7 その母にしてこの娘
「それで、用件はなにかな、さなかちゃん?」
“黒”が出ていったドアが閉まるのを見届けてから、由乃がさなかに問うた。その表情には涼しげな余裕がある。
「……お母さん、もしかして何か知ってるの?」
「何も? 私はまだ何も知らない。今からあなたに教えてもらうのよ、さなか。教えて頂戴。今、あなたに何が起こっているの?」
まさかと思って訊いてみたが、由乃に嘘を言っている様子はない。そう、とまだ若干疑わしげではあるが、さなかはとにかく手短にここまでの経緯を説明する。
説明と言っても、さなか自身にわかっていることが少ない。突然、世界一の大富豪の全遺産が相続されることになったこと、その大富豪との契約で、さなかの護衛として“黒”がやって来たこと、さなかが身命を狙われることになってしまったこと、既に家が襲撃されて崩壊してしまったこと、そしてさなかだけでなく、由乃や友人の優李にも危険が及ぶ可能性があること。
全てを聞いた由乃は、成程、と頷いた。
「――大変なことになってるのねえ」
「他人事みたいに言わないでよ。お母さんも当事者なんだよ。人質に取ってあたしを脅迫するために、お母さんが誘拐されるかもしれない。そのための人たちがもうすぐ来る、ううん、クロが出ていったってことは、もう来てるのかも」
「クロ?」
「さっきの人、“黒”のことよ。漢字で黒って書くんだって。だからクロ」
さなかの言を聞いて、由乃は笑った。ネーミングセンスがないわねえ、と笑う母に、放っといてよ、と娘はむくれる。
「まあ、その辺りはわかったわ」
「……本当にわかったの? 信じられるの? だって、いきなり大富豪で、いきなり命狙われてるんだよ?」
「青春は波乱万丈よねえ」
「冗談じゃないって。こんな青春はイヤだよ。あたしは学園ラブコメみたいな花と夢の青春がしたかったのに、ある日突然スリルとサスペンスだよ。学校どころじゃなくなっちゃったよ」
「夢見過ぎよさなか。現実は、汗と、涙と、鼻水よ」
「もう少し夢を頂戴よ!」
「お母さんはあなたを信じるわよ、さなか。実際、今朝のニュースであなたの名前が読み上げられていたのは見たし、今日のうちにあなたが見知らぬイケメンのお兄さんを連れてやって来た。ここで疑ったり否定したりするのは、ただの現実逃避だものね」
淡々と、由乃は言う。並べた事実からの判断。“黒”がこの場にいれば、やはり母娘なのだと感想を抱いただろう。
ええ、とさなかは頷いた。
「それで、お母さんに訊きたいことがあるのよ」
「なに? 言って御覧」
「ヨハネス・グレゴールとかいう大富豪があたしに遺産を寄越す理由、心当たりはある?」
「ないわね」
由乃は即答した。表情も、口調にも揺らぎはない。しかしその答えは予想していたのか、さなかにも目につく動揺はなかった。
「それじゃあ」
ただ、続けて問う。
「長年、あたしたちに資金援助し続けてくれてた人。その人に心当たりはできた?」
「…………」
今度は、由乃は即答しなかった。柔和な目つきで、さなかを見る。
真剣な眼差しで見返すさなかに、ふふ、と由乃は笑った。
「ええ、そっちの心当たりなら、できたわね」
“黒”がさなかに相続の承認を迫った際に少し触れていた通り、由乃とさなかは何者かに資金援助を受けていた。その何者かについての心当たりが、
できた、と。
「――あの資金援助、お母さんがあんまり触れてほしくなさそうだったから今まで訊かなかったけど、さすがに今は教えてもらいたいわ。あれはどうして、いつから始まったの?」
問うさなかに、さて、と由乃は窓の外を見る。
「私も、詳しい事情を知っているわけではないわ。あなたと同じよ。突然降って湧いた状況を、怯えながらも享受していただけ。そうする以外、私には道がなかったから。だから、私があなたに話すのは、私たちに起こった出来事と、私の選択だけよ」
いいかしら、と由乃は言う。
「どうして、と訊いたわね。残念ながら、それは今をもっても私にはわからないわ。いつから、と問うたわね。それについては語れることがあるわ」
