閑話:嘘つき
「……っ」
びく、と体が痙攣し、勢いよく飛び起きた。
どくどくと、心臓が痛いほどに暴れている。苦しくて、気持ち悪くて無意識のうちに胸を掴んだ。
目は、閉じたくない。瞼を下ろせば、決して消えない記憶と思いが蘇る。だから一点をただ見つめ、発作が治まるのをひたすら待った。
大丈夫。大丈夫だ。何も怯えることはない。
今、ここが現実なのだ。
頭の中で呪いのように繰り返し、ようやく深く息を吐く。するとそこで漸く、カーテンを閉め忘れていたことに気が付いた。
ゆるりと見上げた冷たい硝子の向こう側、夜明けの光で輝く世界を小さな鳥が飛んでいく。
狂おしいほどに、心が願った。
どうか、そのまま自由に生きて欲しい。誰にも捕まらない、遠く温かなその場所で。
どうか、全てを忘れたままでいて。
***
それは、週末の休み前のことだった。
「――あれ? これ、期限が一週間前ですよ?」
受付に積まれた本を前に、ヴィリオは素直に事実を口にした。
「嘘だろ、前のはちゃんと返したはずだぞ」
納得いかない、と言いたげな相手の声に、ヴィリオは困ったように微笑んで、すみません、と前置きした。
こういうことはたまにある。ほとんどは利用者側の勘違いだが、頭からそれを指摘してしまうと無駄に相手の怒りを買う。
『返却されておりません』の一言で相手を一蹴できるのは、とある先輩くらいなものだ。
すごいよなぁと内心苦笑しながら手元の貸し出し記録を遡り、該当箇所を開いて相手に向けた。
「多分なんですけど……入れ替わっちゃったのかなーって思うんですよね。ここ、最初の貸し出しがこの五冊、次がその翌週でこの三冊です。で、返却の方なんですけど……これですね。最初の四冊と後で借りられた一冊になってました」
過去の日付を示しながら、相手の様子をちらりと伺う。すると文字を見下ろす目が忙しなく行き来して、日付と並ぶ書物の題名をなぞっているのが見て取れた。
沈黙が続き、しばらくして漏れ出たのは呻き声だ。彼自身、身に覚えがあるのだろう。
「……一週間、だよな」
「えーっと、そうですね……」
尋ねられたのは多分罰則期間だろう。延滞日数がそのまま、貸出停止期間に反映される。
だが、彼にはその一週間ですべきことがあるようだ。顔を覆い、まじかよ、と呟く様子から感じるのは、苛立ちと焦りだ。
(……どうしようかな)
助手に頼めば、室長の名で借りることも出来るだろう。流石の上司も、研究室の成果のためなら快く名を貸してくれる――。
(――と良いんだけどね……)
機関内部、また、各部門内で無意味に起こる蹴落とし合い。理解できない事象に遭遇している研究員に、ヴィリオは暫し思考を巡らせた。
「……週末のお休みも、研究室に籠る予定だったんですか?」
「まぁ、それしか出来ることがないからな」
「うわぁ、すごいですね……。俺、馬鹿だしどうにもじっとしていられなくて。一応頑張った事もあるんですけど、上手くいきませんでした」
頭良いの羨ましい!と言ってにぱっと笑えば、相手は呆気に取られたように瞬いた。
「……確かにどっちかって言うと、体を動かす方が好きそうだよな」
「そうなんですよ。なのでここで頑張ってる皆さんのことは、すっごく応援したいんですけどね……うーん……」
唸りながら少し考え、そうだ、と手を打った。
「いいこと思い付きましたよ! 前回返却された一冊と延滞分の本の題名。これを今、内緒でこそっと入れ替え――ぁぐ」
「何をしているこの駄犬」
ペンを手にしたその瞬間、ヴィリオの頭部にごす、と同僚の武器が直撃した。
「~~っか、角は、ダメです、角は……!」
「バカの躾にはやむを得ませんから。分かれば早々に貸出停止手続きを」
「ぅぅ、ぅぅう……」
悶絶しながら相手の入館証に罰則印をつけると、無愛想な先輩は武器を仕舞って去っていく。とんだ通り魔もいたものだ。
「なんか、悪ぃな……」
受付に来た相手は苛立っていた様子を一転させ、申し訳なさそうにヴィリオの頭部に治癒魔法を掛けてくれた。その温かな光と優しさが、傷付いた体によく染みる。
目にうっすらと涙を滲ませながら、ヴィリオは彼にありがとうと微笑んだ。
「いいんです、いつものことですから。それよりも残念な結果になっちゃいましたけど……」
「まぁ……大丈夫だ。今日は覚書でも何でもして帰って、今ある資料で考え直すよ」
「分かりました。頑張って下さいね」
ありがとな、と笑って書棚に向かう背を見送って、ヴィリオはふぅ、と息を吐いた。
