12 優雅な来訪者
「……何の用?」
問いかけの短さは警戒の表れだ。さなかの視線が、ハルカと名乗った乱入者の背後へ走る。そこに、ハルカの従者らしき黒衣の女性と、“黒”が並んでいたからだ。だがそれも一瞬だけで、視点はハルカだけに集中する。
……これはこれは。
流石に拍手は止めたが、柔和な笑みは口許に残したままだ。普段であれば呼吸をするように自然に維持できているこの表情が、しかし今は意識して努めなければ崩れそうになる。
……なかなかどうして、侮り難い。
そんな感想を抱く。
さなかの、視線だ。
それは強く、強く、物理的な圧力さえ錯覚されてしまいそうなほど強く、まっすぐにハルカへ当てられていた。並みの者なら、数秒と持たずに怯み視線を逸らすか、呑まれてしまうであろう目だ。立場上、化け物のような傑物と何度となく渡り合ってきたハルカをして、最上位の警戒を禁じ得ないほどの。
対する由乃はと言えば、最初の一瞬だけはさなかと同じ、あるいはそれ以上の強い視線を持っていた。しかし次の瞬間には、さなかを眩しそうな表情で見上げ、満足げに笑んでいるだけだ。そこにはあの一瞬に確かにあったはずの剣呑な空気は微塵も残っていない。
……恐ろしい母子ね。素晴らしい娘さんを育てたようで。
内心で最大の賛辞を投げながら、ハルカはさなかへ意識を戻す。唇を舐めて軽く湿らせてから、口を開いた。
「敵意はありませんよ。こちらの方も、別に寝返ったというわけではありません」
視線で促すと、“黒”は軽く肩をすくめてハルカの横をすり抜けていった。そのままさなかの横に立つと、腕組みなどしてこちらを睥睨する。高みの見物、といった態度だ。その様子に、背後に控えているハルカの護衛がわずかに険を帯びるのをやんわりと制し、さなかの視線を正面から受ける。
……さて、どうしていったものか。
同じことを、さなかもまたハルカに対して考えていた。
どうしたものか。
どう判断したものか。
あらゆる組織が敵、という現状で、まさにその組織からの襲撃を受けていたはずのこの局面で、この人物は堂々と正面からやって来た。
そもそも、なぜ“黒”はこの女性を連れてきた? “黒”は敵性組織の排除に向かったはずだ。にも拘らず五体満足に連れてきたということは、敵ではないということか? “黒”は何を考えている?
わからない。だから訊く。
「クロ」
「取引がしたい、とのことですよ。ほぼ丸腰でしたし、危険性はないと判断したので」
まあ、例え敵意があったところで脅威にはなりませんけど。
言外にそんなニュアンスの見え隠れする態度だった。相手方もそれを察しているのか、ハルカの護衛らしき女性が眉根を寄せるが、ハルカ自身は全く動じていない。
取引? さなかはハルカの全身を見据える。
服飾にあまり拘らないのか、華美な意匠はほとんどなく、機能性が重視されたものだ。しかし柔らかな薄い金髪はよく手入れされているし、わずかに皺の刻まれた顔も色艶が良い。端正な容姿も相まって判断しにくいが、年齢は、四十代程度だろうか。全体に物腰の穏やかそうな雰囲気があるが、その双眸が全てを裏切っている。
……狐。
そんな印象だった。狡知に長けた狐。それもただの狐ではない、幾度とない鉄火場を潜り抜けてきた、熟練の大妖狐だ。一筋縄ではいかないだろう。ましてや、さなかがヨハネスの遺産を相続しようというこのタイミングでの接触だ。
さなかもハルカも、互いの距離も測るかのように沈黙する。勿論“黒”も、ハルカの護衛も何も言うことはない。
沈黙を破ったのは、由乃だった。
「エレオノール、ね。聞いたことがあるわ。確か、フランスあたりの大財閥じゃなかったかしら」
由乃の言葉に、あら、とハルカは笑みを見せた。
「御存知でしたか? お恥ずかしいですわ」
「どの方面で有名なのかとか、詳しいところは知りませんけどね。日本語、上手なのね」
肩をすくめながら答える由乃に、ハルカは笑みを深めた。
