25 目覚めの一杯
遺産相続から、数日後。
さなかと“黒”は、機構を離れ、ニューヨーク中心に位置する高級ホテルの高層階に滞在していた。
用意したのは機構だ。さなかはまだこちらへ来たばかりで拠点などはない。ゆえに、しばらくの仮の宿として手配してくれたわけだが、費用は初日以降はこちら持ちだ。確かに、これ以上を求めるのも厚かましいというもの。並みの富豪でも2、3日以上は連泊できないほどの宿泊料を取るホテルだが、今やその程度では揺るがない資産を有するさなかである――とは言ったものの、この数日の滞在に、今のところさなかの意思は介在していない。
遺産の相続と襲撃、それらを踏まえて、すぐさま世界中のメディアや政府関係者から、記者会見や首脳会見の打診があったが、現状全てを謝辞している。理由はさなかの体調不良、ということにしているが、
……まあ、嘘ではない。
リビングルームの椅子に座し、高々と足を組み、窓から下界を睥睨しつつコーヒーを嗜む“黒”は、ちらりと奥の部屋へ視線を投げた。
扉の閉ざされたその部屋は、さなかの寝室だ。さすがは超高級ホテル、ほぼワンフロアを借り上げている状態なので、部屋は当然のごとく複数あり、事前に申し出ればレイアウトも指定できる。“黒”はどこでも眠れることと、警護の都合上中央の部屋となるリビングのソファで寝起きしているが、さなかは一室を占領して寝室としている。そこに、さなかはこの数日完全に引きこもっていた。トイレ、バスルームも部屋備え付けなので本当に出てくる必要がない。食事だけ、“黒”がルームサービスを適当に注文し、扉を必要最低限開けるさなかに受け渡しするのみ。ある意味完全生活である。
見るともなしに点けたままにしているテレビは、数日を経た今もなおさなかの相続についてのニュースを繰り返していた。暴徒の襲撃と、さなかの血判。その瞬間の映像が何度も何度も流される。よくもまあ飽きないものだ、と思うが、今まさに全世界で最もホットな話題といえば、確かにさなかのことだろう。凶弾が掠めたにもかかわらず、その血で拇印を捺して見せた豪胆さを湛える番組もあれば、その後会見を開くこともなく、メディアに顔を見せないことに疑問を呈する声もある。概ね、体調不良という説明は、つい先日まで一般人であった、ということを考慮して好意的に捉えられてはいるようだが。そしてその点も大きな話題性の一角だ。
田舎娘の成り上がり。
ヨハネス・グレゴールとの関係は。
変則的なシンデレラストーリーである。メディアでもネットでも、行間を妄想で埋め、盛ることに忙しい。題材としては実に一級であることは確かだ。
さなかの家族構成、友人関係等、早くも根掘り葉掘り調べ尽くされている。どこから入手しているのか、幼少期の写真なども断りなく放映されている始末だ。やろうと思えば情報規制も容易だろうが、しかし頼まれてもいないのに気を利かせることもない。陳腐なBGMとばかりに聞き流しながら、コーヒーを啜る。
……おや。
気配。視線をやると、直後に寝室の扉が開いた。のそり、と引き籠もりの主が、実に数日ぶりに姿を見せる。
「イワト開き、とか言うのでしたか。こちらでは何もしていませんが」
冗談めかして言ってみるが、さなかは鼻を鳴らすのみで猫背のままのそのそとテーブルにつく。パジャマのままで、寝ぐせも乱れに乱れているが、さなか自身にそこまで気をやる余力はないらしい。苦み走った顔でテーブルに肘をつく。
「……それ、あたしにも淹れてくれない?」
「仰せのままに。コーヒーですが、それでもよければ。体調は如何です?」
「依然、最悪よ。今朝は少し食べられたけど、昨日の夜までは食ったもの全部吐いてたわ。知ってんでしょ」
「ええ」
そんな体調にいきなりコーヒーなど飲んでは、また胃腸が裏返るのではないかと思うが、寄越せというのならくれてやろう、と“黒”は丁寧にコーヒーをカップに淹れ、さなかへサーブする。
「砂糖とミルクは?」
「後で。一杯目はキッツいので飲みたいわ」
言うとおり、受け取ったさなかはそのまま、手元も見ずに口に運んだ。湯気立つ表面に数度息吹を吹きかけると、ゆっくりと啜っていく。その様を、“黒”は無言で観察する。
シャワーは浴びているはずだが、寝ぐせの爆発している髪の色艶は悪い。目の下にも隈があるし、若干痩せたようにも見える。
体調不良は、事実だ。
