4.黄昏は瞬きの間に
辞する直前まで長を困らせ、師匠は楽しげな様子でその部屋を後にした。
――弟子の上肢を拘束して。
『研究者』が少女を連行する様に、すれ違う人々がまたかと顔を引き攣らせる。
同時に送られる憐みを感じつつ、ニコはひたすら歩を進めた。
斯様な状態を長く晒すくらいなら、早く着けと心から思う。
馴染みの扉を求めつつ、やっとのことで部屋へと戻れば、フォルスが笑顔で一歩、己の弟子との距離を詰めてきた。
「さて、何をして欲しい?」
ニコは一歩、後退した。
「書類を、書いて欲しいです」
作り上げた印を公開するに当たり、提出すべき書類がいくつかある。
それを、読める字で書いていただかなくてはならないのだ。
特に今回は命令による登録のため、早くに仕上げるべきなのだが――。
「多少遅れたところで問題はない。それより俺は今、献身的な弟子を褒めてやりたくて仕方ないんだ」
「……お気持ちだけ、有難く頂きますね」
どうあっても取り掛かる気はないらしい。
主の身が迫り、ニコはまた足を引く。
だがその度に距離が近づいた。
ニコとフォルスの歩幅の差から生まれる結果だった。
「遠慮するな。そうだな、首から上を撫でてやろう」
「何故普通に頭と言えないのです……」
「頭頂以外も撫でるから」
耳とか顎とかな、と微笑む彼を、ニコは思わず半眼になって見つめた。
分かってはいたが、褒めるとは口だけで――実際は弟子を猫扱いしたいだけなのだ。
全くもって不本意な上、人間には弱いところを触れられるとくすぐったくて仕方ない。
だが、ディレクを庇って主が『褒めたく』なる原因をつくったのもニコである。
「……分かりました。撫でるなら好きなだけ撫でてお仕事をしてください」
嘆息と共にお願いをすれば、フォルスはとても良い笑顔で分かったと答えた。
そうして自身の手をニコの頭にぽすりと乗せ、ぐりぐりと撫でる。
それから宣言通り耳の後ろに軽く触れ、輪郭を伝って長い指先で顎を擦った。
つい顔を傾けたニコの肩から、細い髪がさらりと零れる。
(……)
絶対口には出さないが、こうされてしまうと悪くないと感じたりする。
この弱点を悟られたくなくて、ニコは目を逸らして口を開いた。
「――みゃあとでも言いましょうか」
「首から下も撫でられたいなら鳴けばいい」
「ならやめます……」
何処を撫でてくれるか不明だが、ひとまず不味いと直感した。
それに、範囲が拡大するといつまで経っても主の仕事が進まない。
すぐさま撤回したニコに、フォルスは残念だと満足そうに呟いた。
そして長い金糸の先にまで指を通し、手を離す。
「じゃあ仕方ないから書いてやるか。早くは済ますが――」
「お気遣いなく。課題を進めていますから」
物分かりの良い弟子の答えに、師匠はいい子だと笑って機嫌よく席についた。
書類の束を手に取る姿を見届けて、ニコも定位置の長椅子に腰を下ろす。
そして机に広げた自己の課題に目を落とした。
(――よし、頑張りましょう)
息をついて抜けた気合いを入れ直し、ニコは筆を手に取った。
***
(……、難しい、です……)
取り組み始めて幾ばくか、ニコはとうとう集中力を切らした。
今与えられている課題の内容は、『新たな魔法の創造』だ。
本当は、機関や学院外の、一般の人間による魔法の開発及び実験は禁じられている。
失敗するくらいなら問題ないが、予期せぬ効果を生んだ場合の危険度が高いからだ。
だが師匠は思考の刺激になるという理由だけで、弟子にそれを要求していた。
(浄化……は、解釈が違いましたし……治癒も上手くいきませんでした……)
無茶な課題を真面目に悩み、手のない状況に至ったニコはまた溜め息を落とした。
だらしなく背凭れに体重を預け、描くべき印を探して目を閉じる。
本当に、この課題には悩まされてばかりだ。
何かを開発する元は、あればいいなという欲求である。
『まぁいいか』と現状を受け入れがちなニコにとっては、本来相性の良いものではなかった。
だが師匠に言われ、自身の思考を意識するうち――ようようと、あればいいなを見つけられるようになってきた。
中でも中々眠らない研究者を眠らせる魔法とか、きちんと三食食べたくなる魔法とかは、割と早い段階で考え付いたものである。
そして今は集めた候補の中からあるものに絞り、方法を検討中だった。
(とはいえ全然、進んでいませんが……)
広げた本に書かれているのは、身体疲労に関する内容である。
『疲れをとる』という事象を描くため、改めて対象を深く知ろうと考えたのだ。
しかしそこには、身体を使い続けることで毒素が溜まるのだろうとか、眠ることで改善できるとされているとしか書かれていなかった。
曖昧過ぎる。
毒とは何なのだと言いたいし、そう簡単に眠らないから困っているのだ。
とはいえ、ニコが地団太を踏んでもこの本ではこれ以上の答えは得られない。
(もう少し、別の視点で書いてあるものを探しましょうか……)
気持ちを切り替えて頭を起こすと、飴色の瞳が自分に向いていたことに気がついた。
いつからそうしていたのか、彼は頬杖をつきつつじっと己の弟子を眺めている。
「も、う……終わったのですか?」
「まぁな」
ニコがつかえながら尋ねれば、彼からは簡潔な返答が返された。
そうしてフォルスは伸びをして、こういう形式のある書類は嫌いだと溢す。
「なら、お茶でも淹れますね」
席を立ち、いつも通り甘いものを出そうとした助手を主が止めた。
「それより普通に食べてもいいと思うが」
ニコは窓を振り返る。
すっかりと、日が落ちていた。
お読み頂き本当に感謝です~(*ˊᗜˋ*)
師弟におかしな会話ばかりさせて遊んでます。