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11 あなただけで逃げなさい

「え……な、なに? 何て?」

 母の言葉に、聞き間違えたかとさなかは問い返す。

「一緒に逃げるんでしょ、お母さん? 早く逃げよう?」

「駄目よ、さなか。――お母さんは、置いていきなさい」

 は、とさなかは目を(みは)る。何を、言っているのか。

「私のことはいいの。あなただけで逃げなさい。私のことは構わないでいいわ」

「じょ――冗談じゃない!」

 さなかは吠える。ふざけないで、と母に迫る。

「何で!? お母さんも狙われるんだよ! お母さんが人質に取られて酷いことされるなんて、あたしは嫌だよ!」

「心配しないでも大丈夫よ。お母さん、人質に取られる前にするべきことをするから」

「するべきことって……」

 さなかは由乃の双眸を覗く。そこ奥に見える光は、

「冗談じゃないよ! 自殺とか、絶対させない!」

「あらあら。さなか、こういうときは自殺とは言わないのよ。もうちょっと格好良く、自決、って言いなさい。自分で自分を決めるのよ」

 冗談めかして言うが、冗談ではない。なぜなら、

「お母さんはあたしの、たったひとりの家族なんだ! こんなところに置いていくなんて有り得ないし、ましてや見殺しにするなんて冗談じゃないよ!」

「そうは言ってもねえ……あ、じゃあじゃあ、こうしましょう。さなか、覚えてる? 風の谷のナ○シカ。アニメ版冒頭でジル族長がトルメ○ア兵に討たれちゃったでしょう。あんな感じならいいんじゃない? 族長としての誇りをもって侵略者と対峙して」

「いいわけないでしょ! アニメじゃないんだよ! というかお母さんは族長じゃない! お母さんはあたしのお母さんだ。体裁なんて関係ないよ、何があろうとも、お母さんを死なせるだなんて、そんなのほんとに冗談じゃない!」

「ええ、本当に冗談ではないのよ、さなか」

 言い含める由乃の目を見て、さなかは思わずぐっと勢いを呑み込んだ。

 由乃の双眸。その奥には、恐れも、惧れも、焦りも、怒りもあった。けれどそれ以上に、凪いでいた。

「正直なことを言えば、ね。私だって、死にたいわけじゃない。むしろ死にたくない。何としても生き残りたい。生き延びて、さなかにしてあげたいことがまだまだいっぱいある。見たいさなかの将来の姿が山ほどある。高校の卒業式が見たい。大学に進んだあなたが見たい。あなたが彼氏を連れてくるのが見たい。その彼氏に『どこの馬の骨とも知らん奴にうちの娘はやらんッ!』って怒鳴ってちゃぶ台をひっくり返したい」

「ちゃぶ台を」

「大人になったあなたが見たい。花嫁になったあなたが見たい。あなたの子の顔を見て、この腕に抱きたい――けれどそれは、もう届かなくなった」

「そんな、まだ!」

「聞きなさい」

 身を乗り出すさなかの両肩を強くつかんで、いい? と由乃は言う。

「自分の現状を顧みなさい、さなか。自分が今一体どういう状況にあって、自分が今何をして、何を持ち、何を捨てるべきなのか考えなさい。考えられるように、私はあなたに教えて育てたつもりよ。あなたは今、どういうわけかはともかく、莫大な資産と利権を手に入れた。世界規模の資産ね。これは勿論、世界中から狙われる原因になる。事実、今まさにあなたはこうして襲撃を受けている。幸いにしてあなたにも味方はいるけれど、でも敵は全て組織。きっと、大なり小なりいろいろな形で襲われていくことでしょう。あなたはその全てから逃げ続け、あるいは戦い続けなければならない。そうし続けるためには、フットワークは軽くなくてはならないわ。さっきの彼ならきっと、あなたひとりなら十二分じゅうにぶんに守ってくれる。けれど、それ以上は、きっと無理。これは能力の問題じゃない、物理的な人手の問題よ。守る対象は増えるほど人手は必要になる。普通なら、要人警護はひとりに対して五人は必要になるところなのよ。それが、守る対象があなただけではなくなってしまえば、彼も、あなたも身動きできなくなってしまう。ましてや私は、この身体よ。病院がなければ、満足に生きていくこともできない。ましてや、あなたと一緒にハードな逃亡生活を送ることは――私には、できない」

 できない、と由乃は目を逸らさず、言う。

「体力がもたない。体調がもたない。私はあなたにとって、邪魔な枷にしか成り得ない――残念ながら、ね。連れて歩けば荷物、かといって置いていけば人質にされる。あなたにとって私は、どこまでも重い荷物にしかなれないのよ。悔しいけれど、仕方がない。どうしようもない」

 ならば、と由乃は言う。

「決めるしかない。自分で自分を、私は。それが、良くも悪くも、今こうして陥ってしまった状況の中であなたにできる最善の対応よ」

「でも……!」

「感情的になってはダメよ」

 反駁しようとしたさかなの言葉を封じるように、鋭い口調で由乃は重ねる。

「感情的になるべき時と、理性的に考えるべき時とを見極めなさい。今は思いのままに叫ぶ時ではない、冷静な頭で考えるべき時よ。リスクとリターン、メリットとデメリット。私を強引に連れ出すことによるリスクは、リターンは、メリットは、デメリットは。ちょっと考えればわかるでしょう。そして考えれば考えるほど、私を連れて逃げるわけにはいかなくなる。それでも、って無理に連れ出して道理が引っ込むのは、ヒーロー小説の主人公だけよ」

