21 調印式②
調印式のために設えられた部屋は、それほど大きな部屋ではなかった。扉を除く四方の壁に沿って手すり、その前に椅子がずらりと並び、上座に机が一基あり、既にダヴィッドが立っていた。周辺を囲むのはSPらしき制服の職員のほか、報道機関らしき面々がカメラやマイクを構えて待ち構えている。手すりの前に並べられた椅子には重厚な雰囲気を纏う老若男女が座っていた。その中にはハルカの顔もあり、こちらに気が付いて小さく手を上げる。会釈しつつ、さなかは場の空気に臆することなく踏み込んだ。
一斉にフラッシュが焚かれ、その光圧にやや顔を顰めるも、歩みは止めない。早口な質問とマイクが突き出されるが、“黒”とともにさなかの周囲を固めるSPがそれらを押しのけ、奥へと通してくれる。
「ハルカさんと並んで座ってる連中、何者?」
「巨大企業の代表取締役、政府高官……まあ、財界政界の重鎮というわけですね。いずれもこの件の見届け人というわけです」
ハルカも列席しているわけだから、おおよそそんなところなのだろうとは思ったが、やはりか。ならば、今後はああいった連中と渡り合わなければならないわけか。
空気が、重い。
受ける視線の質は様々だ。好奇、警戒、品定め……いずれに対しても、さなかは視線を返さない。単純な恐れもある。だがそれ以上に、吞まれてしまうことが恐ろしい。
この場に、空気に、圧倒されてしまうことの方がマズい。それは、さなかがさなからしさを見失ってしまうことだ。
自分を見失い、呑まれれば、あとは大勢に流されるままだ。言い返すことも、抗うこともできず、誰かに、何かに、いいように操られてしまう。
冗談じゃない。
そんなことになってたまるか。
事故のようにわけのわからないまま押し付けられたことであっても、既にこれは自分のものだ。自分の人生だ。
それが、誰かに操られてしまうものであってなるものか。
「……冗談じゃないわ」
低く、小さく、呟く。何か言ったか、と“黒”が視線を寄越すが、別に言い直したりはしない。聞かせたいわけではないのだ。呼吸をひとつ、ゆっくりと、深く。
主賓のために用意されていた椅子に案内される。上座、ダヴィッドの立つ演台に向かい合う位置に、互いと観衆の両方へ斜めに向けられた席。そこがさなかの席である。その前に立ち、ダヴィッドの促しで観衆に軽い会釈を送ってからすとんと腰を下ろした。
進行は、ダヴィッド自身が行うらしい。彼は時計を確認し、数秒置いて頷くと、観衆へ向けて口を開いた。
「――静粛に。本日はよくお集まりいただいた。政界、財界から、この職に就いて長い私ですら一堂に会しているところを目にすることはおよそ考えられない顔ぶれだ。まあそれも当然と言えるのだろう。何せ、かのヨハネス・グレゴールの後継が、かの遺産を継ぐのだから」
ヨハネスは会場を見渡す。メディアの焚くフラッシュなどのほかは、咳ひとつ起こらない。
「そのものが何者か、名は知っていても、それ以外のことはほとんどわかっていなかっただろう。ゆえに、まず初めに彼女を紹介しよう。これが、皆へ、そして世界への初の顔合わせということになる。よく見知りおきいただこう。――彼女が、洲崎・さなか。極東からやってきた、日本人の少女だ」
ダヴィッドの示しに応じ、さなかは席から腰を上げた。礼儀作法など知らない。ただ観衆へひとつ、黙礼するだけだ。一斉にフラッシュが焚かれ、居並ぶ誰もの視線が突き刺さる。
……視線に物理判定があったら、壁に叩きつけられて大の字でめり込んでいるところね。
冗談めかしてみるが、我ながら全く笑えない。小刻みに震える足から、不意に力が抜けて崩れ落ちてしまうのではないかと、そんなことを案じてしまっている。
ダヴィッドが再び口上を述べはじめ、さなかは座り直す。一言も発してすらいないのに、どっと鈍い汗が噴き出すのを感じた。それなのに、首筋に氷を差し込まれているかのように、全身の悪寒が止まらないのだ。
畜生、と舌打ちしたくなるのをぐっと堪える。いいように弄ばれているようで、無闇に腹が立つ。
「……何やら苛立っているようですが、ここでひとつ、悪い知らせです」
「っ! ……急に耳元で囁かないでよ、心臓に悪い」
気配なく、音すらなく近づいて身を折り、さなかの耳元に顔を寄せていた“黒”は、これは失礼、と全く悪びれない。場は未だダヴィッドの口上が続いており、会話などしていて大丈夫なのかと思うが、状況を顧みればSPが耳打ちしているだけなのだろう、と気にしないことにする。
「それで、何?」
「外で機構を取り囲んでいる市民団体らの動きが過激化しています。既に暴動に近いものまで出ている。いかに機構の警備が厳重かつ厳格とはいえ、メディアの前で一般人を軽々しく射殺するわけにはいきません。物量に押され、乗り越えられる危険性が出てきました。その場合、暴徒と化した市民がここへ殴り込みに来ることが予想されます」
「成程ね。それは確かに悪い知らせだわ。もしそうなった場合、この調印式は中断するの?」
「まあ、致し方ないでしょう。そもそもがデモンストレーションです。体よく中止し、調印自体は奥で済ませて結果だけ公表することも考えられます」
「それもありではあるけどね……」
ダヴィッドの口上はまだ続いていた。ふむ、とさなかは少し考える。
己の正義を確信する人間。
その集団。
一時の熱狂。
熱に浮かされた人間は判断力を失う。
大きな声を上げた者の主張が、僅かでも己の意に沿うものであれば、斟酌することなく唱和するだろう。
それが、冷静になれば採るはずもない、暴力的な手段であっても。
直感めいたものがある。
「根拠とか特にないんだけど……その暴徒、扇動者みたいのがいたりする?」
ほう、と“黒”は感心したように吐息した。
「フィクションの読み過ぎでは」
「あたしの慧眼に畏れ入れ」
「常人の発想ではないと思いますが。とはいえまあ、御明察です」
おい、とさなかは眉根を寄せる。最初からそう言え。
「数人、そういった動きをしている者がいます。機構が急ぎ身元の調査をしていますが、間に合わないでしょうね」
「どう思う? 組織的なものか、個人的なものか」
「さて。断言はできませんが、少なくとも大組織のものではないでしょうね。方法が短絡的過ぎます。ここであなたを暗殺できればきっと何かが変わるのだと、そう思っているのでしょうが、その後のことを考えられていない」
「確かに……そうよね」
視線だけを、さりげなく部屋に巡らせる。居並ぶのは、ハルカを含め、政界、財界の重鎮だ。
「万が一、彼らのうちに巻き添えが出れば、その組織からの報復は必至でしょう。そこまで考慮された手段とは言えません」
「報復って、例えばどんな感じ?」
「そうですねえ……ソフトに表現すると、一族郎党皆殺し、といったところですかね」
ハードに言うとどうなるのか、興味深いところだ。
「とはいえまあ、何らかのアクシデントが起こる可能性は高い。予期しているからには、やはりこの会は中断しますか?」
「まさか」
さなかは、不敵に笑ってみせた。少なくとも、そう自分が信じる笑みを作った。
言ってやる。
「例え何が起こっても、そこを何とかしてみせるのがあんたたちの仕事でしょ。役割に恥じのない働きを期待してるわ」




