10 乱戦
身を低くして走り出した“黒”を、目で追える者はいなかった。襲撃者の誰もに、“黒”が突如として消えたように見えただろう。
……遅い。
闇雲に放たれた銃弾など、掠りもしない。銃線の隙間を縫うように疾走すれば、襲撃者に肉薄するまで一瞬だ。
ナイフを持った右手が煌き、穿つ。
悲鳴すら許さず、先頭に立っていたひとりが崩れ落ちた。“黒”の左手にはいつの間にか、そのひとりの手から奪った銃が握られている。
「さて……続けようか」
再び、“黒”の痩身が消失する。
……消防が到着するまで、恐らく十分程度。
この国の公安機関は優秀だ。恐らく既に通報されているだろう。それまでにさっさと片付けて、次にどうするかを考えなければならない。
襲撃者が三階へ向かうための通路は、“黒”が立ちはだかっているここのみだ。非常通路及び非常階段は、一番最初の爆破で破壊している。三階へ向かうには、この階段を通過するほかない。つまり、“黒”を打倒しなければならない。
「……ちっ」
四人が血煙を上げて崩れ落ちた段になって、ようやく襲撃者たちが反応した。一斉に退き、柱や物陰に身を隠し、軽機関銃による銃撃を開始する。さすがの“黒”も、一旦身を隠すしかない。
このままでは持久戦だ。ただでさえ制限時間が非常に短いこの状況下で、膠着するのは望ましくない。しかしこう距離を取られては“黒”のナイフは届かないし、銃で応戦しようにも、“黒”には先程奪った拳銃が一丁しかないのだ。
「……ふう」
チュン、という鋭い音を立てて壁を、床を削る撃音を背にひとつ吐息して、“黒”は拳銃を投げ捨てた。足元にではない。今まさに銃弾をばら撒いている、襲撃者たちの頭上へ。そして同時に、身を低くして走り出す。
……距離があるならば、詰めればいいだけの話だ。
襲撃者たちの視線は、一瞬だけ宙を高く舞う拳銃へと集まる。視線が移動すれば、当然銃線も同じように動く。
それが、隙だ。
それも、致命的な。
「――――」
たった一瞬があればいい。
敵の懐に飛び込むのに、一呼吸ほどの間も必要はない。
「…………!」
気付いても、遅い。右手のナイフが閃く。
喉を割かれた男が崩れ落ちるより早く、“黒”はその傍らにいたもうひとりの正面にいる。慌てた動きで銃口がこちらへ向けられようとするが、あろうことか“黒”はその銃身を手で軽く払った。それだけで男は抵抗する武器を失い、一閃のもとに倒れ伏す。
「畜生っ――」
誰かが吐き捨てるが、その頃には既に“黒”の姿はない。襲撃者の誰かが盾となるような位置取りを走り、自由に乱射することを許さない。銃口を向けた先にある味方の背を見て怯んでいる隙に、その味方は死に、“黒”の姿は消えている。
誰ひとりとして、“黒”を正視することができない。常に残像のような影を追うばかりで、敵の姿を見定めることすらできない。
「化け物――!」
悲鳴のような声をもらした男の喉元に、背後から伸びてきた黒塗りの刃がひたりと当てられる。ひ、と呻く男に、“黒”は無音のまま刃を走らせた。
ごぼ、と水のような音を立てる男を捨て置きながら、“黒”は疾走する。
……これで、十人。
最終的に計測したのは二十三人。恐らく単一の組織ではない。少なくともふたつ、あるいは三つ程度のグループが膠着しているだろう。
膠着していた。
開けた空間に出た。D棟のエントランスホールだ。一階から二階までが吹き抜けになっており、下階までが見通せる。そこも既に惨状だった。至るところに銃痕が残り、血飛沫が飛び散り、ガラスは割れ、死体が転がっている。
“黒”が戦端を開いたことで牽制がきかなくなり、居合わせたグループ同士で抗争が起きたのだろう。ざっと視線を走らせるが、襲撃者以外の死体は転がっていない。一般人は首尾よく全員逃げ出したようだ。
