話し合えるようになりなさい」
「……善処する」
言葉の足りない自分への苦言に、イルニスはまた一言で返事を済ませてしまった。とはいえ、他に言うべきことも見つからない。
(……否、ひとつ……)
大事なことを思い出し、イルニスは危うい師弟を振り返った。
「――後日、必ず償いに伺おう」
研究者からの返答はなかったが、聞こえてはいると感じ取る。そして、ミュゼットを連れて医務室を出た。
――たとえどのような経緯があったとしても、こうなる結果を選んだのはイルニスの部下だ。そして今日に至るまで、それを監督しきれなかった己の罪は重かった。
(これから、どうなるか……)
暫く落ち着かない日が続くだろうと、溜息を吐いた。
遅くなってしまいました……っ
ご訪問に感謝です!
そして今年もたくさんありがとうございました٩(*´ᗜ`*)۶°˖✧
良いお年をお過ごしください~




