1.何かと縁のある場所
図書館は独特な匂いがする。
木の本棚、古い紙や皮、そしてインク。
それらが入り混じり、他にはない世界を作り出す。
ここでは本が主体なのだ。過去の膨大な知識と思いが生身の人間を圧倒し、生きている。
孤児院に居たニコにとって、これ程の本に囲まれる機会はここに来るまでなかった。
梯子の掛かる高い書架を眺めながら、ニコは入り口から左側、この規模にしてはささやかな受付へと足を向けた。
「返却をお願いします」
「……期限内ですね。貸し出しを許可します」
残念そうに溜息をつくこの司書は、実はフォルスが延滞することを期待しているのではと思ってしまう。
だが主の前科を振り返れば、貸し出したくない気持ちもよく分かるので、ニコは丁寧に感謝を述べて踵を返した。
次に借りるよう指示された本は、上の階にある。
それを求めて歩き出した時、珍しくも彼――リヨンが声を掛けてきた。
「……そういえば先日、セナが無事に出産を終えたそうです」
予期せずもたらされた吉報に、ニコは僅かに目を見開いた。
次いで、自身が緩むのが分かる。
「それは、幸いです」
折をみて、フォルスと共に祝いに伺おう。
彼女は予定より少し早く産休に入ったので、気になっていたのだ。
この機関付属の図書館で司書をしていた『セナ』とニコは、リヨンと同じくほぼ五年の付き合いがある。
ほわほわとした綿のような雰囲気の女性だが、図書館の規則は絶対に歪めない。貸し出しの期限を過ぎた者に対しては、たった一日であろうときっちりと罰則をつけるのだ。
そんな彼女に対し、フォルスはしばしば延滞、加えて書籍の汚損などで散々迷惑をかけており、ニコは主のことも含め何かと世話になっていた。
(……お祝い、何にしましょうか)
そう考えてみて、ニコは性別を聞いていなかったことに気がついた。
とはいえ、初めてであれば色々なものが入り用だ。その中には男女どちらでも差し支えないものも多くある。
孤児院でのことを思い出しつつ、フォルスと相談しようと考えていると、再びリヨンが話しかけてきた。
「因みに、女子だそうです」
「そうでしたか。ありがとうございます」
可愛い子に育つだろう。
ニコがセナの愛らしい容姿を思い浮かべていると――。
「先輩、ニコちゃんには興味なかったんじゃないんですか」
じめじめとした声が割り込んで、リヨンに溜息をつかせた。
「何故一言会話しただけで責められなければならない」
「だって笑いましたっ。ニコちゃんと初めて会ってから三か月、一回も見たことなかったのに! 先輩何したんですか!? 何言ったんですか!!?」
「喧しい!」
リヨンが長い定規をしならせた。
それは賑やかな発言を繰り返した相手の脇腹に直撃し、呻き声を上げさせる。
「痛った! 滅茶苦茶痛っ! 先輩酷い!」
「お前が煩いからだ」
今し方後輩を殴ったばかりの武器を机に置き直し、リヨンは淡々と返した。
だが彼の額にはいまだに青筋が浮かんだままである。
この青年――ヴィリオが絡むと、冷静沈着な司書は別人になる。
ニコは騒動に巻き込まれまいと、熊に出くわした時の如くそろりと後退した。
だが鼻の利く相手には無駄だったようだ。
勢いよく振り向いたヴィリオは、ニコを見た瞬間、喚いていたのが嘘のように薄藍の目を細めた。
「ねぇねぇ、何のお話してたの?」
「……セナさんの、ことを」
「ああ、前任の! ニコちゃんの小さい頃を知ってるんだよねぇ、羨ましいなぁ。十三? だったよね?」
「……はい」
よく知っていると、思う。
彼には名前と身分、年齢程度にしか伝えていないのだが。
その愛想の良さで犬系と称され、着任早々お姉様方に人気の青年は、図書館という場にいながら情報通だった。
「はぁ、超絶可愛かっただろうなぁ……。しかもこんなに働き者で。そんな子が通ってくるなんて滅茶苦茶癒される。俺の為にも、本の為にもずーっと居て貰わないと。ね、先輩」
「お前のことはどうでもいい。後は本人が借りられなくなるだけだ」
「またまたぁ、問い合わせも督促も面倒がってる癖にー」
「余計な仕事を好む人間が居ると思うか」
苛立ちが滲む声を聞けば、誠に申し訳ないと思うしかない。
思えばあれが、ニコの助手としての初めての仕事だった。
お久しぶりでございます<(_ _)>
読んで下さりまして、本当にありがとうございます。
亀以下のスピードと思われますが、頑張らせて下さい。
因みに兄弟喧嘩で30㎝定規を持ち出されたことがあるのですが、かなり痛いので皆さまは是非、危険な武器のご使用をお控え下さいませ。特に角はダメですね。