17 フライト
さなかは、自分でも数少ない他人に誇ることのできる特技として、英語が堪能である。何となく肌に合っていて、趣味で勉強していたところ、目覚ましく伸びた。他の教科は並だが、英語だけは得意だった。読み書き会話といずれも、ネイティブ並みと評されている。
だが、実のところ、さなかは海外渡航の経験は未だになかった。そんな金銭的余裕がなかったところが大きいが、不思議と、さなか自身に海外への憧憬が薄かったのが理由である。英語圏の人と話すことは楽しかったし、洋書を読むのも好きだが、海外へ行こうという積極的な好奇心は、あまりなかった。
だから、これが人生初の海外だ。
「旅行、だなんて暢気なものじゃ全くないのが、残念というか何というか……」
「ニューヨークまで14時間です。どうせすることもない、寝ていなさい。乗り物で眠るのは不得手ですか?」
「バスでは眠れるけど、飛行機は初めてね。乗るのだって、去年の修学旅行以来で二度目よ。ビジネスクラス? は初めてだけど。毛布頂戴」
「どうぞ。――向こうに着いてからは、また慌ただしくなるでしょう。落ち着いて眠れるのは当分これが最後かもしれませんから、そのおつもりで」
「寝ろって言っておきながらなぜ脅すんだ……」
「Beaf or Chiken?」
「これから寝るって言ってんだろーが。Beafで」
「CAに言ってください」
「なぜ訊いた!」
毛布を首元まで引き上げつつ、さなかは窓から眼下の雲海を眺める。本格的に寝入るときにはブラインドを下すが、それまでの少しくらいはいいだろう。どうせ14時間をフルで眠ることなどできない。
「空港に着いてからは、すぐに車でニューヨーク市の国際遺産管理機構へ向かいます。現地でエレオノールと合流できればベストですが、彼女が首尾よく間に合わなかった場合でも、預かっている委任状を出せば手続きは可能でしょう。多少、時間はかかるでしょうが」
「その組織についても訊いてみたいところだけど、後にするわ。……で、一応訊いておくけど、車ってどんな車?」
「運び屋を手配してあります。急な話でごねられた上に吹っ掛けられましたが、今の資金力なら余裕です」
その資金って、あたしのなわけだけど、とさなかは半眼になる。
「タクシーとかじゃダメなの?」
「速度、技術、状況判断。いずれにおいてもプロが運転した方が即応しやすい。何より、追撃戦になった際にあなたはタクシーの運転手も守れなどと言い出しかねない。無用なリスクは減らしておきたいのですよ」
まあ、そうだろうけどさ、とさなかは口をへの字に曲げる。“黒”は軽く鼻を鳴らし、CAを呼び止めて新聞を買った。日経新聞、ニューヨークタイムスの二紙。さなかも横から覗き込んでみると、どちらも三面記事はさなかの話題で持ちきりだ。どこから入手したのか知らないが、昨年の修学旅行で撮られた集合写真の、拡大されたものが掲載されている。笑顔でVサインしているが、目は閉じていた「チョイスおかしいだろ」写真写り悪いですね、などと“黒”は遠慮なく感想を述べ、黙らっしゃい、とさなかは“黒”の膝をつねった。
「あんたは、アメリカ行ったことあるの? 何だっけ、護り屋? その前って何してたんだっけ」
「経歴など話すつもりはありませんがね。アメリカどころか、大概の国は数回ずつ行ったことがありますよ。仕事柄ね」
「だから、その仕事は何してたのってさ。言うつもりがないんなら思わせぶりな言い方しないでよ。気になるじゃん」
「伏線ですよ、伏線」
「誰に対する何のための伏線なんだ……」
「前職は当分言うつもりはありませんがね。もっと古い話なら、いつとは言いませんがフリーランスの傭兵をしていた頃があります。その当時は中東や中国国境あたりを動くことが多かった」
「傭兵って、実在するんだ……歴史か、ファンタジーの世界の話かと思ってた」
平和なことを言っているさなかに、“黒”は何ということもなく肩をすくめる。
「傭兵という表現こそ馴染みが薄いのでしょうが、この極東でも傭兵制度はあったと記憶しています。サムライはその起源は貴族に雇われた兵士、つまり傭兵だった。ニンジャもまた特定の主に仕えず金銭で雇われ活動していた。後の江戸時代頃に現れたローニンもまた、大戦時に雇われ動員されていたはずです」
