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4.平穏の爆ぜる音は目まぐるしく

「ヨハネス……グレゴール」

 告げられたその名を、さなかは呆然と反芻はんすうする。それは確かに、先程テレビで聞いた名だ。


「それじゃあ、テレビで言ってた、『サナカ・スザキ』って……」

「ええ、あなたのことですよ。洲崎・さなかさん」

 淡々と言い、“黒”は改めて、さなかの前に置かれた書面を示す。

「では、相続承認のサインを」

「ちょ……ちょっと待ってよ。人違いでしょ。あたし、そんな大富豪となんて知り合いでもなんでもないし、会ったこともないし、縁もゆかりもないんですけど」

「こちらとしても入念に確認してありますし、ここの住所やあなたのパーソナルデータは全てヨハネス氏の遺言に記載のあったものです。間違いはありません」

 なにを躊躇うことがあるのか? と“黒”は促す。

「ヨハネス氏の全利権と全財産ですよ。世界中の誰もが垂涎すいぜんの資産です。それさえあれば一生遊んで暮らせますよ。酒、食事、男、どんな望みでも叶います。まさかいらないということはないでしょう」

「じょ――冗談じゃない!」


 さなかは叫んだ。勢いで立ち上がり、その弾みで椅子が後ろに倒れるが、さなかは目もくれない。

 冗談じゃない、と吠える。


「そんなもの、いるわけない!」

「……なぜです? あなたはまだまだ学生であるにもかかわらず、父君は早逝し、母君は病で長らく入院しており、その医療費も大きい。……もっとも、誰からとも知れない資金援助があったはずですが、あなた方は最低限しか手を付けておらず、今まで繋いでこられたのが不思議なくらいにギリギリのはずです。ならば、資産は喉から手が出るほど欲しいでしょう」

 冷静に言う“黒”に、確かに、とさなかは返す。

「確かにギリギリだよ。今まで生活できてたのが不思議なくらいだ。あんたがどうして知っているのか知らないけど、確かに銀行に行ったら、定期的に必ず結構な額のお金が振り込まれてた。誰からなのか母さんに訊いても答えてくれなくて、必要な分だけ使って、後は貯金に回すようにって、いつ終わるかもわからないからそうしておくように言われて、最低限しか使わないようにしてた。そうするしかなかった! 出所のわからないお金でも、使うしかなかったよ! でも!」

 ダンッと強く、食卓を、書類を叩く。

「こんなあからさまにヤバそうなお金になんて手を付けられるわけがない! どうせ受け取ったら面倒なことになるに決まってる。ロクでもないことになるに決まってる! 虫の良い話には絶対に落とし穴があるのよ。あたしも母さんも、楽して生きたいなんて思ってない。細々とでも、生きていければそれでいいのよ!」


 声を荒げ、肩で息をするさなかを、“黒”は目を細めて見ていた。

 成程、と頷く。


「では、ヨハネス氏の遺産はいらないと」

「ええ、そう言ってる」

「成程」


 成程、ともう一度頷き、“黒”は小さく吐息した。

「ある意味で、賢明な判断です。その歳にしては優れた勘だ。しかし――今回に限っては、意味がない」

 は? と眉根を寄せるさなかに対し、“黒”は静かに言った。

「もう、手遅れなんですよ」


 “黒”が、消えた。そう見えた。

 眼前に座っていたはずの男が、一瞬で音もなく姿を消した。そしてそのことをはっきりと認識するよりも早く、今度はさなかの視界が回った。

 背に衝撃。ばは、と肺の空気を叩きだされ、視界に広がる天井を認識したところでようやく、自分がどうやってか床へ突き転がされたことに思い至った。

 なにが、と思う間もなく、さらに肩を押され、うつ伏せに転がされる。

「なにを――!」

 言う間もなかった。



 破砕音。



 爆ぜる音。

 抉る音。

 穿つ音。

 弾ける音。

 割れる音。

 ガラスが。

 食卓が。

 壁が。

 テレビが。

 調度が。

 次々と間断なく鋭い音により粉々になる。

 全てが、同時に、連続する。

 さなかの聴覚を蹂躙する。



 なに――なになになになになに!?