「祖母が日本人でしたので。なかなかネイティブにはいきませんけれど」
「……それで? 財閥令嬢が何の用? あなたもヨハネスの遺産とやらが欲しいの?」
さなかの言葉に、心外である、とでも言うかのようにハルカは表情を、いささかわざとらしくも見えるほどに曇らせた。
「まさか。今更これ以上のお金を得ても仕方がありませんわ。『財閥令嬢』とは、財閥の長の子女のことを指すのでしたか。であれば、少し訂正させていただきますと、わたくしがエレオノールの現当主です。資産は自分でいくらでも得られますから、ヨハネス氏の遺産など、不要です」
「それじゃあ、何の用? 取引って言ったわね」
「やや語弊がありますわ。取引だなんて、お堅いものではありません。わたくしがあなたに申し出たいのは、バックアップ……スポンサー……サポーター……ええと、日本語では何て言うのでしょう」
「そうね……後見人、かしら」
「ああ、多分それですわ。わたくしは、あなたの後見人を申し出ますの」
口調も軽やかに、ハルカは言う。対するさなかは、懐疑の色を隠しもしない。
「後見人? 具体的には、あなたはあたしに何をしてくれるの?」
「ちょうど、あなた方はお困りの御様子。ですので、わたくしがそのお困りをいくつかお手伝いして差し上げます。――例えばそう、お母様の安全の保障など」
ひゅ、と短く息を吸って、さなかは唇を引き結んだ。その反応に、ハルカは警戒を解きほぐすように柔らかな物腰で続ける。
「僭越ながら、少々お話を聞いてしまいましたわ。確かに、現状、資産はあっても組織力に欠けるあなた方では、病を患っているお母様を守りながら逃亡し続けることは難しい。そんな現状についての冷静な分析と、お母様の御覚悟。わたくし、心の底から感激しましたの。これは是非とも、わたくしにもお力添えさせていただきたいと思いまして」
両の手指を絡み合わせて、ハルカは感じ入ったように言う。だが、さなかはその様に、ますます懐疑の色を強めるばかりだ。
「悪いけど、白々しいわね。あんたがここに、今この時点このタイミングで来ているのは、最初から全部調べ上げた上で何かしらの思惑があってのことでしょう。そこであたしたちの話を立ち聞きするまでもなく」
鋭く切りつけるようなさなかの言葉にも、ハルカは全く怯まない。薄い笑みを浮かべながら、さなかの視線を真っ向から見返している。両者の間で、不可視の圧が衝突する。
「でも――まあ、いいわ」
その緊張を断ち切ったのは、さなかだった。
「ひとまず、そんなことはいい。協力してくれるって言うんでしょう? それなら、渡りに船よね。願ってもない話だわ。どうぞよろしく、お母さんを守って頂戴」
「……さなか嬢」
見かねたように、“黒”が口を挟む。さなかの判断などどうでもいいのは確かだが、それでも言わずにはいられなかった。
「そんな簡単に信用するんですか?」
これは、別に現在だけの確認ではない。今後のことも踏まえた確認だ。もし、さなかが何の考えもなしに、寄って来た相手を軽々に信用して身の振りを任せるようであれば、“黒”は多少強引にでもそれを阻止していかねばならない。
さなかの身を案じてのことではない。仕事のためだ。自ら敵前へ身を晒すような護衛対象では、無駄に仕事が増えることになる。それは、“黒”といえども御免だった。
そんな“黒”の内心を知ってか知らずか、まさか、とさなかは軽く鼻を鳴らした。
「別に、信用するわけじゃない。信頼もしない。知ってることが少な過ぎるからね。でも、こっちにはどうやらあのハルカって人よりも財力があって、“黒”もいる。何かあれば、あたしはあの人をあらゆる手段を使って始末できる。だから、目先の小さな打算はとりあえず無視してもいい。今は時間がないから、その場凌ぎでもいいから何か“繋ぎ”は必要だ。そうでしょ?」
傲然と顎を上げ、ハルカに聞こえることも厭わず、さなかは堂々と言ってのけた。
