1.研究者の引き揚げ
日差しがやわらかくなり、すっかり過ごしやすくなった秋の午後。
窓の外ではみ空色を背景に、風が色付いた葉をさらっていった。
朝夕の冷え込みに弱いニコは、早々に衣替えを済ませている。
ただそうしても、前に釦があるのは変わらない。
こればかりは、仕方ないのだ。
全ての元凶――ではなく根源である者はといえば、相も変わらず虚空を見つめては、がりがりと何かを書き付けている。
そんな姿を見やりつつ、ニコが摂り終えた軽食の器を片付け、さてと思った時だ。
研究室の扉が音を立てた。
この部屋への訪問者はとても珍しい。
相手と用件に思いを巡らせつつ、ニコは応対のため扉へと向かった。
因みに部屋の主は一度程度では反応しない。
「お待たせ致しました」
取っ手を引き、見えた相手に礼をとる。
それに会釈を返したのは、機関長の補佐をしている壮年の男性だ。
ニコはすぐ、近頃主がした行動を思い返した。
何か問題行動はなかったか、と。
そんなニコの内心を測ってか、向かいからはくすりと小さな笑い声が漏らされた。
「お叱りではございませんのでご安心を。機関長がお二人にご報告があると」
「承知致しました。可能な限り、早く伺います」
毎回、すぐにと言えないところが残念だ。
相手もそれを理解しているので、お願いしますとだけ述べて戻って行った。
「――お師匠様」
呼び掛けたが、案の定返事はない。
誰でも考えに沈むと反応が鈍くなるが、フォルスはその時の深度がまちまちだ。
深海まで行っていると引き揚げるのに苦労する。
(まぁ、音に反応しない時点で無理がありますね……)
早々に結論を出し、ニコはフォルスの服を摘まんで、彼が気にしそうな文句を捻出した。
「お師匠様、印が消えるかもしれません」
「……何?」
一呼吸の後、師匠が面を上げる。
弟子はそれに顔を背けて付け足した。
「……二十四時間後、くらいには……」
静寂がその場を包む。
ややあって、フォルスが笑みを浮かべた。
「そうか、ならその読みが正確かどうか確認しておいてやるよ」
「いえ、結構です」
立ち上がった彼を見て、ニコはすぐさま距離をとる。
ここで沸いたら頭を捻って師匠を釣った意味がない。
「そう遠慮するな。言わなくていいことを言ってまで、俺の気を引きたかったんだよな。安心しろ、気が済むまで構ってやる」
「違います、機関長がお呼びなのです」
「なら今日中に行けばいいよな」
訂正を入れたニコににじり寄りつつ、フォルスはそんなことを口にした。
彼の中で今日とは日付が変わるまでである。
間違ってはいないが、常識ある時間に訪ねるという気は紙のように薄い。
それはもう、ぺらぺらだ。
「っ今すぐ、行くのです!」
事あるごとに釦を外したがる手をすり抜けて、ニコは室外へと飛び出した。
ご無沙汰しております、お読みいただき感謝です!
今後は目指せ週一!ですみませんっ。
よければお話再開に際し、主と助手の言葉遊びでも。
【補償とは】
「『魔法研究の第一の目的は魔法及びその技術を解明し人類の生活を向上させることにある』」
「結果は間違ってないだろ」
ニコがその項目を読み上げてフォルスを見れば、彼は堂々と言って返した。
「目的と結果は違います」
結果向上しているだけで、彼の目的は基本自己の欲を満たす事である。
溜息をつきつつ指摘すれば、研究者なんて皆そんなものだと返された。
彼にかかれば、自身の思いが普遍的な意見になる。我が道を行く師匠に諦めを抱きつつ、ニコは続いて気になる項目を読み上げた。
「『研究参加の結果として被検者が損害を受けた場合、適切な補償が行なわれなければらならない』」
「お前の身体機能を損なった覚えはない」
「私としては、色々と失くした記憶があるのですが……」
「ならそのうち責任を取ってやるから覚悟しておけ」
それがけじめをつけようという者の言葉だろうか。
しかも何ゆえ補償を受ける側が覚悟を決めねばならないのか。
突っ込みたいことがいくつも沸きだし、ニコは再び口を開いた。
「……期待しておきますので、他の方にはそのような事は言わないで下さいね」
全てを一言で済ませれば、師匠は分かったと笑顔で答えた。