 混乱した頭で、さなかは必死に身を小さくし、降りかかる木っ端やガラス片から頭を守る。急展開に次ぐ急展開に思考が追いつかない。とにかく生存本能だけで身を縮こまらせて危機が去るのを待つしかない。

 十秒か、一分か、あるいはそれよりも長かったか。いつまでも終わらないのかとさえ思われた穿音せんおんは、しかし突如としてぱったりと止んだ。

 それでも、さなかはすぐには動けない。視線だけを動かし、土煙に白く濁った視界の中で、なにか自分にも理解できるものを探す。

 煙の向こうに薄く透かして見えるのは、しかしすべてが残骸だった。壁の、食卓の、椅子の、テレビの、ガラスの、床の――


「な……なんなのよ、これ」

 声を震わせながらも、ようやくさなかは小さく身を起こし、呻いた。

「冗談じゃない。冗談じゃない冗談じゃない冗談じゃない! ほんとに! ほんっとに! なにが一体どうなってんのよ! 全部! 全部ぐちゃぐちゃ!」

 叫ぶさなか。その頭が、不意に背後からぐっと押さえつけられた。

「今度はなに――!?」

「静かにしてください。ただの銃撃ですよ。この状況でヒステリーを起こすのは勘弁願いたいところですね」


 まるで何事もなかったかのように冷淡な声音で応えたのは、先程までさなかの眼前に座っていた男だ。“黒”は身を起こしかけたさなかを押さえつけながら、抑えた声で言う。


「お分かりの通り、忙しい現状ですので最低限のことだけお伝えします」

「最低限!?」

「落ち着きなさい。死にたいのですか」


 “黒”の声音に圧力はない。だがその冷淡さが、かえってさなかの頭を落ち着かせた。喉まで出かかっていた罵詈雑言をぐっと呑み込む。

 今、自分に必要なことはなにか。

 ……しゃくでもなんでも、この男に従うこと。

 さなかは、そう判断する。

 と、あっさりと黙ったさなかに、“黒”はちょっと驚いたような顔をする。

「……なによ」

「いえ。意外と物分かりがいいようで。その方が私としても都合がいいですが」

 随分なことを言われているような気もするが、とにかく今は黙る。それどころではないのだ。

 さなかの思考のどこかで、警戒音が大音声で鳴いている。


「今現在、この家は包囲されています。敵の数は……二十人ほどですか。いずれも本業の殺し屋です」

 殺し屋、という単語に、さなかの頭は現実味を認識しない。するわけがない。平和を掲げた憲法の君臨するこのご時世に、そんな物騒な職種の在り得るわけがない。

 しかし今は、異常な状況だ。この異常のもとで異常な単語を聞いたとしても、安易に否定してはならない。さなかの中のどこかが、さなか自身が軽い驚きを覚えるほどに冷静にそう判断する。

 だから、まずは黙って聞く。


「彼らの目的は勿論、ヨハネス・グレゴールの後継者である洲崎・さなか。あなたです」

「あたしはまだ同意してないんだけど」

「同意しているかいないかは関係ないのですよ。言ったでしょう。もう手遅れなのだと」


 周囲に視線を走らせていた“黒”は、そこで静かに膝をついた。さなかのことは動けないように押さえつけたまま、さらに片膝を立て、いつでも走り出せる姿勢を取る。

「一旦正式に、それも世界的に公表されてしまった後継者。もはや裏で情報統制することは不可能です。ゆえに、ヨハネス氏の遺産を欲するものたちはあなたから正式に・・・利権を継承するほかない」

「継承?」

 ええ、と“黒”は頷く。


「そのためには、あなたが生きている必要はない。死んでいようと、あなたの手指を切り取って持ち帰りでもすれば、容易にさらなる継承は可能。ついでにあなたが死んでいれば、さらに難なく遺産の相続ができる。彼らが望むのはそれです。――ゆえに、あなたには選んでもらわねばならない」

 “黒”は言う。

「ヨハネス氏の遺産を受け継ぎ生き延びるか、それとも相続を拒否してここで死ぬか」

 好きに選んでください、と“黒”はそっけなく言う。

「私はどちらでも構いませんよ」

「いや、あたしはどちらでも構わなくなくってよ」

 人生初の御嬢語尾が飛び出した。自分で何を言っているのかわからなくなりかけたことでパニックになっている自分を自覚する。それも当然だ。なにせ自分の命がかかっているというのだ。そんな興味なさげに言われていい内容ではない。しかめ面のさなかに対し、やはり“黒”は淡々と、