「そうなの? てか、クロ、何であたしより日本に詳しいのさ……」
「全くです。この国は一体若者に何を教えているのか。――ちなみに、国連の条約で傭兵の募集や運用は禁じられていますが、事実上、この現代においても傭兵は盛んに用いられています。アメリカもかつて大量に傭兵を使っていたことがありますし、フランスやスペインの外人部隊などは事実上傭兵部隊です。今や一般的になりつつある民間軍事会社などはまさしく現代の傭兵制度でしょう」
新聞を斜め読みしながら、“黒”は淡々と言う。新聞にも、自分が話している内容にもさして興味がなさそうだ。
「民間……? 会社が傭兵やってるってこと? 戦争をビジネスにしてるわけ?」
さなかは眉根を寄せた。まあ、先の大戦から牙を抜かれた日本の民ならば――さらに言えば、軍事力を持たなければ国民が不安がる他の大国と異なり、自衛のための戦力すら嫌悪する精神性の国民だ。感性としては一般的なのだろう。戦争放棄。その理念は素晴らしい、崇高だ。誰もがそうあれかしと願ってやまない。ただ、その内実が全く伴っていないだけだ。戦争を嫌うために戦争を嫌っている日本人であれば、ビジネスライクに戦争をするというのは度し難いだろう。だが、
「戦争はビジネスですよ。一面として、それは決して否定できない事実だ。軍事特需を引き合いに出すまでもなく、戦争が大きければ大きいほど、経済は回り、潤う。科学技術は発展し、医療技術は進歩し、貿易は増大する。その恩恵は計り知れない」
「でも、人が死ぬ」
「黙っていても人は死ぬ。日々一体どれだけの人々が戦争と関係なく死んでいるか調べたことはありますか? 病で死に、飢えて死に、絶望して死ぬ。若年層では世界でもトップクラスの自殺率を誇る国出身として何かコメントは?」
「それは」
「戦争の何が問題か? 愚衆が考えるのは死だ。勿論デメリットはあります。敗戦すれば国際的地位は後退し、多額の賠償金を支払うために資金は失われ、一時的にせよ制圧下に置かれるかもしれない――敗ければ。戦勝国にとって得るものが膨大であることは言うに及ばず、第三国の得る利益は途方もなく大きい。大国について多少の援助をし、その大国が勝てば戦勝国の一席に加わることができる。負けたとしても、出費はたかが知れている。漁夫の利を目論む者にとって、特に戦争は最高の油田のようなものなのですよ。それに日本人はひとつ勘違いしている。追い詰められた結果、国家国民総出で玉砕などという愚かなことをしているのは日本くらいのものだ。基本的に戦争は、軍人の仕事なのですよ。かつてそれができなかった日本は、戦争は国民が全員で玉砕するものだと思い込んでいる。それが過剰な戦争嫌いを生んでいる。――まあ」
“黒”は新聞を閉じた。そのまま畳み、前の座席裏の網ポケットに差し込むと、代わりにアイマスクを取り出した。
「戯言ですがね」
「……滔々と語っておいて、その落ちってどうなの」
「どうでもいいでしょう。ええ、本当にどうでもいいことだ」
アイマスクを装着し、リクライニングをわずかに傾ける。自然に頭が前に落ちない角度に設定して、“黒”は淡々と言う。
「誰が何を叫んでも、どれだけ声を集めても、変わらないものは変わらない。どれだけの人々がどれだけ拒んだところで、変わるべきは変わっていく。変えていくのは人の力ではない。人にできることはたかが知れている。個人的に、声が大きく口先だけの人間が嫌いなだけですよ。――友人」
不意に話の流れに全く関係のない単語が聞こえて、さなかは自分も倣ってアイマスクを取ろうとしていた手を止めた。は? と“黒”を見る。“黒”は完全に眠りに入る体勢のまま、口だけを小さく動かす。
「あなたが守りたがっていた友人は、どのような人ですか?」
「お、興味ある?」
「場繋ぎに話を振っているだけですよ。察しなさい」
「言葉を選ばないよねあんた」
「守る必要がある人物について、あなたが挙げたのは一貫して母親と、その友人ただひとりでしたね。もしかして」
「……もしかして?」
フ、と“黒”は肩をすくめ、
「寂しい人ですね」
「過程をすっ飛ばすな、憐みの目をやめろ! いるって! 友達! 少なくともひとりいるわけじゃん!」
「ひとり……フッ」