心の内に沸き出すのは、良かった、という気持ちだ。
苛立ちは、人の易怒性を高めてしまう。普段なら何ということはないような、些細な刺激で怒りを抱き、望まず何かを傷つける。
だから、どんな方法でも笑えた方がいい。頬が緩めば尖った心が丸くなり、気持ちに余裕が生まれるものだ。
(それってすごく、良いことだもんね)
よし、俺えらい!とヴィリオは自分で自分を褒め称えた。毎回状況に応じて対処を組み立て、笑顔が見られれば成功だ。
今回は多少、いやそこそこの犠牲を払ったが、終わり良ければ全て良し。――と、言いたいところだったのだが……。
(……先輩、ほんと容赦ないんだよなぁ……)
リヨンの本気の殴打が少しばかり酷かった。ヴィリオもまさか不正を働こうなどとは思っていない。ただそこに彼がいたから、突っ込みでもくれるだろうと、それで笑い話になるだろうと――そう思っただけなのに。
もう緩衝材でもつけてやろう。でなければヴィリオの頭皮が危険だ。そう思い、頭の中で先輩の文具を使えない形にしていた時だ。
(……、思ったより、早かったなぁ……)
扉を抜けて現れたのは、図書館内における要注意人物の一人、ロイだった。元々目下の者への態度の悪さが目立つ人間ではあったのだが、昨日フォルスからの報告を受け、晴れて要注意に昇格した。
当事者が語らないため詳細は不明だが、この男が館内でニコを拘束し、怪我を負わせたのは事実らしい。
(……立場的に逆らいにくい女の子。それを死角で拘束って……)
勿論、図書館職員は怒っている。ここは本好きの聖域だし、被害者は司書達が受け入れを迷ったせいで、変態の手に落ちた子だ。リヨンが定規をしならせるのもやむを得まい。
(……)
――こういう時、つくづく思う。
彼女が『普通』であったなら。
器官が壊れていなければ。
こんな思いは、せずに済んだはずなのに。
彼女を取り巻く全てに心を揺らし、迷い続けている自分。その全てを覆い隠し、ヴィリオは一昨日も訪れた相手に笑顔を向けた。
「こんにちは。返却ですね」
「ああ」
面倒臭そうに差し出された本を受け取って、題名と記録を確認する。敢えて無駄話もせず返却手続きを済ませれば、ロイは早々に受付を離れ、二階の書棚へと足を向けた。
返却されたのは、一昨日彼の名で貸し出されていた本だ。改訂版が出ていたはずなので、恐らく本当はそちらを借りるつもりだったのだろう。
どうせすぐ戻ってくるだろうなーと思いつつ、背を見送って次の利用者に微笑みかけた。
――そしておよそ十分後。
予想通りの本を抱えて、ロイが受付に現れた。
「貸し出しですか?」
「そうだ」
受付に来る人の用件は本を借りるだけではない。だから確認しているのだが、彼は当たり前の事を聞くなと言わんばかりの態度だった。
そんな調子だから睨まれるのだと息を吐きつつ、ぱらぱらと落丁の有無を確認する。するとその時、頁の間から何かがひらりと落ちていった。
「――あれ?」
拾い上げたのは、二つに折り畳まれた紙片。ヴィリオはそれを机の上で広げた瞬間、困ったように息を吐いた。
「あぁ、こういうの困るんですよねー。ここを活用してくれるのは嬉しいんですけど、書いたもの忘れちゃったら意味ないっていうか……」
館内で資料を閲覧し、覚書を取る場合。何冊も広げて作業していると、気付かず紙を挟み込み棚に戻してしまうことがあるようだ。当然ながら、誰がいつ書いたものかは分からない。
しょうがないな、と呟きながら紙を畳めば、不意にロイがヴィリオを止めた。
「っ、それ」
「はい?」
「俺の、だ」
告げられた言葉に、ヴィリオはゆっくりと瞬いた。
「――ロイさんの、ですか? でもこれって確か北東の国の文字ですよね?」
「書き、写したんだ。たまたま見たら熱の印が載っていたから、どんなものか訳してみようと……」
「そうだったんですか。借りなくてもいいんですか?」
「借りるほど多く、書かれてなくて」
「なるほど。じゃあどうぞ」
なくさないよう気を付けてくださいね、と微笑みかけると、彼は何も答えず受け取った。その強張ったような表情に、あぁ、と思う。
(やっぱり嘘なんて、吐くものじゃないよなぁ……)
明けましておめでとうございます。
新年早々にお越しくださり、誠にありがとうございます……!
とてもとても嬉しいです\(*ˊᗜˋ*)/♡
今月は第2第4土曜にも現れる予定なので、どうぞ宜しくお願いします。
今年一年、皆さまに素敵な事がたくさんありますように。