「早くしてください。時間がないのですよ」

「急かさないでよ。ちょっと整理させて」

「整理が必要なほど複雑な話はしていません」

「あたしが悪かった。訂正する。ちょっと確認させて」

「どうぞ」

 急げという割には泰然としている“黒”に、さなかは端的に、矢継ぎ早に問う。


「あたしが生きてようが死んでようが、その人たちには関係ないのは本当?」

「ええ。むしろ死んでくれていた方が都合がいいでしょう」


「その人たちがあたしを狙うのは、あたしがなぜか知らないけど受け継ぐことになったヨハネスとかいう爺さんの遺産だけが目的なんだよね」

「ええ。そうでもなければこんな極東の島国まで暗殺者を派遣したりはしません」


「それであたしが相続を拒否したら、あたしは奴らに利用されて殺されて死ぬのね。あんたは?」

「あとでもう少し説明するつもりですが、私はヨハネス氏の死後、あなたに遺産の相続を同意させ、なおかつその後のあなたを護ることを生前のヨハネス氏と契約した護り屋です。労働条件はヨハネス氏の遺産を相続したあなたを護ること。ゆえにあなたが相続を拒否した場合、私は解雇となり、あなたを護る義務はありませんので、家に帰って次の仕事を探します」

「あんたが護ってくれるの?」

「そういう契約ですので」

 “黒”は軽く頷く。さなかは考える。


 まだまだわけのわからないことばかりだ。なぜヨハネスはさなかに遺産を相続したのか。生前のヨハネスとの契約だというのなら、ヨハネスはこの状況を想定していたということになる。なぜそこまでして。“黒”が何者なのかもわからない。どこまで信用していいのか。護るとは言うが、“黒”のげんを信じるなら二十人もいるという殺し屋からさなかをひとりで護ることなど可能なのか。


 そこまで考えたところで、いいや、とさなかは唇を噛んだ。今重要なのはそんな疑念ではない。今必要なのはそんな疑問をすることではない。


 この場を生き抜くか、それとも死ぬか。選択だ。


 少なくとも異常なこの状況だ。ここで“黒”に見捨てられれば、さなかがひとりで生きて抜けることは不可能であると、それは確実であると思っていい。

 生き抜くためには。


「決まりましたか」

 さなかの顔を見て、“黒”は言った。その詰まらなさそうな顔に、さなかは決然と言う。


「同意する。あたしはヨハネスの遺産を、継ぐ」


 ぐっと拳を握りしめて、さなかは食いしばった歯から絞り出すように言う。

「なんでこんなことになってんのか、さっぱり全然わかんない。けど、お金欲しさにあたしを殺そうとしてくる連中に、はいそうですかって殺されるのは我慢ならない」

 握りしめた拳に次第に強く力がこもり、震え始める。

「どうせそいつら大富豪なんでしょ。とっくにあたしの何万倍もお金持ってるくせに、まだ欲しがってるんでしょ。そんでもって、『極東のどこの誰とも知れない小娘ごとき、どうとでもなるわ』とか高を括ってワイン飲んでるんでしょ――冗談じゃない!」


 小さく、拳を床に打ち付ける。こみ上げる苛立ちを押さえられない、というように。

 言う。


「そんなふざけた連中の思い通りにしてたまるか。他人ひとの命をなんだと思ってるんだ。他人の人生をなんだと思ってるんだ! 冗談じゃない冗談じゃない冗談じゃない! こうなったら死んでも渡すもんか。いや死ぬもんか! 絶対に!」

 ギ、と“黒”を睨み付ける。


 ……この娘。

 “黒”は反射的に顎を引く。

 さなかの視線は、“黒”の背筋に寒気を走らせるのに十分なほどの、激情をはらんでいた。

 『極東のどこの誰とも知れない小娘』と、“黒”もまたそう思っていた。だが。

 ……少し、認識を改める必要がありそうだな。

 あるいはこれが、ヨハネスがさなかを後継者に選んだ理由の、その一端なのかもしれない。


「……了解しました。遺産を継ぐというあなたの意志は、確かに承知しました。では場所を変えましょう。ここではゆっくりサインもできませんし、正式な手続きもできませんからね」

 言うなり“黒”は、未だうずくまったままだったさなかの腰を横抱きに軽々と抱え上げると、身を低くしたまま走り出した。

 速い。あっという間にリビングから廊下へ続く戸の位置にまで至る。そしてその低姿勢ゆえに、さなかの顎すれすれをささくれ立った床が流れていく。

「ちょ、ちょっと、さすがにこの姿勢は」「黙っていてください。気付かれます」

 死にたいのか、と暗に言われてさなかは口をつぐんだ。抱えられた姿勢は傍から見てみっともない気がするし、抱えられている側としても楽な恰好ではなかったが、我慢して、身を固くする。