……言ってくれる。
その発言に眉根を寄せたのはハルカの護衛だけで、当のハルカは苦笑し、“黒”はため息をついた。
この混乱の中で、この短時間の間に、さなかは、自分の手の内にあるものの使い方を、やや乱雑なきらいはあれども、理解しつつある。
その規模、その暴力。
……成程。
ハルカは内心に、ひとつさなかへの評価を改めた。
別に甘く見ていたわけではないが、侮るのは、危険だ。
……ミ イ ラ 取 り が ミ イ ラ、でしたか。
下手に欲を出して操ろうとすれば、気付かぬうちにこちらが呑まれかねない。
「――でも、まあ、これは訊いておかないといけないよね」
冷徹な目。激情も、混乱も、何の思惑も透かし見れないフラットな視線を、まっすぐにハルカへ向けたまま、さなかは問う。
「あんたがあたしたちに協力してくれるのはわかった。でも、それであんたには何のメリットがある? 現状、あたしには敵しかいない。この状況であんたが協力してくれても、いくら世界トップクラスの財閥当主だって、大勢が覆るほどの力があるとは、悪いけどさすがに思えない。ともすれば、あたしと共倒れになりかねないんじゃない? それなのに、どうしてあたしに協力するの? 何のメリットがあるのよ」
ああ、とハルカは頷いた。そんなことならば、何のことはない、と。
「簡単なことです。――直感ですわ」
は? と疑念を顔に表すさなかに、無理もありませんわ、とハルカは肩をすくめる。
「非科学的な話ですけれど、エレオノールの一族には代々先見の明がありますの。時勢や大勢、世の中の趨勢を見極める目があったからこそ、エレオノール家はただの一度の没落も減ることなく、現在まで数世紀を繋いでいるのですわ」
「へえ、数世紀?」
「古くは地方貴族の血族ですのよ」
おほほ、と笑う。その楚々とした、いちいち気品の漂う振る舞いは、成程貴族と言われても違和感はないが。
「わたくしの曽祖父も、祖母も、父も、伯父も、皆その“目”で時流を見極め、従わず逆らわず、巧妙に乗り、わたくしにまで血脈を繋いできてくださいました。そして今、わたくしの“目”もまた、わたくしに告げるのです。――そのときが来た、と」
すっと目を細める。それは、ハルカ・エレオノールという人物の清楚な立ち居振る舞いの、その全てを裏切るような――狡知に満ちた、目だった。
ふふ、と唇を弓にして、ハルカは笑む。
「今、世界は洲崎・さなかさん。あなたを中心に、あなたへ向けて動いている。策謀を巡らせる者、横取りを目論む者、懐柔を企む者――様々な者が己のためにあなたを利用しようとしている。勿論、わたくしも例外ではありませんわ。現状、世界は大きく言えば二分されている――すなわち、あなたを追う側と、並ぶ側」
ふわっと、両手を広げる。あたかもそのそれぞれに、二分された世界を載せているかのように。
「どちらの方が、自らのためになるか? 誰もが考えるでしょう。あなたはまだ幼い。それも日本という、かつての大戦で牙を抜かれた、財界にとって取るに足りない弱小国家の、一般家庭の少女です。奪うも取り入るも容易いに違いない、と」
もっとも、ハルカ自身はその認識を大きく改めている。このさなかという少女は、決してそんな甘い認識のもとで相対してもいい相手ではない。
「容易いと思えばこそ、世界の圧倒的大多数……全てと言っても過言ではない組織が、資産家が、あなたからヨハネス氏の遺産を奪おうと考えるでしょう。懐柔策を取っている者も、結局はあなたの財力を手中に収めようとしているのですから、同じことです。つまり、本当の意味であなたの味方たろうという者は、まずいない。――確かに、リスクも大きいでしょう。先程あなたが言った通り、真にあなたの味方をするということは世界を敵に回すことと同義です。メリットよりもリスクが大きい。それくらいなら、力ずくで我が物とした方が安全で、容易でしょう。ですが」