「笑ったな! あんた笑ったな! 自分の方が余程友達いなさそうな顔して!」
く、と“黒”を睨むが、アイマスク装着済みの“黒”はまるで意に介さない。歯噛みしつつも“黒”のアイマスクを引っぺがすことはせず、自分も同じものを頭に着けた。
「……友達が少ないってことは、ないけど。それなりに仲のいい人は結構いたよ。自分で言うのもなんだけど、クラスメートにも馴染んでたと思うし。部活には入ってなかったけどさ」
「その人たちは、守ろうと思わないのですか?」
「思わないわけじゃないよ。でも……」
何と言うか。
言葉を探して逡巡する。だが結局、相応しい言葉は見つからず、最初に思いついた言葉になってしまう。
「――あたしにとって人質としての価値までは、ないというか」
ほう、と感心したように“黒”は吐息を漏らし、アイマスクをずらしてこちらを見た。
「言葉を選びませんねあなた」
「一緒にしないで。あたしは、ちょうどいい言葉が思い当たらなかっただけよ」
それで最終的に出てくる言葉がそれでは、結局一緒だと思うが、腰を折るのもなんなので“黒”は先を促す。
「あたしは別に社交的な方じゃないけど、たまに一緒に遊びに行く程度の仲の人はそれなりにいる。教室で盛り上がるクラスメートだって普通にいる。自分で言うのもなんだけど、誰とでもそれなりに仲良くできるタイプなんだ、あたし」
「誰とでも仲良く……成程、ビッチですね」
「ビッチじゃねーよ」
遊んでねーし彼氏もいねーわ「訊いてませんが」何だと。
「……でも、どうしたってお互いに越えない一線は引いてるし、表面的な会話ばっかりで踏み込んだ話はしない」
それが、悪いことだとも足りないことだとも思わないけれど。
「でも、“じゃあこの人のために命まで賭けられるか?”って考えた時には、迷いなくNoって言うと思う。少なくとも、お母さんや優李に対して思うほどに、何もかも投げ出そうとは思わない」
勿論、とさなかは続ける。
「目の前で人質に取られれば、まずは助ける方法を考える。けれど同時に、自分が逃げ出す方法を考える。助けて、なおかつ自分も逃げ果せるのがベストだけど、場合によっては――見捨てる、っていう選択肢も、しっかり数えておくんだと思う」
例え冷血と、人でなしと言われても。
「人生は物語じゃない。理想だけを闇雲に叫んでいたって、無理なものは無理。物語的な美しさを喚いてどうにかなるのは、物語だけ。あたしは主人公じゃないし、現実はその程度。自分で何とかしなきゃ、物事はどうにもなっていかない」
「その割には、母親については随分と必死でしたが」
「だから言ったでしょ。お母さんと優李は別。何が何でも助ける。それがあたしの、譲れない一線だから」
成程、と“黒”は相槌を打つ。
「母親については言うに及ばず、そうなると、あなたにそこまで言わしめるその友人に興味が湧いてきましたね」
「ま、教えないけどね」
「おや」
さなかは“黒”を半眼で見る。
「今更だけど、あんたが自分のこと全然話さないのに、あたしばっかり言うのも不公平でしょ。だから伏線よ、伏線。あたしと優李の仲は、ほら、何て言うの、番外編で語られるのよ」
「人生に番外編なんてありませんよ。何を夢見がちなことを言っているのですか」
「先に伏線だ何だって言い出した奴が何を言うか」
「まあ」
アイマスクの位置を戻し、完全に睡眠に入る姿勢に戻った“黒”は、憤るさなかを他所に呟くように言った。
「そういう考え方は、なかなかどうして悪くない」
「え、今何て?」
訊き返すも、“黒”は答えない。本当に寝るつもりのようだ。まあいいか、と吐息して、さなかは自分の額のアイマスクに手をかける。
視界を塞ぐ寸前に、ちらっと窓の外の雲海を見やる。
この雲の下に降りる頃には、もう見知った島国ではない。
……誰にどこからでも狙われる場所。
母も優李も身の安全は約束された。だからあとは、自分だ。
ふと自分の手を見下ろした。震えている。
……そりゃあ、怖いよ。
けれど。
左手で、震える右手をそっと包む。
……行くしかない、やるしかないんだ。これから、全部。
“黒”に念を押されずとも、十分わかっている。もう、全ては動き出してしまっている。だから、
……始めていくしかないんだ。あたしを。




