第二八幕:決意
「だから、『別れさせ屋』を雇ったんだね?」
高橋はそう言ってから、テーブルの上で指を組んだ。中村香織、いや、横田香織は青ざめた顔を伏して、はい、と蚊の鳴くような声で答えた。
「昔、お金に困って不法な金融業者に借りたことがあるんです。その返済が出来なくて、誘われた事があるので、存在は知ってましたから……でもそれが彼だったなんて……」
香織は途切れ途切れに語る。高橋は溜息を吐いた。
高橋がある決意を胸に病院を訪れたところ、病室の前で泣き崩れる香織を見付け、声を掛けた。その尋常でない雰囲気から、兎に角話を聞くべきだろうと程近いサロンに場所を移したのだった。
「それで、朱美はなんて?」
高橋の問い掛けに、ふと香織は目を上げたが、また一層に俯いて、テーブルに涙を落とした。肩が強張る。
「朱美は……」
朱美は、こう言ったらしい。
「……確かに、私は他の誰とも違うと思ってた。けど、それは誰よりも優れてると思ったんじゃない」
朱美は香織の目を真っ直ぐに見据えていたと言う。
「私は、劣等感の塊。あなたもそう。だからあなたと友達だった。でも、私には自分を小さく見るのに、特別な理由なんかない。あなたには理由がある。そういう意味では、私は本当にあなたより劣ってる」
臆さず、はっきりと言い切った。
「香織ちゃん……ううん、香織。私達はお互いを知らな過ぎたの。今までずっと私は香織に嫌な女だと思われてた。今、私は香織を嫌な女だと思った。これでおあいこ」
朱美は微笑した。
「もうお互いに知らないのはおしまい。それでまた、仲良くしよう?」
それは許しの言葉だった。途端に香織の身勝手な怒りは萎み、突き刺された様な胸の痛みが起きた。
香織はもう引き返す事が出来なかった。
「わたしは、朱美を裏切ったんです。たった一人の親友なのに、今でもまだ友達だと思ってくれてるのに……」
香織は病室を飛び出し、その場に泣き崩れたのだった。
「……ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……」
声を震わせながら、謝罪の言葉を繰り返した。向かい合った高橋は、眉間に皺を寄せ、奥歯を噛んだ。
「……君が今更オレに謝っても、意味がないよ」
高橋は言うが、香織はまだ譫言の様に繰り返している。高橋は再び溜息を吐いた。
「オレはね、君の話を聞いた今、君に怒ってなんかないんだよ」
小柄な身体を更に縮めて、その肩を小刻みに震わせている女を、少しも憎らしいと思えなかった。
「朱美が君を許したなら、それで良いんだ。全部終わりだよ。ね」
そういう言葉を投げ掛けられるのは、高橋がある決意を胸にして、この病院に来たからだ。これほど自分は優しい男だったのかと、高橋自身驚いている。
「話を聞けて良かったよ。おかげで、一層決心が付いた」
香織は涙で濡れた顔を上げ、疑問の顔付きをした。
「実はね……」
病室では、朱美も泣いていた。彼女にとって辛い出来事の立て続けだ。しかし、それにももう終止符が打てるのだと、高橋は確信していた。
「やあ」
高橋は笑いながら朱美に声を掛けた。
「……恭ちゃん」
朱美は赤い目で高橋を見上げる。
「彼女から聞いたよ、全部」
「……そう、なんだ」
顔中に皺を寄せ、朱美は泣いた。
「友達、なくしちゃった……」
しゃくり上げる合間から言う朱美の肩を、高橋は優しくさすった。
「大丈夫だよ。きっとやり直せるさ」
「解んないよ……!」
朱美は両手で顔を覆う。やはり、朱美の心は深く傷付いているらしい。そしてその一因は、高橋が作ったのだ。
「……疑ったりしてごめん。あまりに突然だったから、驚いただけなんだ」
そんな言い訳じみた言葉では、朱美の心を癒す事は出来ない。それくらいは高橋も承知している。
「なあ、朱美」
決意を打ち明けようとすると、心臓が早鐘の如く脈打ち始めた。こんな感覚はいつぶりだろうと高橋は思い返す。朱美と初めて身体を重ねた時、初めてキスをした時、その手に触れたとき、言葉を交わした時、想いを伝えた時――忘れかけていた朱美への想いが蘇り、高橋の胸を満たしていった。
「……朱美、結婚してくれ」
胸が張り裂ける様な気持ちというのはこういうものなのかと、場違いにも高橋は感動していた。
朱美は顔を上げ、え、と聞き返した。
「オレと結婚しよう。それで、オレの子供を生んでくれ。一緒になろう」
朱美は口を動かしたが、声が出ていなかった。高橋はポケットから四つ折にした書類を取り出し、広げて見せた。
「婚姻届け……もうサインはしたんだ。あとは、朱美が決めてくれ」
突き付ける様に手渡す。受け取った朱美は、呆然として紙面に目を落とした。
暫く眺めた後、朱美はゆっくりと、首を横に振った。
「朱美……」
「ごめん、恭ちゃん」
視線を高橋に移す。
「今すぐは駄目。手が震えちゃってペンが持てないよ……嬉しくて」
そう言って、悪戯っぽく笑う。拭った涙は温かいものに変わっていた。
堪らず、高橋は朱美を抱き締めた。
「好きだ! 愛してる!!」
この幸せがいつまで続くかは解らない。しかしこれから先、今までとは違った二人の在り方が出来ると、高橋は信じてやまなかった。




