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5.状況整理

 どれだけ移動したのかわからない。十軒を超えたあたりからさなかにはいくつの屋根を越えていったのかわからなくなり、そこからさらに十軒以上の屋根を軽々と越えた“ヘイ”は、さなかがいよいよ目を回し始めたところでようやく屋根から飛び降りた。

「って、ちょ、ちょ、ちょ、ここ二階!」

「ええ。だから、口を閉じていないと舌を噛みますよ」

 焦るさなかに構わず飛び降りた“黒”は、あろうことか膝のクッションだけで難なく着地を果たし、また音もなく誰のとも知れない家の庭を出ると、そこに路上駐車してあった乗用車に近寄った。

「これは?」

 そろそろ“黒”の脇に抱えられているのが社会的にも辛くなってきたところでさなかが問うと、“黒”はこともなげに「仕事用の車です」と答え、後部座席のドアを開けると、

「――とっとっと、ちょっと!」

 暴れるさなかに構わず座席へ放り投げると、自身は運転席に回った。

 乗り込むなり淀みなくエンジンをかけ、

「行きますよ」

「だから待っ、うわっ」

 急発進の勢いに堪え切れず、ようやく起き上がりかけていたさなかは再び後部で転げた。“黒”は構わず車通りの少ない道を法定速度完全無視で走らせる。その上何度も右左折を繰り返し、そのたびにさなかは右へ左へと転げ回る。

 もうどっちがどっちかわからない。

「……ここまでくれば、とりあえず大丈夫でしょう」

 数十分ほど走ったところでようやく、多少スピードを緩めながら“黒”は言った。

「追跡も来ていないようです。まあ、私が撒いたのですから当然ですが。あちらの練度も大したことがなかったようですね」

 言って、数拍を待つが背後からの応答はない。バックミラーで見るも、さなかの姿も見えない。ふむ、と“黒”は頷いた。

「気絶しましたか。――これは都合が良」「ぅ起きてるよ! ちょっとくらくらしてただけ……あれ、あんた今、都合が良いとか言おうとした?」「御無事で何より」

 しれっと“黒”は言う。がばっと勢いよく身を起こしたさなかは、まだ眩暈が取れていないようでこめかみをぐりぐりしている。うう、と唸っているさなかに、“黒”は無表情なまま、

「お楽しみいただいているようで」

「冗談じゃないわ、最悪よ。何がどうなってるのかわけがわからないっての。きっちり説明してよ。あたしは一体何に巻き込まれてるの? あたしはこれからどうなるの?」

「私はしがない下請け個人事業主ですので、持っている情報にもそれ相応の制限があります。ゆえに、あなたの質問に全て答えられるわけではありませんので、悪しからず。――まあ、ひとまず落ち着きなさい。もともと大したお脳でもないんですから、少しは冷静にならないと、わかるものもわかりませんよ」

「……おいあんた、今流れるように私の黄金色のお脳をバカにしたか」

「あなた自身は、今の状況をどのように理解していますか?」

「早朝にいきなり謎のイケメンが訪ねてきて人の朝食を食った挙句についさっき死んだ大富豪の遺産を相続しろとか言ってきたと思ったら家が蜂の巣にされた上に二階建てを一階建てにされただけに飽き足らず拉致されてドナドナ」

「ふむ。思っていたよりは把握していますね。おめでとうございます。あなたのお脳は人並みです」

「耳から蒟蒻ゼリー流し込むぞこの野郎」

「まずは靴でも履きなさい」

 言うなり“黒”の手許からポンポンと靴が飛んできた。おっと、と反射的に受け取ると、それはさなかの普段靴だった。そういえば着の身着のまま連れ出された(というより運び出された)さなかは制服姿で、足元は靴下だけだった。一体いつの間に回収していたのだろう、と思いながらとりあえず履くもそこでふと気付く。

「うわあ……あたし、スマホも財布も通帳も印鑑も全部置いてきたよ……」

「それなら御心配には及びません。私がしっかりと回収してきました」

 言うなりまたポンポンとバラバラに飛んでくる。通帳、財布、印鑑、「おうっ」スマホの角が額に直撃した。

「ほんとに、あんた、いつの間に……」

「私が持ち出してきたあなたの物品はそれだけです。衣服や生活・生理用品は後で調達する必要がありますよ。まあ、通帳と印鑑はもう不要でしょうがね。――そうそう、あなたのスマホ、何やら通知が入っていましたよ」

