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9 昔語り

「知らない番号から、振り込み……それが」

 さなかの言葉に、由乃は頷いた。先程から廊下が騒がしく、爆破音や警報、悲鳴、院内放送が響いているが、さなかも由乃もまるで気にする様子がない。それどころか、

「洲崎さん! 火事ですよ! 洲崎さんも早く逃げましょう!」

 ドアを勢い良く開けて看護師が声を上げるが、由乃は穏やかなままにひらひらと手を振った。

「私は大丈夫よ。自分の足で逃げられるから。それよりも、他の人たちを手伝ってあげて。――隣の山田さん、一昨日くらいから膝の調子が悪いみたいだったし、苦労してると思うわ」

 それを聞いて、看護師の表情に迷いがよぎるが、柔和な由乃の表情を見てやむなく頷いた。

「わ、わかりました。洲崎さんも必ず逃げてくださいね!」

 そう言い残して、看護師は隣の病室へ向かった。さりげなくさなかは開けられたままのドアに向かい、そっと閉める。

「そのお金、お母さんはどうしたの?」

「使ったわ」

 端的に、由乃は答えた。その表情に垣間見えるのは、微かなおそれだ。

「どこの誰から振り込まれたのかも知れない巨額のお金。初めは手違いで入ってしまっただけなのかと思って、銀行に確認したの。そういうお金って、勝手に使ったら犯罪になっちゃうからね。でも何度確認しても、それは手違いではなかった」

 その大金は確かに洲崎・由乃宛で振り込まれたものだと、銀行からはっきりと断言された。

「それは……誰から?」

 さなかの問いに、由乃は緩く首を振った。

「誰からのものなのかは、顧客情報だから教えることはできない、と言われたわ。とにかく、これは正当なお金だと。……私は、迷った」

 迷って迷って、迷った。

「ただでさえ、喉から手が出るほど欲しいお金。それが、使ってもいいお金として手の中に転がり込んできた。――迷うような余地なんて、なかったのよ。私は、使うしかなかった」

 だから、使った。

「振り込まれていたお金は、その一度の分だけで数年は今までの生活を維持できるに足りる額だった。けれど私は、そのお金を可能な限り切り詰めて、貯めておくようにした。奇跡にせよ偶然にせよ、同じことがもう一度起こるとは思えなかったから。けれど一年くらいたった頃、再び同じ額が、同じように振り込まれていた。それからまた一年ごとに、同様に」

 一度あったことが二度あれば、さらに続けば、それはもう奇跡や偶然ではない。作為だ。

 しかし、誰のものによる作為かが、わからない。

「危険。あまりにも危険。けれどそれしか選択できないなら、自分の手で選び取り、その上で最善の対策と判断を下すべき。だから私はそうした。確認を取ったときの銀行員との会話はボイスレコーダーで記録を取って手違いだったとき裁判に有利になれるように用意した。資金がいつ途絶えてもいいように、必要最低限以外は手をつけず、妙なところに目を付けられないように口座を複数に小分けした。そのほか、私にできる限りのことをした」

 ひとつひとつは小さな手だが、自分が娘のためにできること。最善手ではないとしても、最多手を打ち続ける。

 それしか、できないのだから。

「お母さん……そこまで……」

「私にもしものことがあったとき、急に大きなお金が必要になったとき、全てのお金がさなかの手元に渡るように、手筈てはずは整えてあったわ。……まあ、幸か不幸かそうなる前に、こんなことになったわけだけどね」

 由乃は窓の外へ視線を向けた。ドアの向こうの喧騒と相反するように、外の陽気は麗らかだ。

「いつか、必ずこういうことになるとは思っていたわ。薄氷の上を歩くような状況、いつ崩れ落ちて水底に沈んでしまうとも知れない。だからせめてあなただけでも水面に上がれるように、打てる手を打ってきた。そう思えば、意外と長く持ったとも言えるけど、でもこういう変化になっちゃうと、今まで打ってきた対策も焼け石に水だったわね。私も完全に想定外だったわ」

「それじゃあ、お母さんとヨハネスとかいう爺さんとの関係は……」

「皆無よ。私も名前くらいは聞いたことあったけど、個人的な関わりは一ミリもないわね」

「――よかったあ。安心したわ」

 本当に安堵したらしく、さなかはずっと気を張っていた身を崩し、ベッドに突っ伏した。

「お母さんがヨハネスとかいう人とムフフな関係にあったりなんかしたらどうしようかと思ったわ」

「あらあら」

「あまつさえ、実はあたしがお父さんの子じゃなくて、その爺さんとの隠し子だったりなんかしたらどーしたもんかと……」

「うふふ、お母さん、そういうドロドロの昼ドラ展開とか大好きだけれど、残念ながらそういう面白いことにはなってないわね」

「何にも面白くないって……」

「まあ、それに」

 頬に手を当てて微笑んでいた由乃の双眸が、きらりと光る。

「――もしもそんな事実があるのだったら、お父さんが亡くなった時点でお金の無心に行ってるわ。取れるだけむしり取ってる。んで豪遊するわね。散々苦労して対策を打つことなんてないもの」

 うへえ、とさなかは若干身を引いた。さすが母。

 でも、とさなかは言う。

「こうなったってことは、多分、足長おじさんの正体って」

「ええ、十中八九、そのヨハネス・グレゴールという人でしょうね。ドイツ系らしいし、足はしっかり長いのでしょう」

「……何で?」

「西洋人って、長身でしょ?」

「足じゃなくて」

 さなかの問いに、さあ、と由乃は首を傾げた。

「それは私にもさっぱり。私は勿論、さなかだって面識なんかないと思うし……お父さんにだって、関係はないと思うわ。縁戚関係だって考えられないし」

 つまり、と由乃は指を三本立てる。

「考えられるとするなら、金持ちの道楽、リアル足長おじさん――あるいは私たちの知らないところで、さなかと接点があった。そんなところでしょうね」

「ん、あれ、あたしと? お母さんやお父さんではなく?」

「恐らくね。資金援助はともかく、今回の遺産相続が私ではなくあなたに向けられていることから考えれば、私よりもあなたに関係があると考えた方がいいでしょう」

 ううむ、とさなかは腕を組む。成程、由乃の指摘にはそれなりの蓋然性があるように思える。だがいずれにしても、さなかが現状で取るべき行動の選択肢は多くない。

「お母さん」

 由乃の手を取り、その目をまっすぐに見ながら、さなかは言う。

「このままじゃお母さんもずっと狙われ続けることになる。一緒に逃げよう。クロは文句言うかもしれないけど、今のあたしには命を狙われるほどお金があるんだもの。お母さんだって護って見せるわ」

「……そのことなんだけどね、さなか」

 由乃は、娘の双眸をまっすぐに見つめ返して――ふ、と笑んだ。

「あなただけで逃げなさい、さなか。私のことは、置いていくのよ」


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