24 血判
さなかは、当然のことながら、状況への認識が追い付いていなかった。
さっぱり開かない朱肉と格闘していると、突然腑の底に響く爆発音が鳴り、驚いて顔を上げると、既にさなかの前には“黒”が立ち、銃をその先へ向けていた。
……え?
重い破裂音が一発。
その音が銃声なのだと認識したとき、ふと頬に熱を感じた。
「…………?」
指先で触れる。
熱と、ぬめり。
眼前に手を持ってくると、それは赤黒い、己の血だった。
「――――っ!」
息を呑む。喉奥からせり上がってきた悲鳴を、しかしぐっと抑える。
撃たれた?
でも当たらなかった。
掠ったってこと?
周囲の喧騒が戻ってくる。スローになっていた認識が等速を取り戻す。
襲撃者は、折り重なるように殺到した警備員によって捕らえられていた。その右肩は血に塗れ、苦悶の表情を浮かべてはいるが、その双眸にはまだ意志があり、眼前に転がった拳銃を取り戻そうともがいていた。
状況をどう認識するべきか。
銃声は一発に聞こえた。だが実際は、二発だった?
“黒”が襲撃者の銃弾を逸らしたのか。先に肩を撃って。でも先に弾が当たったのなら相手は撃てなくないか? 銃声は一発分にしか聞こえなかった。同時に撃って、相手の銃弾が逸れたのなら、“黒”は銃弾を撃ったのか?
……そうじゃなくて。
撃たれた、と自覚する。頬の熱と痛みがその証左だ。
見る。
今や完全に取り押さえられた襲撃者の男は、なおも抵抗し、さなかを睨む。
その双眸の奥に光るのは、怒りか、正義か。
……知ったことか。
確実なのは、殺意だ。
どのような大義があるのかはわからない。襲撃者が何者なのか、どのような組織の刺客なのか、あるいは無鉄砲な一個人だったのか。
……知ったことか!
ふつふつと、腹の底から噴き上がってくるものがある。
怒りだ。
誰が、どのような目的でさなかの命を狙ってきたのか。
それが何であるにせよ、ヨハネス・グレゴールの遺産――今まさに目の前にある、一枚の紙に端を発するものであることは間違いない。
こんなもののせいで。
欲しても望んでもいない、言わば押し付けられたに等しいもの。
継承することに同意してここにいる。だが、それもその場の勢いと成り行きに近い。継がないならその場で死に、継ぐならば生き延びられる。そういう状況だった。
………冗談じゃない。
そう仕向けた連中は何者か。簡単だ、既得権者か野望を持つ者だ。そのいずれも、さなか自身に関心があるわけではない。強いて言うなら、どうとでもなる小娘としか思っていないのだろう。だから迅速に誘拐を図り、強奪しようとし、暗殺にも失敗したここに至り公の場で手を下そうとしてきた。全てが同じ者たちであるとは思わない。だがこれは、一連の“うねり”のようなものだ。
さなかを中心として、さなかの排除を意図する、世界レベルでの“うねり”。
……冗談じゃない。
故にこそ、腹の底に熱が籠もる。
震えるほど強く、強く握り締めた拳に、別の熱を感じて見下ろすと、爪が掌を浅く突き破り出血していた。それを見てもなお、猛り狂う怒りは鎮まらず、むしろより強く燃え盛る。
どいつもこいつも、人の命を、人の存在を何だと思っていやがる。
容易い存在だと?
確かにそうだろう。さなかは、質実ともにただの少女だ。日本の一介の女子高生だ。それは“元”かもしれないが。とにかく、さなか単身でできることは、この“うねり”に対しては何もない。
「……冗談じゃないのよ」
ギリ、と強く嚙み締めた歯の奥から漏れた言葉に、“黒”だけが視線を寄越す。状況は依然として変わらない。先鋒は取り押さえられているが、破砕した扉の奥からはまだまだ一団が乗り込もうとし、警備員たちと押し合いになっている。他のVIPたちも次々と避難しており、さなかもすぐに退くべきなのだ。
「須崎殿」
避難を、と促そうとしたダヴィッドだが、さなかの手に制される。何を、と言おうとするも、正面を睨み据えたままのさなかの眼光を垣間見て口を噤んだ。
さなかの双眸は煌々と怒りに燃えている。
……怒りだと? この状況で、恐怖ではなく?
