11.絶対、分かりたくはない
「……ですから、どうとかではなく。私は単に、驚きを示しただけで」
ルーチェは医務室に来て一年程だ。立場上、欠陥品と関わる機会は多いとはいえ、ニコの主治医はイアンである。変態天才研究者の相手は彼がしているはずなのだが。
「そんなに、話すことがあったんだなと、知らなかったなと……。……、あの、何がそんなに可笑しいのです」
「いやぁ、何というかもう、堪らないと思ってな」
「そうですか……」
にまにまと、とても楽しそうなご様子だ。よく噴き出さなかったものだと思う。
「……ご満足頂けたようで何よりです」
「全くだ。お陰でますます嵌まってしまう」
頬を緩めたまま告げて、師匠はすっと手を持ち上げた。何かと思って見ていれば、それは何故か、弟子の頭へ着地する。
「……お師匠様?」
「ん? ああ」
意図を問う呼び掛けだったのだが、彼は何とは言わなかった。ただ穏やかな様子で目を細め、弟子の髪を撫でていく。
「……本当に、必ず結果で応えてやると……、それだけだったんだがなぁ」
――全然、足りなくなってるな。
そう呟く彼の指が、気づけば頤に掛かっていた。そこで初めて、戸惑った。
「……えと」
瞬いて見つめれば、飴色がニコの瞳を真っ直ぐ見返す。
思わず視線を逸らしてしまうと、今度は彼の手が頬を包み込んだ。触れたところから、ニコのものではない、高い熱が侵食してくる。
「……弱音を吐けない、笑えない。なら絶対、吐かせてやろうと思ってな」
「は、……」
一瞬固まるニコを笑い、彼はそれから、と口を開いた。
「何も気にせず笑えるくらい……、守りたいとも、思ってな」
(――な)
何を、急に、言い出した。
微かに震えた身体を引いて、俯いた。
「――じ、冗談、ですよね」
「……俺は本気だ。心から思ったことしかお前に言わない」
「っでしたら、余計、だめなのです」
「何故?」
「ひ、必要のない、ことだからです。放っておいて全く問題ないですし、そもそもお師匠様の利にならない。……そんな無駄なことを考えるのは、やめた方がいいのです」
「あぁ、そうか」
下げた頭のすぐ上で、短い答えが返された。それと同時に、師匠の影がニコの膝から引いていく。
ぎゅ、とスカートを握り締めた。
とても静かな声だった。
顔を見ずとも、機嫌を損ねたのだとよく分かる。
だがニコは、そうしてでも師匠に引いて欲しかった。
でなければ、何を口走るか分からない。この手ですら、拾われた頃の従順なそれとは違うのだ。
戒めるように、頬の内側に歯を立てる。
力を込めれば、じわりと鉄錆の匂いが広がった。
その、時だ。
ぐい、とニコの腕が強く引かれた。
腰が浮き、姿勢を崩した体をぽすりと何かが受け止める。
馴染んだ匂いが、ニコをふわりと包み込んだ。
「お前は本っ当、しょうがないやつだなぁ」
「っ!?」
咄嗟に離れようとすれば、背に回された腕がそれを阻む。だめだろ、と師匠が言った。
「人の話を聞かないお前が悪い。……俺はな、足りないと言ったんだ。利益なんて関係ない」
「っ、あ……、た、足りないのなら別の方にあげてくださいっ。メル様でも、クレアさんでもルゥでも、誰だっていいのです……! とにかくもっと――」
「断る」
びく、とニコの肩が小さく跳ねた。
すると大きな手が背を滑り、宥めるように撫でていく。
「……俺は、お前がいいと言ったんだ。甘やかすのも、我儘を聞くのも、痛みや怖さを失くすのも、全部お前じゃなきゃ嫌だ。傷にまみれて、それでも主人の利益しか考えない――そんな危なっかしい奴だから……」
ぎゅう、と師匠が腕に力を込めた。
「放っておかない。でないときっと……俺の知らないところで自分を殺す」
分かるだろ、と掠れた声が耳に届いた。
――……いや、だ。
これは、いやだ。
分からないし、絶対分かりたくはない。
願うように囁く声も、縋るように抱く腕も。
彼の与える全てのものが、ニコの心を苦しめる。
だから首を振って抗った。
分からないと――許して欲しいと訴えた。
なのに、彼は手を離すことなくそこにいた。諦めることなく傍に居て、足りないものを満たそうとしていた。
(……あぁ)
どうしていつも、そうなのだ。
いつも、いつも、望んでもいないものを押し付けて、ニコのことを困らせる。
食べるものも、寝る場所も、魔法を使う方法も。
彼は誰もが持つ、全ての『普通』を与えてくれた。
だからニコは、それに報いられればそれでよかった。
それだけで、十分だった。
それなのに――。
「――っわ、わか、りません……! お師匠さまこそ、どうして、分かって、くれないのか……っ」
どうしてそれを、越えてしまう。
どうしてそう、何もかもを与えてしまう。
問う度に、止めようもなく溢れるもどかしさ。ニコはそれを引きちぎるように、胸を掴んで師匠を見上げた。
「ご飯を食べて、美味しいなぁって思えることも、寒い日に、毛布の中から出たくないなぁって怠けることも。……魔法の軌跡を、ただ、綺麗だなぁって眺めることも……、全部――、全部、お師匠さまがいないと叶わなかった。私一人じゃ、欲しがることも出来なかった……っ」
深くに抱き、形に出来ずにいた感情。それが、堰を切ったように溢れ出す。
言わなければ、伝えなければと逸る心を抑えて息を吐き、彼に届く声にする。
「……貴方から貰った一つ一つが大切で、一杯で……、泣きそうなくらい、すごく、すごく苦しくて……。――だから、私はもう、これ以上……何も頂くことは、出来ません……」
想いを乗せた言葉の先、ニコの大事な師匠がそこにいる。
だが、どうしてだろう。
いつも余裕に満ちた飴色が、今は苦しげに揺れていた。
――そして彼は、それを隠すようにゆっくり瞬き、ニコの顎に、手をかけた。
ありがとうございます。
師匠、気合入れました。