相続を完了した日は機構に一泊し、その翌日早朝に、秘密裏にかつ速やかに移動、機構の手配したこのホテルにチェックインし、部屋に入ったさなかはまず吐いた。溜まっていたもの全部、どころか内臓まで全部出してしまうのではないかという勢いでトイレを抱えていた。その後は、程度の大小こそあれ似たようなことの繰り返しだ。寝室に引き籠もっていたというよりは、足元もふらついてロクに出歩けなかったという方が正しい。
そこを出てきたということは、多少なりとも回復したということだろうか。
「いや、あんまり変わってないけどさ……いい加減、何か動かなきゃと思って」
一杯目を飲み干す。やはり苦いのは得意でないのか顰め面になるが、もう一杯頂戴、とカップを“黒”に押してよこした。黙って受け取り、二杯目を淹れに行く。
「何か、って言っても、何をするべきなのかって話なんだけどね。魘されてる間に、いろいろ考えてたのよ」
どうぞ、と差し出されるコーヒーを、ありがと、と受け取り、併せて置かれた角砂糖とミルクをドバドバと投入する。その量に、今度は“黒”が顔を顰めるが、さなかは素知らぬ顔で口をつけた。
「遺産は首尾よく相続したわ。ええ、首尾よくね。でも、じゃあこれであたしは太平安泰かというと、やっぱりそういうことにはならないわけよね。連中は――誰だかわからないけどとにかくその不特定多数の“連中”は、今度は目的を変えて、あたしを襲ってくるんじゃないかと思う」
見ると、”黒”は軽く肩をすくめた。
「まあ、そうでしょうね」
「結局のところ、まだ状況はそれほど好転したわけではないのよね。相続前ほど躍起になって、慌てて襲いに来ないだろう、っていう程度? 逆に、しっかりと準備して襲いに来るとか、そういう可能性もありそうなのよね」
ティースプーンで、半分ほど残っているカップの中身を掻き混ぜる。何の気なしに視線を当てていたテレビ番組が、自分のニュースであることにふと気づき、眉根を寄せるとチャンネルを転々と変えるが、どこのチャンネルでも同じ話題ばかりであり、やがて諦めてリモコンを置く。
「じゃあ、どうすればいいのか……ヨハネス・グレゴールが健在だった頃って、暗殺とかが全くなかったわけじゃないのよね」
「ええ。この手の有名人には珍しくないことです」
「でも今のあたしに対して差し向けられるほどではないでしょ」
「そうですね」
「だからせめて、その程度まで抑えたいのよ。一生暗殺に怯えながら生活していくってのもぞっとする話だけど」言いながら、またさなかは苦い顔になって胃のあたりをさする。「まずはそのくらいにまで状況を変えなくちゃ。いつまでもこのままじゃ、襲撃がなくても死ぬわあたし」
ロクに食えてねーし、とさなかは愚痴のように言う。折角高級ホテルにいるのだから、食事もどうせなら豪勢にいきたいと思うところだ。さなかは小市民である。
「昼は饂飩にしてほしいけど、夜は豪華なのにしてね。なんか、食べられそうな気がする」
「それは構いませんが」このニューヨークにあって饂飩を注文して、果たして出てくるのだろうか、と少し思いながら、“黒”は問う。「結局のところ、これからどうするという話なんです? あまり安易に出歩こうという話ならお勧めしませんが」
「まだその段階じゃないわ。まずは、ちょっと相談してみようかと思って」
「誰に?」
「ハルカ・エレオノール」
言下に、テーブルに置いたのはさなかのスマホだ。
「これは?」
「もう連絡を取ってあるのよ。連絡先は前に交換していたしね。チャットアプリ。便利よ」
いつの間に連絡先の交換など、と思うが、そういうものなのかもしれない。さなかは、元とはいえ女子高生である。
「いや、あたしはまだまだ現役のつもりなんだけど」
「そういえばまだ退学手続きをしていませんでしたね。済ませておきましょうか」
「やめい! ……休学にしておいて。一応」
「しかしそれでは、放校になるまで延々と休学、留年となりませんか。最終学歴が高校中退となるのが嫌でも、日本なら大検というものがあるのでしょうし、こちらの手近な名門に編入しても良いでしょう」
「何で日本の進学事情にそんなに詳しいのよ。名門に編入って、それもどうせアレでしょ、裏口入学でしょ。……いやそうじゃなくて」
頭痛がするかのように、さなかは顰め面でぐりぐりとこめかみを押しながら苦々しげに言う。
「いくらあたしでも今からあの日常に戻れるとは思わないけどさ。形だけのものだとしても、“戻れる糸口”だけは残しておきたいのよ。気分的に。わかる?」
「さっぱり」
「でしょうねえ!」
はあ、とさなかは吐息した。
「ハルカさんは、大体30分くらいで来れるって。それくらいなら、饂飩、食べられるでしょ。オプションとかなしでいいから、とりあえず一杯、頼んでもらえる?」




