12.そして降りだす雨の名は
師匠の顔が、とても近い。
なんだろう。口に、何かが触れている。
一体何がと思う間に、それはニコの唇を軽く吸い――ゆっくりと、離れていった。
息を、吐く。
移った熱が引いていく。
それが少し、寂しかった。
だからニコは何も言わず、ただ師匠を見つめていた。
真っ直ぐに向けられる、彼の瞳を見つめていた。
甘い砂糖を溶かして作られた、ニコの大事な師匠の飴色。
それは焦がれて揺れて、求める相手に近づいて――。
(――……、!!?)
「ちょ……っ、あの、待っ……!」
「なんだ」
「~~っな、な……!!」
(なん、だ、じゃない、です……!?)
接触寸前のかなり際どい状態で、ニコは心の中でそう叫んだ。いつの間にやら腰と後頭部が捕捉され、顔を逸らすことすら叶わない。
何だ、これは。一体何が起きている。
ひと欠片も分からない……はずなのに、顔がかぁっと熱を持ち、思わずぎゅぅっと目を瞑る。
「っは、離して、……下さい……」
心臓が、物凄い勢いで鳴っている。どくどくと、うるさい上に息苦しくて、このまま触れていると死ぬだろう。
なのに師匠は、
「無理」
「は」
「もう、可愛い……」
深く、深く息を吐き、ニコをぎゅう、と抱き締めた。瞬間、ニコはみぎゃぁと叫ぶ。
誰が絞めろと言ったのだ。
沸騰する頭で罵って、もがいてみてから気がついた。
抱く腕の、包み込むような、やわらかな力の入り方。
普段とも、先程の縋るような、閉じ込めるようなものともまた違う。大切だとか、幸せだとか、そんな感情が染み込んでくるようで。
「~~っ」
胸が、苦しい。
これを、どうしていいのかニコは知らない。だから辛うじて動く手の先で、とんとんと師匠を叩いた。
返事はない。
彼はただ、ニコの髪に顔を埋めて呼吸していた。
幸せそうに漏れる吐息に、涙が滲む。
堪らずにたんたんたん、とより強く師匠を叩いた。
長身がぴくりと反応する。だが、すぐに離れはしなかった。
黙ったまま、金糸にすり、と頬を擦り寄せる。そしてそっと体を起こし、弱り果てたニコを見て――細い肩に沈み込んだ。
「ぁああ何故ですか……っ!?」
「俺は今、お前を滅茶苦茶にして、幸せにしたい病に罹っている……」
「はい……!?」
激しく矛盾した病気だ。だが、そうと指摘するのは不味いと思った。
「じ……、時間が経てば治りますかね」
「治らない。治したいとも思わない」
かなり、侵されているらしかった。
同時に、患う彼に追い込まれていくニコがいる。
「そ、早計ですよ。諦めなければきっとまだ、治る見込みも」
「絶対ない。俺は一生、この病と生きる」
「っ……」
ぎゅぅ、と胸の奥が締まった気がした。
完全に、選択を間違った。もはやどうしてと、そう問うことすらも出来はしない。体を捕らえ、言葉を重ね、彼が伝えようとしていたことが、一体何か分かってしまう。
「っ、す……少し、落ち着きましょう……! そうです、とにかくまず、一旦離れてからですね――」
疼く胸、早鐘を打つ心臓を全て無視して、ニコは体を捻って腕の中から抜け出した。離れてしまいさえすれば、どうにかできる思ったのだが――。
「駄目だ」
低い声が耳に届いて、ニコの体がふわりと浮いた。
え、と戸惑うニコを腕に乗せ、彼は湖水の瞳を真っ直ぐ見上げた。
「誤魔化すな。そうやって逃げたらもう……何をするか分からない」
「――な……っ」
「限界なんだ。病んでいると自覚してから、傍にいるだけで悪化する。それでも今は駄目だと自制して、お前にとって安全な、『お師匠様』であるよう努力した」
「……あ、あの……」
