8 始動
棟内の要所に仕掛けを済ませた“黒”は、棟の屋上に立っていた。ここまでに確認した車は計七台。
「二十人弱……か」
数人が侵入したのは確認している。だが、その程度は斥候だ。どうとでもなる。あとは、タイミング。
「関係のない人は、ひとりも巻き込むな、と」
さて、と“黒”はひとりごちる。
「巻き込むな、とは言われたが、具体的にどう巻き込まないのかについての指示は、特に受けなかった。つまり、どれくらい巻き込まないのかの裁量は、私次第というわけだ」
眼下、不自然でないように散っていた連中が、動き始める。
それを確認して、“黒”はその場を離れた。屋内に入り、階段を軽やかなステップで、しかし驚くほどの速さで下っていく。そうしながら、ポケットから取り出したのは小さなスイッチだ。さなかの家を二階建てから平屋にした、あのスイッチと似たような造形のもの。
「さあ、始めようか」
ポチッと、躊躇いなく押した。それによって起動されるのは、今度は爆弾ではない。
“黒”が天井、複数の火災報知器の傍に付着させたブロック状の物体。そこから、煙が発生し出した。まだ、人が気付くほどの濃度でもないし臭いもない。だが報知器が反応するには十分だ。
盛大にけたたましく、火災報知器が鳴り響いた。
平穏な時刻をつんざくその警報に、誰もが驚く。廊下や病室にいた患者らは「避難訓練か何か?」と首を傾げているが、そんな予定のないことを把握している病院関係者らは一気に青ざめ、行動を始める。廊下や休憩所にたむろしていた患者らを、警報の鳴っていない本棟へと誘導し、病室で安静にしている患者らをも素早く運び出す手筈を整える。同時に、数人が火元の確認のために走り出した。
「……思いの外、優秀だな」
一連の対応を眺めながら“黒”はニ階の休憩所に立ち寄り、自動販売機で缶コーヒーを購入した。それを開け、一口飲みながら、無造作に取り出した二つ目のスイッチを、押す。
爆破音が響いた。
非常階段近くの一室、物置となっていた部屋、“黒”が棒状のものを投げ込んだそこが、派手に吹き飛んだ。ドアが内側から吹き飛ばされ、向かいの壁に衝突し、窓ガラスが弾ける。それを目撃した看護師が悲鳴を上げ、逃げるために走り始める者も出る。今度こそは偽物ではなく、本当の火の手が上がり始めた。
『D棟に入院しておられる皆様にお知らせします。D棟二階、保管室から火災が発生しました。皆様は看護師の指示に従い、落ち着いて速やかに避難してください。繰り返します――』
院内放送が流れ、次々と人々が本棟の方へと逃れていく。半狂乱状態だ。それでも看護師らは病室を見て回り、残っている者へ脱出を促している。
その流れに逆行するようにして、“黒”はD棟二階、その中央辺りまで進んだ。上階へと繋がる階段前だ。バラバラに逃れる人々に掠ることすらなく、流れるようにして歩いていく。その行動を咎めるものは誰もいない――誰も“黒”に気が付いていないのだ。
「……ふん」
思っていたより病院の対応が早かった。既にほぼ全員が避難を終えたようだ。上階のさなかたちまで避難されると面倒なのだが。何があっても部屋を出るなと言いはしたが……。
「っと」
不意に“黒”は首を右に傾けた。チュン、と小さな風の音を鳴らして、“黒”の顔横を何かが通り過ぎる。
銃弾だ。
身を回してみれば、数人の男が立っていた。明らかに病院の関係者ではない、ものものしい雰囲気を帯びている。そして全員がこちらへ向けて、銃を構えている。
「……サプレッサー付きとはいえ、この日本で発砲するのか。余程力の大きなところの下にいるようだが」
“黒”の痩身に、目立った武器は見られない。だがその腕を一振りすると、手の内に一振りのサバイバルナイフが現れた。
それを逆手に持ち、しかし構えることなく、“黒”は自然体に対峙する。
「手短に済ませよう。時間もないからな」
言下に、“黒”の姿が消えた――いや、違う。
移動したのだ。
消失したと見紛うほどの高速で、“黒”は前に出る。
口端に笑みを刻んで、“黒”は疾走する。