さなかが何を言うのも待たず、ハルカは己の言葉を否定する。
「わたくしの直感が、エレオノールを守ってきた直感が、わたくしに告げるのです。洲崎・さなかに与せよ、と。一見しただけでは茨の道でしかないそこにこそ、我々の活路がある。逆に、あなたに敵対すれば最後……我々は、尽く滅ぼされるだろう、と」
大仰にも聞こえるハルカの言葉に、さなかは片眉を上げる。
随分言ってくれるけど、と。
「何だか無闇に高く買ってくれてるけど、あたしが世間知らずの小娘だってことは紛れもない事実だよ。今日の朝まで、普通の高校生だったんだ。ヨハネスの遺産は世界をどうにかできるかもしれないけれど、あたしにはそんなこと、とてもできないよ」
「少なくとも今は、ですわ。……荒唐無稽なのは百も承知。しかし、エレオノールはただ己の直感にのみ従うことで、無謀と見える選択を幾度となく取り、逆境を潜り抜けてきたのです。わたくしはこの直感を信じますし、例えこの選択がわたくしの身を滅ぼしたとしても、エレオノールの直感に従ったのですもの、本望ですわ」
ころころと、鈴を転がすような声音で楽しげに笑う。
打算的、というのはあまりにも、ハルカ自身の言う通り荒唐無稽過ぎる。言葉巧みにさなかを懐柔し、どこかの時点で手のひらを返さないとは決して言えない。さなかは先程ああ言ったが、実際そんなことができるとは思えない。相手はさなかを遥かに凌ぐ女傑だ。その気になれば、さなかが抵抗する隙も与えないだろう。
では、何をもってどう判断するか。
ただ、さなかはハルカを見据える。
まっすぐ――まっすぐに、だ。
軽く見開いた瞳は、微動だにしない。それどころか、瞬きすらしない。
フラットな、まるで人形のような無表情で、ハルカを見る。
顔を合わせた当初にあった、とても年相応とは言い難い圧は、一切ない。
無。
……何を、考えているのかしら。
歴戦のハルカをして、たじろがずにはいられなかった。
策謀や計算。腹の内の動きは、大なり小なり瞳に現れるものだ。交渉とは腹の探り合いであり、互いの一挙手一投足を微に入り細に入り観察することである。そして、目は口ほどにものを言うものだ。そのはずなのだが。
……一切、読めないわね。
思案、動揺、困惑、迷い、決断、何ひとつ、読み取れない。敢えてハッタリをかけることも交渉術として重要ではあるのだが、さなかにはそんな気配は全くない。
底の見えない凪いだ湖面に向き合っているかのような、底冷えする不安感が、背を伝う。
それでも、視線は逸らさない。表情も、ゆったりとした笑みを崩さない。
さなかが何を評価し、どこから判断するかはわからないが、
……こちらも、嘘は言っていませんわ。
全てが純然たる事実とは言わない。だが、嘘は言っていないのだ。ここで臆するようなことがあれば、さなかはハルカに見切りをつけるだろう。
数分か、あるいは十数分も経っただろうか。ようやく、さなかが動いた。
頷いた。
「――うん、わかった。あたしの答えは変わらない。お母さんをちゃんと守ってよね」
緊張の時間に反して、あまりにもあっさりとした応答。その落差に、思わずハルカは深く息をついていた。
……こんな緊張感、いつ以来かしらね。
「それでは、お母様はこちらで保護させていただきますわ。我が国に、エレオノール家専属掛かり付けの医院がありますの。そちらへ移動していただきますわ。エレオノール家直轄ですから安全、技術水準、食事の質、ベッドの柔らかさ、窓から見える景色まで保証します。見える範囲には針葉樹しか植えてありませんの。道中においても抜かりなく、快適な旅をお約束いたしますわ」
「それともうひとつ。あたしの友達に、五泉・優李ってのがいるの。当然調べはついているんでしょうけれど、その子のことも守ってほしい。ただしこっちはお母さんとは違って、優李には気づかれないように、優李の生活を脅かさないように。できるでしょ?」
