22 調印式③
式は粛々と進む。
「――長らくお待たせした。ではこれより、遺産相続の調印を執り行う。洲崎・さなか殿、前へ」
壇上のダヴィッドの促しに応じ、さなかは立ち上がった。
中央、観衆から見て正面に位置するテーブルには、既に書面がセットされている。脇には高級そうな万年筆も添えられていた。
「署名し、拇印を捺す。それで儀式は完了だ」
マイクを外したダヴィッドがさなかだけに聞こえる声で教えてくれる。成程、とさなかは相続同意書の前まで進み、一同をざっと見渡した。
やはり、いろいろな視線がある。柔和に見ているのは、ハルカくらいだろう。そのハルカだって、腹の内で何を考えているのかまでは窺い知れない。
……ええ、そうね。
内心に頷き、軽く呼吸を整える。
わかってはいたこと。だからこれは、再確認だ。
万年筆を取る。
……これからは、あいつら全員、あたしの敵ってわけね。
何らかの形で、彼らはさなかとの接触を図るだろう。
勿論、さなかから利を得るためだ。それは別に、暗殺や、遺産を横取りするとか、そういうことに限らない。
正当な交渉で、権益を切り取ろうとする奴もいるだろう。
ただの女子高生に――元、ただの女子高生に、急に求められるにはあまりにも酷な話だ。
だが、ほいほいと奪われるのは我慢ならない。
癪だからだ。
……やってやろうじゃない。
足の震えを自覚する。背筋を冷たい汗が流れていくのを感じる。それでも、虚勢であっても、さなかは口端を吊り上げて笑んでみせる。
万年筆を構えた。
「…………」
さて。
こういうのは、日本語でもいいのだろうか。
それとも、やはり英語で、それも筆記体で書き上げた方がいいのだろうか。
少し、迷う。
……筆記体、ちょっと自信ないわねー……。
――そのとき。
ド、とどこかが騒めいた。
数秒をおいて、もう一度。
籠った音。さなかには距離などはわからないが、これは十中八九、
……警備を突破されたわね。
何事か、と部屋の人々が腰を浮かせる。その背後を、急いだ足取りで部屋に入ってきた黒服のひとりが通り抜け、壇上のダヴィッドに耳打ちする。
報告は短い。だが、うむ、とダヴィッドは頷いた。
「諸君、どうか慌てずに。当機構の警備は幾重にも構えており――」
ド、と三度目の衝撃音。これはさなかにもわかる。先程より、明らかに近づいている。
その音を聞いて、ふむ、とダヴィッドは肩をすくめた。
「とは言うものの、絶対の安全までを保障しているわけではない。各々方、どうぞ御自衛いただきたい」
さすが、その業界に長い人々は対応が早い。それぞれの背後に控えていたSPがすばやくVIPを取り囲み、壁際まで下がる。機構のスタッフは裏口の確保を急いでいる。メディア陣は、これもさすがというか、この緊迫の瞬間にも構えたカメラを降ろしてはいなかった。
矢継ぎ早に指示を出すダヴィッドを、緊張の表情でSPに囲まれるVIPたちを、そして騒ぎの中心たるさなかを映し続ける。
「さて、どうしますか。まあどうもこうも、いちはやく撤退が賢明ですがね」
「……ふん」
鼻を鳴らし、さなかは万年筆を持ち直した。おや、と“黒”が見る下で、さらさらと署名する。
筆記体で。
「どう?」
「読めないことは、ないですね」
「これで手続き完了?」
「あとひとつ。捺印が必要ですね。拇印です」
「拇印ね」
親指でいいのだろうか。それで、朱肉は。手近には見つからず、ダヴィッドを見ると、何だか呆れたような表情でこちらを見ていた。
「あの、朱肉は?」
「ここに。――しかし、何だ。豪胆さもこの期に及ぶと感心を越えて畏れ入るな。今、第三陣を突破されたと報告があった。大部分はやはりただの暴徒だが、どうやら手引きしている者は手練れらしい。怖くはないのかね?」
「そりゃもう、怖いわ。怖くて堪らない。でも」
スタッフが持ってきた朱肉のケースを受け取り、さなかは肩をすくめた。
「想定内。怪獣が上陸してきたわけでも、天変地異が起こったわけでもない。それなら、対応できるはず。私にはできなくとも、“黒”にはできる。そうでしょ? それならあたしがするべきことは、シナリオ通りに話を進めることだけ。――固いわねえ、これ。全然開かないんですけど」
御洒落に凝った作りになったその朱肉ケースは、その装飾もあって、そもそもどこが開くのかわかりにくく、さなかはあれこれと苦戦している。が、
……虚勢だな。
強がりも強がりだ。見ればわかる。朱肉ケースが開けられないのは、何もケースが固いから、だけではない(否定はしないが)。
上手く力が入らないのだ。
指先が、小刻みに震えている。
額に浮かぶ汗は、決して暑さによるものではない。
肝が太い。それは確かだ。
だがそれ以上に、敵愾心が強い。果たして今、この少女が何を敵と見做しているのかはわからないが。
……既に、敵だらけだからな。
今まさに襲撃――そう、襲撃。幾重もの警備ラインを強引に突き破って侵攻してきている連中を除いても、この場にこの少女の味方は数えるほどもいない。
……四面楚歌、と言うのだったかな。
「本部長、避難誘導の準備が整いました!」
「よろしい。では順番に避難だ。まずは洲崎氏から――」
爆音とともにドアが壁ごと破裂した。
壁際へ避難していたVIPたちが思わず悲鳴を上げて縮こまる。SPたちが破片から護衛対象を守るべく、身を挺して庇う。
……指向性の爆弾か。やはりただの暴徒ではないな。
ただの手榴弾であれば、機構の扉は破ることなどできない。その程度の対策は基本としている。だが、特に扉などを破砕する目的で用いられるものとなれば話は別だ。爆発に指向性を持たせることで威力を一点に収束されれば、いかに対策済みといえども破られ得る。それでも、生半可な衝撃であれば無効なのだが、
……現に扉は、破られている。
相当な威力のものが用いられたということだ。簡単に入手できるものではあるまい。
……と、悠長に考えている場合ではないな。
とにかくVIPの非難を優先。とりわけこの場では、さなかだ。そして十中八九、襲撃者の狙いはさなかだろう。
……間に合うか?
粉塵の奥から、ぬっと腕が突き出されるのが見えた。その掌には拳銃がしっかりと握られている。引鉄には既に指が掛かっており、銃口は、過たずさなかを射線に据えていた。
対して、もうひとつ。
爆発と衝撃に思わず顔を上げたさなかと、その前に音もなく、静かに立つ“黒”の背が見えた。




