20 調印式①
手続きの大部分はヨハネスが済ませている、というダヴィッドの言通り、翌日の予定時刻が近づくまで、さなかがすることはほとんどなかった。機構が用意した夕食、朝食を摂り、“黒”が手配した礼服に着替える。
「ほんっと、いちいち高級だわ……わけもなく腹が立つわね」
「庶民の僻みはやめてください。見苦しいですよ」「うるせえ」
食事は文句なく美味であった。高級料理というと、巨大な皿にちまっとシャレオツな得体の知れない何かが載っているというイメージだが、さなかのレベルに合わせたのか見たことのあるメニューで、そのくせ食材や料理人が一流なのか、さなかですら骨身に染みるほど美味かった。
「この礼服は? あんたが選んだの?」
「まさか。機構の業者に金を渡していますよ。昨日依頼して寸法を測りに来ることもなく翌朝には用意できているのだから、やはりここも恐ろしい組織ですね」
「あ、つまり、あたしのスリーサイズがバレてるってこと……?」
「駄々洩れですね」
衝立を挟んで、機構の女性数人に手伝ってもらいながら着込む。濃紺のアフタヌーンドレスだ。続けて化粧と髪型のセットに移る。皆手際よく、みるみるうちに別人のように端正に仕上がっていく。
「まさに別人ですね。これならスッピンで出歩いてもバレないのでは?」
「あ、こら覗くな。しかも何だその言いぐさは」
“黒”と軽口を応酬しながら、さなかはそっと息をつく。まさか“黒”が気を遣っているとは思わないが、それでも多少気は紛れた。そう、さなかは大なり小なり気を張っている。
さもありなん。さなかの人生ではおよそあり得ない展開だ。
人類史上最大の個人資産を受け継ぐ。それはまあ、もはやいい。
強固な組織の荘厳な施設での調印式。そのための衣装と化粧。
居並ぶ厳粛な面持ちの役人たち。
外では、怒号混じりの喧騒さえ聞こえる。それら全てが、さなかひとりに向けられたものだ。
「……にしても騒がしいわね。外」
まだ化粧の途中であるため、さなかは椅子から動けない。代わりというわけでもないだろうが、ええ、と“黒”が窓から外を眺める。
「あなたの調印式を、公式に機構が発表しましたからね。厳正な調査をクリアした報道機関は入構できますが、それ以外は門前払い。ゆえに、門前で騒いでいるのですよ。ハハ、跪いて祈りを捧げている奴や、何やら横断幕を持っている連中もいますね。“高貴なる義務”、“恵まれない子供たちへ寛大な寄付を”、“聖者の教会へ信仰心を示したまえ”……ヨハネス氏は募金や寄付はあまりしませんでしたが、あなたなら金を無心できるとでも考えているのやもしれませんね」
「へえ、寄付とかしなかったんだ。お金持ちなのに」
「寄付するくらいならと、自ら事業を行っていましたよ。勿論、ひとりで全ては管理できませんから、自らが座長となる非営利組織を立ち上げてそこに資金を投入していました。その組織で、ヨハネス氏の人脈を活用することによって、南アの水道開発事業など手広く展開していたはずです」
「成程ね……そういえば、ここまで慌ただしくて考えが及んでいなかったのだけれど、あたしが相続するのってお金だけなんだっけ。お金って言っても、形は現金だけってわけじゃないんだろうけど」
ふむ、と“黒”は桟に寄りかかり、腕を組んだ。
「多少は落ち着いて、自身の周辺をさらに広げて見ることができるようになってきたわけですか。良いでしょう。――あなたが相続する予定の資産ですが、概ね遺言状で読み上げられた通りですよ。ヨハネス氏は即物的な貨幣はほとんど持っていなかったので現金や金塊、芸術作品などはありませんが、世界中の銀行に分散した預金や仮想通貨、株式などのほか、先ほど挙がったNPOをはじめとする様々な組織、企業、機関の代表権など多岐に渡ります」
ええ、と“黒”は軽く頷いた。
「遺産を継承した瞬間、あなたは百を優に超える組織の長となるわけですよ」
「スケールが段違い過ぎて現実味が全くないわね……それ、ヨハネスが全部一元管理していたわけではないよね?」
「ええ、基本的には名義と融資。ただ、半数以上は最終決定権を保持していたはずですね。つまり、自分で面倒を見ていたわけです。実質的な運営は委任しているでしょうが」
「経営の化け物でもあったわけか……」
そうとなると、次いで気になるのはそれら組織の現状だ。頭領が不在となっている今、それら組織は、その構成員たる彼らはどうしているのだろう。
「今のところは、ごく一部を除いて何のアクションもなく、淡々と運営を継続しています。いずれの組織でも代表代理を立てていますが、彼らが自らの利権継承を申し立てる動きもありません」
妙な話だ。自分が代表する組織は自分が引き取る、とそうなってもおかしくはないと思うのだが。
「ごく一部は、申し立てをしているわけ?」
「ええ。しかしそれも、規模の小さな、晩年のヨハネス氏が融資などの撤退を始めていた気配のある企業などです。言い値で手を切っても何ら痛まないサイズのもの。逆に、大御所ほど静観しているようにすら思われます。このまま黙っていては、極東の小娘が自らの上役となってしまうというのに」
「あんたの言い方はいちいち腹立つけど、まあそのとおりよね。何考えてるのかしら」
首を傾げるが、さなかが考えたところで答えの出るようなものでもない。黙っているのなら今はそれでいい、とにかく当座を凌がねば。
よし、とさなかは立ち上がった。化粧も衣装も完了した。セットしてくれた女性たちに礼を言い、鏡で軽くチェックする。
うむ。普段より三割増しで美少女だわ。
「十三割増しでは。存在しない素材の良さを創出し十全に映えさせるとは、さすがプロの手腕ですね」「うるせえ。行くぞ」
そろそろ時間だ。扉を開けた案内役のボーイに頷いて、さなかは用意されていたハンドバッグを手に取る。
「ハルカさんは? 間に合いそう?」
「既に会場に入っているそうです。何だかんだと言って、間に合ったようですね」
ならばよし。あとはさなかの登壇を待つばかりというわけだ。