歩調を緩めた“黒”は、歩みは止めずに手すり近くまで進む。D棟奥での状況が把握できないため、どのグループも様子を窺って身を隠しているようだ。
「六……七……八……」
小さく数字を刻みながら、“黒”は転がっている死体の傍ら、転がっていた拳銃を無造作に拾い上げた。残弾を確認し、左手に持つ。
「……十二、十三。全員ここにいるな」
よし、と頷くと、右手にどこからともなく棒状の物を取り出した。数はふたつ。それらを何の前振りもなく、エントランス二階左右の回廊に抛る。その様子を窺う面々は、流れるように自然な動作で行われる一連の出来事に、虚を突かれてただ目で追うことしかできない。その視線を一身に受けながら、“黒”はキュ、と音を立てて手すりに足を掛けると、
跳んだ。
さすがにこの段になってようやく、襲撃者らが我に返った。未だ宙にある漆黒の男に照準を当てる。身動きの取れない中空、いい的でしかないのだ。
通常であれば。
一斉に引き金が絞られる寸前、“黒”は懐からスイッチを取り出した。既に何度も使用しているものと、同様のものだ。
躊躇いなく、押す。
爆発した。
先程“黒”が抛った棒が二本とも同時に、だ。その威力は大きく、落下点であった二階回廊の壁を吹き飛ばし、床を崩落させた。当然、爆心地にいた数人が爆破に巻き込まれるとともに落下し、直下に隠れていた数人まで巻き込まれ潰死する。
カウントは、“黒”がここに至った時点で既に死体となっていた者も含めている。
……残り、四。
着地と同時に、発砲する。弾丸は爆破から逃れるために柱の陰から転がり出たひとりの脳天を一直線に貫けた。それを見届けることなく、真横に勢いよく跳ぶ。
「な――」
爆破の範囲外におり、辛うじて“黒”を狙える位置に潜んでいた男が、たった一跳躍で自分の頭上にまで到達した“黒”を見上げ、瞠目した。そしてそのまま、額をナイフで砕かれ潰える。右手でナイフを引き抜きながら、左腕は水平よりやや下向きに。引き金を絞れば咆声を上げて銃弾が飛び、わずかに物陰から見えていた足先を穿った。が、と悲鳴を上げながら思わず前のめりになることで露わになった脳天が、一瞬の後に真紅を撒き散らして弾けた。疾走の最中に仕留めた“黒”は、留まることなく対角線へ走る。
「ち――チクショォォォォ!」
激昂し、叫びながら最後のひとりが姿を現した。腰だめにサブマシンガンを構え、乱射する。だが“黒”には掠りもしない。左右への軽いステップだけで銃線から外れ、数秒で彼我の距離を零にする。
地を這うような姿勢で疾走した“黒”は、最後の一歩を高く、大きく開いた。振り上げられた右脚は、最後のひとりの胸を踏み台にする。
「ひ――」
至近距離で“黒”の双眸を覗いた男の喉が鳴った。しかしそれ以上何の音を発することも許さず、“黒”の右手が翻る。
ぐしゃ、と力なく男が崩れ落ちた。それを見下ろしながら鋭く一振りしてナイフの血糊を払い、一息つく。
……これで全員――
思いかけた“黒”の左手が跳ね上がった。半身の姿勢で銃口を、エントランスホールの入り口へぴたりと向ける。同時に全身は、一瞬で走り出す構えを取る。
だが、疾走を開始することはない。
“黒”が銃口を向ける先、そこに現れた人影から、殺気を全く感じないからだ。と、“黒”の銃口に一瞬身を固めた人物のうち一方が、再び動き始めた。
ぱちぱち、と手を叩く乾いた音が、静まり返ったホールに反響する。
「――お見事ですわ」
コツ、とヒールの音を立てて戦場に踏み込んだ人物は、“黒”の眼光と銃口を前にしても怯むことなく、堂々と胸を張って“黒”に向かって言った。
「銃を下ろしていただけます? そんな怖い顔をされたままでは、こちらとしてもオッカナクてお話ができませんもの。わたくし、あなたの主に用があってこちらまで来ましたのよ」
まるで物怖じすることなく、それどころか口端に笑みを浮かべながら、その人物は“黒”へ言う。
「――よろしくて?」




