13.愚者の後悔
明かりが戻ったその部屋は、惨憺たる有り様だった。濡れた棚に水が滴り、ぽたりと小さな音を立てる。
その瞬間、はっと気を取り直したロイは、辺りを見回し呆然としたように呟いた。
「……なん、なんだよ……」
「……どのように書かれていたか存じませんが、あれはこのような場所で描くべき魔法ではありません」
返ってきた声に、ロイがびくりと肩を震わせた。動揺に揺れる瞳を、ニコは強く見据える。
「この印を、どのようにして知りましたか」
「っ、それは」
「『解読』したのですよね? 我が主の書きつけを。どうやって手に入れたのです」
さっと青くなった顔色に、ニコは迷うことなく事実を示した。追及の手は緩めない。弟子にとって、大事なことだった。
「か、管理の悪いあいつの責任だろっ。俺は、何もしていない!」
「……なるほど」
何もしていない。それは事実なのだろう。
(だとすれば……)
熱の印を扱う部署の、それも浅からぬ縁のある相手。そこへ、同じ主題のフォルスの試作が『偶然』転がり込んできたわけか。
そんなこと、彼が『許さぬ』かぎり起こりはしない。
ニコは唇を噛んだ。
荒れた部屋。燃えた本。全ては試作の魔法を不用意に扱った、ロイの自業自得だと言われるだろう。
だが。
(違う)
師匠が動いたのは、ロイと会った日の翌日だ。だから多分、これを引き起こしたのはニコだ。
何が師匠のことなら分かるだ。図書館から帰ったあの日、ニコに見せなかっただけで、彼はきっと怒っていた。
疲れていたから気付けなかったなんて、言い訳だ。
あの人はもうずっと、呼ぶ声に、見つめる視線に、触れる手に、乗せて伝えてくれていた。
ニコを、大事にしたいのだと。
なのにニコは欠陥品だからと壁を作って、深く踏み込まないようにしていた。細くでいい、その代わりに少しでも長く続いて、失くす痛みが少ない方が良かったから。
だから彼が抱く想いなど考えようともしなかったし、報復を望んでいることも、思い至ろうともしなかった。
自分の心に向き合わず、五年も傍に居てくれた人を信じなかった、ニコの責任だ。
(私は、本当に馬鹿だ)
止めたかった。
こんなことを起こす前に、もっときちんと自分の心と向き合って、言葉にすれば良かった。
あなたが居るから平気なのだと、崩れずここにいられるのだと言えば良かった。
魔力に蝕まれる苦しみも、肌を焼く魔法の熱も、何もかも平気なのだと言えば良かった。
そうすれば、こんなことにならなかったかも知れない。
「――どうしてですか」
ニコは問うた。悔しくて、自分にぶつけるように、目の前の男に言った。
「主はきちんと、簡単には真似できないようにしていたはずです。何故それを、ほどいてまで」
何時間と机に向かい、試作を重ねた結果の魔法。印の温度が知りたいから、この開発の理由は彼の単なる興味である。だが。
『熱はどうだ』
『根本的な解決をしないとな……』
ニコを焼かないためのもの、だったのに。
「何故なのですか……っ」
戸惑う相手に繰り返し、強く問う。その時、どくり、と心臓が痛いくらいに強く打った。
「っ、……!」
頭では分かっていた。最後に使った光の魔法で、与えられた魔力をほぼ使い切ると。でもあともう少し、数分、数十分の誤差があると期待したのだ。
この馬鹿な状況に、不満をぶつけるくらいの時間はあると。
「――こた、……て、下さい……っ!」
鼓動が荒れ、息を吸い損ねて喉が鳴る。苦しいほどに、空気を求める体を宥めて呼吸する。
心臓が、痛い。
体の中心は燃えるように熱いのに、手足は氷のように冷えていた。体を壊す脅威に震え、立っていられず膝をつく。
けれど、まだ倒れる訳にはいかなかった。
手近な台に縋りつき、相手を見上げようと上を向く。その、瞬間。
突然ぐっと脇を掴まれた。
「苦情はあとで聞く」
「――、イル、ニ……」
ゆるりと視線を上げた先、眉間の深い皺を見つけると同時に、馴染みのない手が頬を擦った。
ふっと重苦しさが鎮まって、肺に空気が流れ込む。
「――ぁ、……っ、はぁ……っ、は……っ!」
蹲り、もがくように息をする。そんな姿が見苦しかったのだろう。
ふと、大きな手がニコの視界を覆い隠した。少し遅れて、師匠とは違う匂いが身を包む。
そこは、ニコが寄り掛かるべき場所ではない。
けれどもう、落ちる瞼を上げられなかった。
(……ご、めん、な……さ……)
意識が遠退いていく、その時、ぽつりと呟く声が耳に届いた。
「だって、知りたかったんだよ……」
どんな魔法なのか、と続けたロイに、あぁ、この人も研究者だったんだと理解した。
ご訪問、ありがとうございますっ。
完全無欠の天才師匠と有能弟子が無双する、そんなお話になれば本当は良かったのですが……
気付けば師弟の儘ならないやり取りになってしまいました。
なのでお付き合い下さって、本当に感謝です……!