 は? とさなかはスマホを開く。LINEに通知が一件。差出人は“五泉いつみ優李ゆうり”。

 学校の友人だった。


『ニュース見た? あれってさなかのことじゃないよね? 大丈夫?』


「…………」

「落ち着きましたか」

 小憎たらしいほどに表情を崩さない“黒”に、さなかは先程までとは打って変わった顔を向けた。

 凪いだ表情。

「落ち着いた」

 自分に起こった出来事が自分だけの非日常ではなく、昨日までの日常に繋がっていることを、認識する。

「答えて」

「どうぞ」

「あたしがヨハネスとかいう爺さんの遺産を相続させられた。それはひとまず受け入れる。で、そのせいであたしが命を狙われることになった。それもとりあえず認めよう。――それで、あたしはこれからどうなる。どうすればいい」

 さなかは、バックミラー越しに“黒”をまっすぐに見据えた。

「あんたは、ヨハネスに雇われたんだっけね。あたしを護ってくれるんだって? それは、いつまでなの」

「いつまでも。あなたは一生追われる身でしょうから、一生護り続けることになりますね」

「へえ。とんだ貧乏クジね」

「全くです」

「どうしてあんたはそんな損なことしてるのよ」

 ちらっとミラーを見上げる。さなかの視線は揺るぎなく、冗談の色はない。

「生前のヨハネス氏との契約では報酬が非常に高かったですし、個人的にヨハネス氏と縁がありましたから」

 と、それきり“黒”は口を噤んでしまう。「…………」と二呼吸を待ったさなかは、怪訝な顔で、

「……それで?」

「それだけですが」

「え、短い」

「短いも何も。これで全てですから」

「そこは、あんたの回想篇に突入するところじゃないの? 一話まるっと使ってさ」

「何をメタなことを言っているんです。過去篇になど飛びません。いずれそんなことがあるとしてもまだ早いでしょう。そもそも、私は過去篇など嫌いなのです。物語は常に現在に目を向けるべきだ。現在から過去を語ることがあったとしても、過去に時を戻すことなど、説明の放棄と言える」

「あんたが、とにかく自分が何者かを話す気はないってことだけはわかったよ……」

 半眼でため息交じりに言う。だが、すぐににやりと笑った。

「あんたのことは信用する。信頼はしないけどね。そういう拘りは嫌いじゃない」

「ほう? 信用と信頼とは、違うものなのですか?」

 純粋な疑問として、反射的に問うた“黒”にさなかは頷いた。

「違うわ。あんた、日本語上手な割にその辺のニュアンスの違いはわかってないようね。ふたつは似て非なるものよ。『信用』とは能力を信じて任せて、つまり使ってやること。『信頼』とは人格を信じて頼って、当てにすることよ。あんたの人間性はまだ全然わかんないから信頼するかどうかは保留。でもあんたはなんと言うか、プロっぽいから仕事ぶりについては信用するわ。使ってやるから、いい仕事をして頂戴」

「私の契約者はヨハネス氏であって、あなたではないのですがね……」

 さなかの言い様にやや渋い顔をしながら言う“黒”に、ふふ、とさなかは笑った。

「あたしは爺さんの全権を引き継いだんでしょ。それならあんたと爺さんとの契約もあたしが引き継いだようなものよ。――ええと、あんた、なんだっけ名前」

「……“黒”ですよ」

「ヘイ? 何語よ。なんて書くのよ……くろ? ふうん……じゃあこれからあたしは、あんたのことをクロって呼ぶわ」

「は? なにを言ってるんです」

 驚いて振り向いてしまった。しかしさなかは平然と「前見なさいよ」と前方を指さしながら、さも当然のことのように言う。

「だって“黒”なんて、なんかいつもいつでもテンション高めに“Hey!”って呼びかけてるみたいじゃない。クロの方がわかりやすいし呼びやすいし犬っぽいし」

「犬ですと」

「これからあたしに使役されるんだから、犬みたいなもんでしょ。それに服装も真っ黒だし。……あれ、ねえ、もしかしてあんた、名前が“黒”だから全身真っ黒にキメてんの? キャラ付け?」