「――あたしは」
小声で、誰かに向けての言葉ではないであろうが、その独白はダヴィッドにも聞こえた。だが日本語だ、ダヴィッドにはわからない。
この場で、この状況で、この独白が聞こえる範囲で、さなかの言葉を理解できるのは“黒”だけだ。
「あたしは、確かに巻き込まれただけだ。成り行きで、流されるままに、お母さんと友達が危険な目に遭うことになって、あたし自身も命を狙われた。何一つ望んじゃいないのに。押し付けられたも同然の遺産とやらのせいで。それも、会ったこともない、よく知らない爺の気まぐれだか勘違いだかのせいで。――徹頭徹尾、冗談じゃないのよ。でもそれ以上に、“ただ振り回されるだけ”ってのが、一番腹が立つ」
そうよ。
「始まりは成り行きでも、それしか選択肢がなかったのだとしても、選んだのはあたし自身だ。自分で選んだ結果としてあたしは今ここにいて、自分で選んでいく過程として、あたしは今これからを行くのよ。だから」
開かない朱肉を机に置く。ダヴィッドを制した右手、その親指で、皮膚が裂け、血の滴る頬を拭う。
「――見なさい」
凛、と声が響く。
英語だ。だからこの場の誰もが理解し、およそこの場で聞こえるとは思わない者の発した声に、一瞬呆気に取られて全員が反射的にさなかを見た。
“黒”は既に場所を空けている。だから、さなかを遮るものはない。カメラを含めた全員の注目を一身に集めたさなかは、怒りに燃える瞳そのままに、血に濡れた親指を、相続同意書の、自らの署名の横に叩きつけた。
皆が思わず静まり返り息を呑む中、親指を離したさなかは、その出来栄えを一瞥すると、左手で書面を掴み、掲げて見せた。
さなかの署名と、血判の捺された、その書面を。
「これで相続は完了よ。――文句ある?」
その様を、書面を、この場の全員が、そして報道を通して全世界が見届けた。
が、と吠え、最初にさなかに発砲した男が暴れだした。それで我に返ったように、扉外の一団が再び押し入ろうと圧をかけ、慌てて警備員が抑えにかかる。部屋内に怒号が飛び交い、一斉にフラッシュが焚かれる。傲然とその様をさなかは睨んでいたが、すぐに“黒”の手によって肩を押され、避難口へと連れ出された。
動きはやや強引なもので、普段であればさなかは多少なりとも抵抗しそうなものだったが、今回は意外なほどすんなりと従い、押されるままに足を進める。見れば、さなかの顔は蒼白を通り越して完全に血の気が引いていた。皮の裂けた己の掌を見つめて呆然としている。ここに至ってようやく、ひとつ違えば死んでいたということを自覚したのだろう。
無理もない、むしろ遅い。確かにここまでは、自宅が爆破されたりカーチェイスの果てに機構に突っ込んだりと、ともすれば映画の演出のような展開の連続で、いまいち現実味に欠けていた感も否めない。それがとうとう、凶弾が頬を掠め、生々しい死を間近に感じ、意識がリアリティを認めたというところか。
……それにしても、震えるのが血判を捺して啖呵切った後とか、やはり一拍ズレているが。
大した胆力だ。護衛としては、膝から崩れ落ちられるのも困るが、適度に怯えてもらった方が事を運びやすいのだが。
……さて。
機構の奥、与えられていた部屋までさなかを押しやりながら、“黒”は内心に思う。
……これでひとつ、ようやく話が進んだ。
相続は確定した。晴れて正式に、須崎・さなかはヨハネス・グレゴールの遺産を継承したわけだ。
ならば次の段階として、考えるべきこと、やるべきことがあろう。しかし。
小さく震えているさなかを見下ろす。
……果たして、次に向けて踏み出せるのかな?