「……でもっ……!」

 食いしばった歯がギリギリと軋む。噛み締めた唇から血が滲む。さなかとて、由乃の言うことは理解している。さなかの理性こそが誰よりもそうするべきだという判断を下している。けれど、

「冗談じゃないよ……冗談じゃない。冗談じゃない冗談じゃない冗談じゃない! もうあたしにはお母さんしかいないんだ! お母さんまでいなくなっちゃったら、あたしは――!」

 ふわっと、母の香りが鼻孔をくすぐった。病院と、シャンプーの香り。

 強く、しかし優しく、由乃はさなかを抱きしめていた。

「ありがとう、さなか」

 耳元で、囁くように由乃は言う。

「私はあなたに、ほとんど何もしてあげられなかったけれど、そうまで言ってくれるあなたが、とても尊くて……愛おしいわ。あなたのためなら、私は何度だって死んでいい」

「そんなこと……」

「冗談じゃない、ね」

 くすり、と小さく笑って、由乃は顔を離した。至近からさなかを覗き込み、笑む。

「話したことがあったかしら。冗談じゃない! って、それ、もともとはお父さんの口癖だったのよ」

「え、そうなの?」

 初耳だ、とさなかは目を丸くし、由乃は頷く。

「若い頃からのお父さんの口癖で、いつの間にか私に移って、それが気が付いたらあなたの口癖にもなっていたわ。あなたはお父さんのことをほとんど覚えていないと思うけれど、あなたが初めてその口癖をまねたときは驚いたし、嬉しいような、寂しいような、感慨深い気持ちになったわ――」

 伏し目がちになってさなかの頭を、頬を、愛おしむように撫でる。その表情に、迷いも、悔いも、そんなものは微塵もない。

 あるのはただ、慈しみという、ただそれだけだ。

 至近距離から、由乃はさなかの瞳を覗き込む。

 いいか、と。

「いい? さなか。親になるということは、人間をやめるということなのよ。人間をやめて、親という新たな存在となるの。自分の子が自分の足で立ち、自分の頭で考え、自分の価値観で判断し、自分の力で生計を立て生きていくことができるようになるまで、親は子のため、育て、教え、導き、諭し、支え、全責任を取る。それが親となるということ。新たな命を生み育むということ」

 薄く、しかし確かに、その双眸に濡れた光が垣間見え始める。

「私はあなたの親よ」

 だから、と由乃は言う。

 それを、誇りとして。

「私はあなたの親として、この命を懸けてあなたを支えていく。それが、私があなたを身に宿したときに、お父さんと誓った約束よ」

 だから。

「私を置いていきなさい。あなたは生きるの。生き延びて、何者にも左右されないあなただけの人生を全うしなさい。これが、私があなたに贈る最後の教えよ」

 さなかの唇から、砕けんばかりに食いしばった歯のなる音がもれる。拳は白く色を失うほど固く握りしめられる。

「それでも、あたしは――!」

「さなか」

 ただ震えるばかりのさなかの頭を、由乃は優しく抱きしめた。

「大丈夫。あなたは大丈夫。離れても、私がついてる。……御免ね。でも、これが私の最後の我儘だから。可愛いさなか。どうか私を――」

 聞きたくない、と拒絶するようにさなかの痩身が震えた。だが、由乃はそれでも離すことなく、残酷だと知っていても、身勝手だとわかっていても、告げる。

「――私を、あなたの母親でいさせて」

 そっと、腕を解く。さなかの瞳は赤く濡れていた。

 だが、まだ強い光を失っていない。

「……お母さんの思いは、わかった」

 一音一音を噛むようにして、さなかは言う。

「お母さんの覚悟はわかった。お母さんの誇りはわかった。お母さんの願いも、わかった――けれどあたしは、それでも、それでも! 絶対に諦めない!」

 ぐっと強く、強く由乃の手を握り締めて、さなかは叫ぶように言う。

「今この瞬間は、まだ時間がある! クロが何とかしてくれているこの時間だけは、まだあたしたちの時間だ。いつか諦めなくちゃいけないのだとしても、それはまだ、今じゃない。今はまだ考える時間がある。これからをどうにかしていこうって考えられるだけの時間が、ある!」

 由乃の手を自らの胸に抱えて、さなかは血の滲むような答えを叫ぶ。

「できることをできるだけする。まだあたしは考え抜いていない。考え尽していない。諦めるのは、あたしにできることを全てやり尽して、それでもどうしようもなかったそのときだ。――これだって、あたしが教えてもらったことだよ、お母さん」

 言葉なくまっすぐにさなかを見返す双眸が、震える。

 その瞳に去来するのは、果たしていかなる感情か。

 互いに、視線をまっすぐに当てたまま逸らさない。

 平行線だ。

 ――その均衡を崩したのは、妙に軽快な拍手だった。

 無論、その乾いた音を連続して立てているのは、さなかでも、由乃でもない。完全に虚を突かれたふたりは、揃って同時に、病室の戸へ視線を走らせる。

「いやはや、立ち聞きは趣味ではありませんけれど、聞いてしまいました。悪気はないのでご容赦ください」

 ぱちぱちと、いつまでも、まるで拍子を取っているかのような一定の間隔で手を打ち鳴らし続けながら、そこに立つ女性は柔和に笑んだ。

「……誰」

 さなかが低く、強い警戒を込めた声で誰何する。由乃は無言で見るだけだ。

「失礼。わたくし、名をハルカ・エレオノールと申しますの。以後、どうぞお見知りおきを」



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