「承知しましたわ。優李さんの今後も変わらない生活を保障します」
さなかは軽く頷いた。そして、間髪おかず“黒”を見上げる。
「それで? あたしはこの後何をすればいいの」
話が決まれば切り替えが早い。さなかの問いに、淡々と“黒”は応じる。
「遺産相続の契約書にサインを。それから、先程まで言いそびれていたのですが、相続にかかる書類を役所に届け出なければなりません。ヨハネス氏は国際遺産管理機構に移管していましたから、そこに。本部はアメリカのニューヨーク市になります」
「国際遺産管理機構? そんな機関があるのか……」
「それと、誰でも構わないのですが、立会人の署名が必要になりますね」
立会人? 制度に疎いさなかは首を傾げるが、これにもすぐにハルカが応じた。
「それであれば、わたくしが差し上げますわ。可能であれば直接立ち会いますが、場合によってはそうもいきませんでしょうから――正式な書類ではありませんが、わたくしの名を出せば多少の無理は効くでしょう」
言下に、背後の女性がどこからともなく取り出した一式の書類に、その場で立ったまま器用に署名していく。書き上げられたそれを、護衛の女性から受け取って見ると、英文の文書に流麗な筆記体で署名してあった。
さなかは英語が得意な方だ。だがざっと流し見たところ、専門用語が多く、どうやら専用の書類であるということくらいしかわからなかった。
しかし、それはつまり、
「……どこまで用意してきてるの? あんた」
今度はあからさまな猜疑の視線をハルカに向ける。対するハルカは、いやですわオホホなどとわざとらしく誤魔化す。まあいいわ、とさなかは浅く首を振った。
「これで、この状況は回避できる。そうとなれば、早速行きましょう」
さなかの言葉に、まずはハルカが頷いた。護衛の女性に目配せしつつ、
「わたくしはここの事後処理を請け負いますわ。いい加減、公安も到着する頃合いでしょう。彼らへの誤魔化しと、マスコミの握り潰し、関係機関への根回しとこの病院の補償。一通りの目途が立ち次第、合流します。勿論、お母様は最優先でご案内しますわ」
護衛の女性が押してきた車椅子を一瞥するも、由乃はさなかを無言で見上げる。
そのまなざしに、険はない。
「……お母さん」
そっとその手を取って、さなかは言う。
「まだ諦めることなんてない。あたしはあたしらしく、できることをやり尽してくる。だから」
ええ、と由乃は頷いた。
「思い切り、やって来なさい。さなか――有り難う」
「あたしの方こそ、有り難う、お母さん。――またね」
さなかの頷きを見届けて、由乃はハルカの護衛が押してきた車椅子に移った。自力で歩けないわけではないが、体力はかなり衰えている。だから正直に、車椅子は有り難い。
「行こう、クロ。とにかくまずはやるべきことをやって、考えるのはそれからだ」
「言われずとも、そうさせますよ。で、移動手段ですが」
「よろしければ、わたくしのプライベートジェットを一機、お貸ししましょうか」
ハルカが申し出る。それこそ願ってもないことで、是非もなく借り受けてもよさそうなものだが、しかしさなかは首を振った。
「有り難う。でもいいわ。普通の飛行機で行こう。クロ、チケットはすぐ取れるよね?」
「……? ええ、それは簡単ですが」
さなかの判断は、“黒”にとっても俄かには理解し難いようだ。それでも特に反発することなく、“黒”は頷く。
「ハルカさんは、情報規制をお願い。何だったら、入国管理局とかに根回しして……あ、パスポートとかはどうするの?」
「必要なものも追って用意しますわ」
テキパキと組み立てながら、さなかは“黒”を伴って部屋を出ていく。そして、戸口のところで振り返った。
「それじゃあ、お母さん――行ってきます」
はにかむように言うさなかに、由乃も笑みで頷いた。
こうして見送るのは、いつ以来だろうと思いながら。
「ええ。――行ってらっしゃい」