 ぷふ、とわざとらしく吹いてみせるさなかにイラッとした“黒”は、車をその辺の電柱にぶつけてやろうかと余程思ったが、鍛え抜いた自制心で自重した。

 小娘の軽口に本気で苛立ってどうするのだ。

「順番が逆ですよ。前職にあった頃に、私がいつもこういう恰好だったから“黒”と呼ばれるようになったのです」

「最初からそんな真っ黒だったんだ。なんで? 中二病?」

「陰に入りやすいことと、返り血が目立ちにくいからですよ」

 極めて事務的な答えだ。必要性。それ以上の理由はない。“黒”の答えを冗談と思ったか真に受けたか、さなかはうへえと顔を顰めた。

血腥ちなまぐさい理由ねえ。あんた、前職ってなんだったのよ」

「それに答える義務は契約外ですよ。他に質問は」

 下らない話をしている場合でもないのだ。それくらいの自覚はあるのか、さなかはそれ以上この話題に固執せずに、そうねえ、と考える素振りを見せる。

「今はどこに向かってるの?」

「セーフハウス、というと洒落ていますが、用意していた安アパートですよ。明日にはまた移動しますが」

「そんなの用意してたの?」

「今回だけです。その後のことはまだ考えていませんね」

「これから先、あたしはどうなるの?」

「まずは遺産相続承認のためにアメリカへ、その後は逃亡生活ですね。当分はひたすら逃げ回る他ないでしょう」

 “黒”は軽く肩をすくめた。

「あなたには組織力がない。大規模な援護が受けられないとなると、一ヵ所に留まればいいまとでしかありませんからね。世界中が敵です。地球全域を逃げ回ることになりますよ」

「組織力……あんた、なんかないの? コネとか」

「ありませんよ。言ったでしょう。私はしがない護り屋、この国で言うところの自営業ですよ。組織力なんてありませんて」

「地球全域ねえ。そんなお金あるの?」

 さなかとしては素朴な疑問だったのだろうが、“黒”は軽く笑った。なによ、と眉根を寄せるさなかに、“黒”は言う。

「あなたはヨハネス氏の遺産を全て受け継いだのですよ。……まあ契約書のサインがまだですから、正式ではありませんが。今のあなたはこの国の抱えた借金を五回は軽く清算できる程度の資産を持っているのですよ」

「え……日本って借金してんの?」

「この国に何年住んでるんですか」

 しかしそれなら、確かに地球全域を逃亡し続けることもできるのであろうが。うむむ、とさなかは腕を組む。

「全然現実味がないわ。学校……は、もう通えないわけよね」

「自分の国の現状を知らないあなたは通った方がよさそうですがね」

「余計なお世話よ。そんなもん知らなくても生きてこられたの」

「この国の教育機関はなにを教えているんだ……?」

 薄い胸を張って言ってのけるさなかに、“黒”は教育とはなにかについて考え始めてしまったが、そんなことはさなかの知ったところではない。

「ていうか、そもそもヨハネスって人は、どうしてあたしに遺産を相続なんてさせるのよ。あたし、そんな大富豪の爺さんとなんて一ミリも面識ないんですけど」

「それは私も知りません。私がヨハネス氏から受けた依頼はあなたに遺産を相続させること、あなたを護ることのふたつのみですから。なぜあなたが選ばれたのかは依頼の前提であって、私の関知するところではありません」

「何なのよ……下々の貧民の中から抽選でもしたわけ……?」

 そんなわけはないと思うが。しかし、と“黒”はさりげなくさなかを見やる。

 さなかは、普通なら最初に問うであろうものより先に、“黒”について訊き、現状と今後について確認した。つまり、

 ……自分の戦力と、取るべき行動についてをなによりも先にあらためた。

 現実的な思考だ。この急展開の状況下でそこらの一般人にできることではないと思うが、本当にこの国は一体どんな教育をしているのだろう。

 “黒”の内心をよそに、さなかは考えている。今、もっと確認しておくべきことはないだろうか。

 自分の置かれた現状、今後取るべき動向、あるいは。

 ふと、自分がずっとスマホを握りしめたままであることに気付いた。そういえば、学友に――優李にまだ、返事をしていないことを思い出した。

 …………!?

 そして、思い立った。

 その可能性は。フィクションなら、小説やドラマや映画なら常套とも言える手段だと考えられるが、しかし現実に有り得るものなのか? この現代日本で? 現実味はない。だが。

「……ねえ」

 まさか、という思いと、有り得る、という思いを交錯させながら、さなかは言う。

「人質、有り得る?」

「ええ」

 問いかけは端的だった。対する返答も端的だった。

 頷き、“黒”は続ける。

「人質として有効な者は、まずは近親者。次いで友人知人。それから不運な通行人ですね」

「つまりあたしなら、お母さんと優李!」

 まずい、とさなかの心拍数がまたしても上がった。冷静になったかと思えば沸騰したり、血圧の乱高下が激しい娘だ、と“黒”は半目になる。

「あなたの父君は……失礼、早逝されているんでしたね」

「兄弟も姉妹もいないわ。おじいちゃんもおばあちゃんも皆とっくに亡くなってる。親戚もいない。家族はお母さんだけよ。お母さんは病院。あたしが物心ついた頃からずっと入院してるわ」