「どれほど煽られようが耐えてきた。体に触れて抱き締めたい。口を塞いで繋がりたい。何度想っても我慢して、いつも通りに振る舞った」
「っ、ちょ……、待っ……」
「けどもう無理だ。俺はお前を」
「だ……めっ、ま、待ってって言ってます……!!」
「待てない」
ぐっと師匠の手に力が籠り、長い指がニコの体に食い込んだ。痛くはない。でもその強さに息が止まった。
「お前の穏やかな世界が全部、俺の与えたもので出来ている。そう聞いて、大人しく出来るほど余裕がない」
「――っで、でも、わたしは……!」
「俺のものだと、お前は言う。だが本当は全てを許した訳じゃない。お師匠様じゃ無理だった。主人じゃもっと届かなかった。痛い、辛い、怖い、苦しい。お前が飲み込むその声を、聞ける立場が今すぐ欲しい」
「――……っ」
酷い、と思った。
そう簡単に、あげますなどと言えるはずがない。
だってそれは自身の生まれも記憶にない、欠陥だらけの生きものだ。必ず他人を困らせる、煩わしいものだと知っている。
だからニコは俯いた。
俯いて、師匠の目から逃れるニコを、彼は呼んだ。
「ニコ」
ぐっ、と頬を噛み締める。
たった一言。師匠が名前を呼ぶだけで、保ってきたものが溢れてしまいそうだった。贅沢だから、相応しくないからと、必死で築いてきた壁が、崩れてしまいそうだった。
それが何より苦しくて、ニコ自身、本当はどうしたいのかを、嫌というほど理解した。
(……そんな、こと、……)
許されない。
泣きそうな思いで否定するのに、彼はニコを離さない。乞い願うようにニコを見つめて、限りある一分一秒、他の何より弟子の心を得ることに、自身の全てを捧げていた。
――あぁ。
どうか、と。
そう、祈る言葉がはじめに零れた。そして彼の肩に置いた手に、願いから生まれた力が籠った。
震えながらもきゅっと上着を掴んだ弟子に、フォルスが微かに息を飲む。
(……、ごめん、なさい)
謝りながら、目を閉じた。
どうにもならないことを醜く嘆き、痛みと不安に弱く震える。そんな姿を晒け出してしまっても。
(ごめんなさい……)
傍にいて。
ずっと、ずっと、傍にいて。
離さないで、一人にしないで。
「――お師匠、さま、……」
彼を、呼ぶ。それ以上の言葉は続かなかった。けれど、その代わりに零れ落ちたものがある。
頬を伝い、ぽたぽたと。
抱いた願いが溶けて水になり、雨になって師匠に降った。彼はそれを遮ることなく受け止めて――不意にとん、とニコの胸に額を寄せた。
あぁ、と幸せそうな吐息が耳に届く。
それからぐり、と濃茶の頭が擦りつけられ、春の陽のような笑顔が現れた。
「可愛いなぁ……」
しみじみと、師匠が言った。
「…………今、それは、ひどいです……」
折角整えてもらった顔がぐしゃぐしゃで、美しくし隊が見れば嘆くだろう。なのに師匠は嬉しそうに目を細め、仕方ないだろと軽く言った。
「だって本当に可愛いんだ。ずっとこうして見ていたい」
「う……」
最低だ。目も、頭も腐っているんだと言いたかったが、罵る言葉が出てこない。代わりに澄んだ雫がぽろりと落ちて、それがまた師匠を目一杯喜ばせる。
「やっぱりもう、止められない。帰ったら絶対滅茶苦茶にして、幸せにしてやるから覚悟しろ?」
――それは、傍若無人な彼らしい。
酷く、優しく、甘い約束に、久方ぶりに降る雨は中々止まなくなってしまった。
お久し振りです……!
お越し頂きありがとうございます……!
やっと章がひとつ終わります。
今後は閑話を挟んでから、機関の日常に戻る予定です。
まだちゃんと好きと言えてない弟子と、ひたすら愛でたい師匠の攻防戦になる……はず。




