4.こんな朝を無くしたい
翌朝、眠りに落ちた位置と違う場所で目覚めたニコは、ああ、と思った。
その感嘆符は、申し訳ないと仕方ないが混ざった複雑なもので、他に表現の仕様がない。
初めて同じ状況を経験した時に、フォルスからは続き部屋で眠れと言われている。
運ぶ手間を思えば従うべきなのだが――どうにもそちらへ向かおうと思えないのだ。
恐らく、主より先に床につくのを良しとしないが故だろう。
(置いておいてくれて、いいのですが……)
それでなくとも意識のない時はこの寝台を独占するのだ。
せめてこんな時くらいと思いつつ、続き部屋の戸を静かに開ける。
すると思った通りと言うべきか、夜更かししたらしき研究者が長椅子で伸びていた。
収まりきらない長い足が、布張りのひじ掛けからはみ出している。
腹の上には読みかけらしき本が伏せられ、見渡した部屋はたった一晩で清々しく荒れていた。
(……何時まで起きていたのでしょう)
日付を超えていたことはまず間違いないだろう。
というのも、ニコの印はかなり繊細で、僅かな配置の違いでいとも簡単に機嫌を損ねるのだ。
駄目だったというのは簡単だが、書き換えた部分の『何』が『どの作用』を打ち消したのか、考えるのは容易ではない。
その上――。
床に落ちた書き付けを手に取ってみる。そこには、ある印の失敗作が描かれていた。
光と熱の要素を使い、印の発熱を視覚的に表そうと目論んだものだが、まさかの発火で要修正となったものだ。
本格的に再検討するのか、また新たな言語で文章が記されている。
造りたい魔法と、試したい方法が山のようにあって時間が足りない。そう語る師匠を、ニコはずっと見てきた。
目を伏せ、手にした図案をきゅっと握る。
そして長椅子に目を向けると、突如寝不足の研究者がもそりと起きた。
「…………ねこが、いる……」
「もう少し寝ましょうか」
寝惚けた発言をかます師匠を宥めてみたが、当人は抱く……と呟きながら身を起こしたまま朦朧としている。
寝落ちしたフォルスを中途半端に起こすと割と大変だ。
見えないものが見えている今、もう暫くお休みいただいた方が良いだろう。
「きちんと横になって下さい」
ゆらゆらと揺れる人間を寝かしつけようと傍へ寄る。
するとそれはぐらりと前へ倒れ込み、ニコの胸に重い身体が凭れ掛かった。
「――……と……」
何事か呟く声がする。ニコはそれに耳を傾けてみた。
「……、いい、子……――」
「……」
微睡みの中で一体どんなものを見ているのか。
三角耳のもふもふと戯れているのかも知れない。
幸せそうに息をつく主に嘆息し、ニコはみゃーと鳴いてやった。
***
その後、ニコがどうやって寝かせようか悩んでいるうちに、フォルスは再び覚醒した。早い戻りである所を見ると、頭部を預けた部位の快適性が不足していたのだろう。
「……ニコ、か?」
「私以外に見えるのなら、今度こそ寝台で寝てください」
「いや、起きる」
そう言って身を起こした彼は、枕にしていた弟子を上から下まで眺め回し、笑顔でご苦労様と宣った。
そして気持ちよさげに伸びをして、飯にするかと言い始める。
師匠の気ままな様子に、どちらが猫かと心の中で溢しつつ、ニコも彼に倣って身支度を済ませて部屋を出た。
一階まで階段を下り、長身と並んで建物内を西へと進む。
すると食欲をそそる香りがしはじめて、両開きの扉が見えてくる。
朝早くから夜遅くまで開放されているそこは、機関関係者向けの食堂だった。
時間帯によっては列を成すくらいなのだが、繁忙時間を外しているためか中は閑散としている。
今はちょうど昼食の準備の最中らしく、朝の料理の残りはごく僅かだ。
それなりに空腹の師弟は、不人気だったらしい果物と野菜のサラダに、パンと鶏のスープをつけて席についた。
貫徹したらしき研究者がふらふらとさ迷っているのを横目で見ながら、ニコは己の主に尋ねてみた。
「お師匠様、眠くないですか?」
「全く。今は意欲に満ち溢れているな」
「その気力には敬服します……」
先程の寝ぼけぶりが嘘のようにしっかりしている。
楽しげな笑みを見せる彼は、また新たな方向へと突き進んでいくのだろう。
研究者が執念の炎を燃やし始めると、しがない助手には鎮火が難しい。
せめて今夜はと考えて、ニコはスープを啜りながら、主の気を引けそうな文言を浮かべてみた。
「何を考えてる?」
無言で見つめる弟子に、フォルスが問うた。
「どうすればお師匠様と家へ帰って眠れるのか考えていました」
素直に晒された弟子の思考に、師匠は笑みを深めた。
「ならそのまま言えばいい。一緒に寝たいので帰りましょうと言えば、その言葉を全部叶えてやる」
「……それが本当ならとても助かるのですが――私の台詞が歪んだような気がします」
「そうか? 聞こえた通りに言ったつもりだが」
「色々と、違うところがありますね……」
特に、お師匠様とするのは『寝る』ではなく『帰る』であるべきだろう。でなければ、聞きようによっては弟子の立場が結構危うくなってしまう。
というかそもそも、望む行動の主体はニコではなく主のつもりだったのだが。
溜め息をついたニコに対し、フォルスはにやにやとした表情を崩さず口を開いた。
「なんだ、違うのか。珍しくお願いしたと思ったんだがな」
「……別に珍しくはないでしょう。こうして欲しいとは、よく言いますし」
「そうだな。こうしたいとは言わないよな」
そんな風に切り返され、ニコはサラダをつつく手を止めた。
何故だか、狡いと言われたような気分になったのだ。
(……、したいと言うべきだった、みたいです……?)
串刺した菜っ葉を口に運び、そんなはずはと振り返る。
したいはニコで解決できて、主張せずに終えるもの。
欲しいはニコに届かぬことで、口に出して望むもの。
主に動いてもらうなら、後者を選んで間違いはない。
だというのに、向かいで食べ進める相手は余裕の表情で、ニコはもやもやとしながら少し固くなった主食をちぎった。
フォルスに帰って欲しい。
全くもってその通りだ。
だがそれだけを願うなら、ニコは研究室に放置されてもいいわけだ。
(む……)
瞬時に辿り着いた答えに、ニコはパンを抱えたまま俯いた。
それはなんとも子供じみた我儘で、口に出すのも恥ずかしい。
こんなものが主への要望に紛れていたなど信じたくないが、なお悪いことに彼はこの望みに気づいているのだ。
――何とか、なんとか言わなくては。
謎の焦りが襲いかかり、ニコは無意識に手に持つ食事をぺしゃりと潰した。
そして。
「――その、……私も、一緒に帰りたい――……です……」
絞り出した声が届いたかどうか。
下がった頭をそのままに、目だけをそろりと上に向ければ、天を見上げた主の姿がそこにある。
「――想っ像以上の破壊力」
「えっと、何なのですかそれは……」
お読み頂きありがとうございます!
これから更新、開きます。すみません(;△;)
早いこと前みたく触れ合える世の中になりますよーに。