「もし人質を取り脅迫に出るというのであれば、御友人よりも先に母君でしょう。まだ事態が開始してからもない。身辺調査が及ぶとすればまず家族に手が及ぶのが常套です」

「それじゃあ!」

 がばっと食いつかんばかりの勢いで、さなかは背後から“黒”に迫る。

「急いでお母さんところに行かないと! その後で優李も!」

「それは無理ですよ」

 は、と目を剥くさなかに、“黒”は淡々と言う。

「複数人を護りながら逃亡し続けることは不可能です。あなたの母君はただでさえ、医療施設のない場所を連れ回すことはできませんし、御友人に至っては余計な荷物になるだけです」

「じゃあ、なによ」

 さなかは、問う。“黒”に、眼光鋭く。

「――見捨てろっていうの? ふたりを」

 声は、声だけは平静だ。しかし、その目をちらと確認した“黒”は、内心で反射的に身構えることになった。

 何度目だ。

 年端も行かない小娘に、戦慄させられるのは。

「……仕方がありませんよ。そういう人々は弱点になります。むしろ早々に見限っておいた方がいい」

「置いていって人質にされる方がリスキーじゃない? 連れていけば、少なくとも人質には取られない」

「その分足が遅くなり、全員で捕まるリスクが高まる。実行不可能な依頼を引き受けるのは愚か者のすることですよ。私は愚か者ではありません」

「でもあたしの契約者でしょ」

「命令を聞く義理まではありませんよ。私は私の判断であなたを護衛する。それ以上のことは契約の範囲外です」

「知ったことか」

 ギ、とさなかは歯を剥いて“黒”を睨む。そこには、不相応なまでに強い威容があった。

 冗談じゃない、とさなかは言う。

「お母さんと優李を見捨てる? 冗談じゃない。冗談じゃない冗談じゃない冗談じゃない! そんなことができるわけがない。今のあたしは世界一の金持ちなんでしょ。あんたが無理ならあたしがそのお金を使って何とかするわ。どうせあたしが稼いだお金じゃないもの。有効に使わせてもらう」

「どうでしょうね。言ったでしょう。今のあなたは全世界が敵です。あなたに味方するということは全世界と敵対するということですから、余程酔狂な者でもないと話に乗ってきたりはしないでしょうし……ひとりやふたりいたところで、大勢を覆すほどには至りません。どうしたって組織力は必要なんですよ」

 いいですか、と“黒”は言い聞かせるように言う。

「先にも言った通り、あなたの母君を護るにしても、医療機関は必須です。ですから医療機関を擁する組織か、医療機関を丸ごと護れるような組織が必要なんですよ。あなたの御友人にしてもそう。遠からず対象になる可能性は高いでしょうが、護衛するために無理に連れ回せば、その御友人の人生まで狂うことになる。御友人の日常をも護るには、やはり組織の力が必要だ。私ひとりの力では到底不可能事なのですよ」

「…………」

「いくら莫大な金を積んでも無理です。金だけのために寄せ集められた人員では、十分な組織力は得られません。金にものを言わせればいいというものではないんですよ」

「……言いたいことは、それだけ?」

 さなかの声音に、迷いはなかった。一片の躊躇もない。

 ただ、強い意志だけがある。

「その後どうするかなんて、後で考えるわ。なによりもまず、お母さんが危ないんでしょ。ならとにかく今はお母さんを護りに行く。だから、病院に向かって。場所は知ってるんでしょ」

 知っている。事前の身辺調査で、その程度のことは確かに確認してあるし、“黒”も記憶している。

「…………」

 はあ、とため息をついた。ため息をついて、ハンドルを切る。セーフハウスへ向かう道から、病院へ向かう道へ。

「あれ、従うの?」

「このまま駄々をこねられては堪りませんからね。あなたの望みをどうやって叶えるかは追って考えます」

 究極的には、さなかだけを護衛できればいいのだ。いざとなったらなんと言われようがそうするまで。

 わかればいいのよ、とさなかは前席の椅子の肩を掴み、ぐっと力を籠める。

「――それに今、お母さんに訊きたいことができたの。なんとしても護ってもらうわよ」


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[一言] 見つけた時からもうハマりました!! 何より、更新待ってました!! これからも頑張って下さい!! 楽しみにしてます!!
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