 “黒”は未だ濃く立ち上る白煙の向こうを静かに見据えると、再び走り始めた。そしてそのまま、

「ちょっと、そっちは階段だよ。二階に行っちゃう」

「二階に行くんですよ。この家は囲まれている。一階からではどこから出ようとも待ち伏せされていますから」

 小声で返しながら、“黒”は全く音を立てずに荒れた階段を駆け上がる。二階まで至ったところで、再び様子を窺いながら慎重に歩を進めていく。向かうのはどうやら、さなかの部屋、その窓際だ。


「酷い……」

 自分の部屋の惨状を目にしたさなかが呻く。

 二階は、一階ほど荒れてはいなかったが、しかし窓は割れ砕け、机は弾け、布団は綿を飛ばしていた。家中のカーテンを閉め切っていた分、全体に手当たり次第に撃ち込まれたのだろう。“黒”はそれらの一切に構わず踏み進み、窓際からそっと外の様子を窺う。


 一通り外の様子を確認した“黒”は、そこで、ふむ、と頷きながら懐からなにか短い棒のようなものを取り出した。

「さて、こちらに取り出しましたるは、とあるスイッチに御座います」

 全く感情の籠もらない声音で、ふざけたように言う。は? と小脇に抱えられた状態のさなかは怪訝な顔で見上げる。

「なにそれ。なんのスイッチ? ……え、なんか嫌な予感しかしないんだけど」

 御明察、と“黒”は頷いた。

「この家の一階に仕掛けさせていただいた爆弾のスイッチです」

「爆弾!? あんたいつの間になんてものをあたしの家に仕掛けてくれちゃってるの!?」

「いつの間にというのならば、あなたが二階の戸締りをしに行っている間ですね」

 しれっと答える“黒”は、そのまま躊躇いなくそのスイッチに指を掛ける。


「え、ちょっと」

「もうそろそろ、外でこちらの様子を見ている連中が突入してきます。そのタイミングに合わせて、吹っ飛ばします」

「いや、待ってよ」

「御心配なく。それほど大規模な爆弾ではありません。せいぜいこの二階建てが一階建てに変わる程度のものです」

「十分だよ! 十分大規模だよ! 冗談じゃないっての! この家はあたしたち家族の大事な家なんだよ! 父さんとの思い出だっていっぱいあるのに、吹っ飛ばすとか」

「既に穴だらけですし、いいじゃないですかフロアの一階や二階くらい。思い出? 思い出はあなたの心の中にあるのですよ」

「いい台詞めいたことを言って誤魔化すな! 形に残せるものなら残したいんだよ!」

「知ったことですか。生きていてこその思い出なのですよ。――というわけで、ぽちっとな」

 かち、と軽い音を立てて、ボタンが沈む。ああ! とさなかが暴れる間もなく。



 階下が激震した。



 思わず身を縮めたさなかにこれ幸いと、“黒”はさなかを抱え直し、窓から飛び出した。

「え――うわっ」

「舌を噛みますよ。口は閉じていなさい」

 言われてすぐにさなかは口を堅く閉じた。それもそのはず――“黒”は崩れていく家の窓から飛び出した勢いそのままに、隣家の屋根に飛び移ったのだ。

 小脇にさなかを抱えていながら、片腕だけで軽々と身を上げ、器用に屋根に上る。それも、速い。数秒も経ていない。

「走りますよ」

 小さくさなかに告げるなり、さなかが返事をする間もなく走り始める。

 疾走だ。

 人ひとりを抱えているとは思えないほど軽々と、走る。それも足場の不安定な屋根の上を。屋根から屋根へ、次々と飛び移り、さなかの家からみるみる離れていく。


 く、とさなかは強引に首を巡らせ、背後を見た。つい先程まで自分が平和に過ごしていた、生家を。

 さなかの家は、見えなくなっていた。それもそうだ。一階部分が潰れたのだから。見えるのは、もくもくと上がる黒い煙だけ。


 ぐ、とこみ上げてくるものを堪える。

 さなかの家族にとっての大切な家。

 思い出。

 それは、嘘でも偽りでも、まして冗談でもない。

 だから、悲しく、切なく――腹が立った。

 どうして自分がこんな目に。

 なぜ。

 なにがどうなっているのか、詳しいことを是が非でも“黒”に問い質さねばならない。

 そのためにも、今は生き延びるのだ。

 “黒”の小脇に雑に抱えられたまま、さなかはそう固く決意した。


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