昔話をしましょう。その言葉を前置きとして、由乃は語り始める。
「――お父さんが亡くなったのは、あなたがまだ小学校に上がる前だったわね」
懐古するように目を細め、遠くへ視線を向け――ふと、由乃は首を傾げた。
「あれ、どうだったかしら。もう小学校上がってた? さなか、覚えてる?」
「いや覚えてないよ……さも重要な話をするみたいに勿体ぶった前振りしておいて、導入がいきなり雑なんですけど」
それ以前に、とさなかは半眼で母を見る。
「お父さんが亡くなったときのことなんて、そんな大事なことホイホイ忘れないでよ……」
「あっはっは、冗談よ。忘れてなんかいない。あれはあなたがまだ四歳九か月二十六日と十三時間四十六分五十六秒の頃だったわね」
「そこまで厳密に覚えてても気持ち悪いよ!」
「これも冗談」
「さっきから冗談が不謹慎なんですけど……」
「大体四歳の頃よ。高速道路で、逆走してきた高齢者の車と正面衝突。その後ろからも数台が絡んで、最後に大型トレーラーまで突っ込んできて、爆発炎上。――酷い事故だったわ。その当時は随分と騒がれたものよ」
ギリ、と由乃の噛み締めた奥歯が鈍い音を立てた。顔筋こそ先程までと同じ柔和な表情を保っているが、さなかですら、ゾ、と寒気を覚える空気だった。
怒りと、憎悪。
十数年を経ても褪せぬ感情。
悲哀がないわけではない。だがそれを遥かに超越する色濃いもの。
だがそれも一瞬だった。「そんなわけで」と続けた由乃からはあっさりと邪気が消え、数度下がったようにすら感じられた室温も何事もなかったかのように戻る。
「お父さんは早くに亡くなってしまいました。それから後、洲崎家に苦難の日々が訪れました」
まるで物語るように、由乃は話す。
「一家の大黒柱が、ある日突然いなくなってしまった。まだまだこれからという歳で、貯金もほとんどありませんでした。お金はいくらあっても足りないというくらいの時期ですから、慰謝料、保険金、そのほか受けられる保障を全て受けても、まるで足りませんでした」
そこで、と由乃は続ける。
「幼い子を抱えた母親は、働くことを決意しました。頼る身寄りは、お父さんにもお母さんにもなかった。母親は、何としても自分の力で生き抜かなければならないと、そう決意した。そのために、専業主婦だった母親は転身して起きている時間のほとんどを就労に充てるようになりました。娘は可能な限り養育施設に預け、自分は寸暇を惜しんで働きました」
くるくると、指先を回す。さながら、車輪の如く働く様であるかのように。
しかしその指の動きも、すぐに止まり――ぴ、と下を向いた。
「でも、そんな生活は長くは続きませんでした」
両手を広げ、自らの状況を示す。
「もともと、母親は身体が強い方ではなかった。病弱とまでは言わないまでも、決して過酷な労働に耐え得る身体ではありませんでした。……一年」
一本、指を立てた。
「たった一年すらも、持たなかった。母親は過労で倒れ、さらに悪いことに、もともと強くもなかった身体はさらに弱くなり、健常な生活を維持し続けることができなくなった」
ふう、と吐息する。
「母親は絶望した。頼れるものが何もない状況下で、自分自身すらも使い物にならなくなった。娘はまだまだこれからだ。食費、生活費、学費、お金はいくらでもかかっていくのに、そこに自分の入院費や治療費まで重なっては、一般家庭の水準すら維持できない。夫との夢だった我が家を売り、家財を全て売っても全く足りないだろう。娘を大学はおろか、高校すら行かせることができないかもしれない。中卒で働かせる? でもそれしかないかもしれない。ありったけの社会保障と厚生福祉を受けて、それで何とか生きていくしかないかもしれない――自分は親として何もできないどころか、娘の足枷になってしまう。そう、絶望した」
けれど、と母親は手のひらを返した。その手のひらを、娘に示す。
互いの顔の間にその手を置いて、母は言う。
「ある日、家族の口座に見知らぬ番号からかなりの額が振り込まれていることに、気が付いた」