7.それは私の問題です
投げ出され、倒れていく箒の柄。ニコがそれを掴んで止めた時には、ルーチェはミュゼットの傍に立っていた。
「――もう、我慢できないんだけど」
「あ、あの……」
「あのさ、ニコ様が何かした? それとも変態の方だったのかな?」
「っ……」
「ああそっか、何かされましたなんて言えないよね。顔を見ただけで怯えるほど、酷いことされたんだもんね?」
「! ち、ちが……っ!」
「違わないよ。少なくとも他人にはそう見えた」
淡々と、ルーチェが事実を突きつける。
容赦なく逃げ道を塞ぐ相手を前に、ミュゼットはかたかたと小さく震え出した。
「そ、な……、わた、……ごめ、なさ……っ」
「ルゥにそれはいらないよ。謝られること何もないから」
ねぇ、アン先生?と彼女は自分の師に問いかけた。
「……ルゥ、自分の立場を考えなさい」
「そうだね。ルゥの大事なニコ様だもの。目に見えない傷が出来ないように、原因を何とかしなくちゃね?」
冷え冷えとした笑顔を浮かべ、ルーチェがミュゼットに向き直る。強い橙色の瞳に見下ろされ、蒼白になったミュゼットは今にも倒れてしまいそうだった。
「ルゥ……っ」
「なぁにニコ様。ルゥは今この子とお話してるんだ」
目もくれない。平常であれば、すぐに『患者』になり得るニコのことなど放っておかないのだが。
ぐっ、と手を握り締め、ルーチェの背に呼び掛ける。
「ルゥ、問うのであれば、私が正しいと、思います……っ」
これは、間違いなくニコの問題だ。だから他人に任せて、見ているだけでは許されない。ましてや、それで誰かを傷つけてしまうのはもっと駄目だ。
傍に寄り、つ、とぶかぶかの白衣を引いた。
細い肩がぴくりと揺れる。
「お願い、します。事実を尋ね、ミュゼット様に謝罪申し上げるのも……私がすべきことなのです」
傷つけないで。引いて欲しい。
願いを込めて掴んだ白衣の裾を見つめる。
すると、どうだろう。
十を数え終わるほどの頃、ようやく長い三つ編みがふわりと揺れた。
「……そうだね。うん」
失敗しちゃった、とニコを振り返る。その申し訳なさそうな、でもどこか泣きそうな笑みに、ニコは返す言葉に詰まってしまった。
違う。
ルーチェは何も悪くない。
よくあることだと、大したことではないからと流そうとしたニコのせいだ。
『ルゥは十級だから怪我しても治してあげられないけど……。でもニコ様がしんどくならないように、アン先生と一生懸命考えていくね!』
会う前から、四年分の記録を読んでくれた。欠陥品だと知りながら、何も言わず、ただ普通に笑ってくれた。
魔力量で等級が決まる世界で、謗りを受けてきた十級魔力の保有者。きっとニコという存在に、何も感じなかったはずはないのに。
「……ごめんなさい、ルゥ」
ルーチェを得難い人だと――、大切だと、思っている。
ならば彼女が大事にしたいものも、大切にすべきではないだろうか。
自分が見落としてきた多くのもの。それに気づいた結果を返せば、ルーチェは僅かに目を見開き――、気が抜けたようにふわっと笑った。
「ニコ様はほんと、馬鹿だなぁ」
しょうがないから向こうで待ってる、そう告げて、ルーチェはニコの脇をするりと抜けた。
イアンを見る。弟子の性格をよく知る彼は、軽く溜息を吐いて立ち上がり、彼女の後を追った。
「……何かあったら呼びなさい」
「ありがとう、ございます」
――今までずっと、衝突を避けてきた。
口をつぐむべきはニコであり、それが誰にとっても良いことだと思っていた。
でも、それはきっと間違いだった。
傍に近づくとまた、びく、と小さな肩が震える。ニコの視線から逃れるように俯くのを知りつつ彼女の傍に膝をつき、その指先に目を落とす。
切り傷は癒えていた。
(よかった)
イアンの仕事が早くて助かった。まだであれば話す前に治しておこうと思った。痛いことは、少ない方が良い。
「――ミュゼット様」
答えはない。見上げれば、ぎゅっと手を握り締める。
何をこんなに恐れているのだろう。
ニコと関わることで、何に苛まれているのだろう。
「すみません。……私たちに何か、変えられることは、ありますか?」
慎重に言葉を選んで彼女に尋ねた。ややあって、ふるふると首を振る様子にニコは僅かに視線を下げる。
これはやはり、気配を消すしかないのだろうか。そう思っていると、違うんです、と微かな声が耳に届いた。
「ごめん、なさ……、わ、わたし……、あなたのこと、聞く度に……すごく……」
「はい」
「っ嫌な気持ちに、なるんです……っ。何でそんな風に出来るんだろう、何で私は……っ、出来ないんだろう、って……!」
ごめんなさい、とミュゼットは涙を溢して項垂れた。




