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堕ちる  作者: 熊と塩
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第二六幕:決別

「……佐上君?」

 朱美は佐上の登場に、酷く驚いたようだ。佐上はリオの腕を握り締め、

「何をやってるんだよ、お前」

 低い調子で言った。

 ハッと佐上の目を見たリオは、途端に瞳を湿らせ、大粒の涙を零した。

「お前が彼女の何を責められるってんだ」

 病室の誰かがナースコールをしたのか、騒ぎに気付いたのか、看護師が駆け付けて来た。佐上は何でもないという旨を告げ、朱美はそれに合わせるように、軽く右手を上げて看護師に無事を知らせた。三人の顔色を見比べた看護師は、訝しげな顔をしながらも立ち去っていった。

「お前も出ていろ。帰りは乗せてやるから」

 佐上に言い付けられたリオは、瞼の赤らんだ目で朱美を一睨みし、鞄を引きずるようによろよろと出て行った。斎藤から知らせを受けて駆け付けなければ、今頃は何を仕出かしていたか知れない。

 しかし、斎藤の考えていることは解らない。佐上の動向を監視しているのみならば納得のいくところだが、佐上に指示を出すその意図は全く不明だ。

「怪我はしなかったか?」

「あ……うん」

 朱美は上目使いに佐上を見ながら頷いた。佐上は僅かに頬を弛める。

「良かった」

「佐上君、あの子は……?」

「訳あって世話をしているんだ。保護者代わりだよ」

 朱美に対して嘘を吐くつもりは、もう一切無かった。しかし、

「あいつが口走った事は気にしなくて良い。近頃少し……情緒不安定なんだ」

 朱美の為になるのなら、別だった。

「君がこんな風になってしまったのは、きっと俺の所為だ。君は何も気にしなくて良い」

 自分自身、どうかしていると佐上は思った。つい先日までは朱美との出会いを呪いこそすれ、朱美に対する謝罪の気持ちなど、脳を掠めることさえ無かった。ところが今となっては、寧ろ傷付けてはならない、守らなくてはならない存在になっている。

 心境が変化するきっかけは、朱美から聞かされた妊娠の告白と、そして香織との再会だった。香織は過去の暗澹部そのものであり、佐上という男の醜さの証明である。香織に触れ、ほの暗い罪の記憶に触れ、己が堕ちた人間である事を思い出した。

 佐上が母親、ひいては全ての女に対して抱いていた憎悪は、歪んだ愛情だったのだろう。愛情を寄せる母親が死に、不倫の末に子を孕んだ女が死に、愛憎が混在する曖昧な心が誕生したのである。そして佐上自身が自らの堕落を認識した今、朱美は愛すべき、憧憬にある母親であり、佐上はそんな母親を忌まわしい女に変貌させる悪しき男だった。

 つまり、朱美は佐上の母親に等しい女なのである。

「誰にでも苦しい時があるのなら、誰も君を責められない」

 そう言う言葉は、朱美に向けたものか、母親に向けたものか、区別は無かった。

「身勝手かも知れないが、君には幸せになって欲しい。だから俺は……消えるよ」

 朱美の前から、この世から。

 輪廻転生の概念は、佐上の信奉するところではない。ただ、朱美を母親と同一視しているのに基づけば、朱美が孕んでいるのは新しく生を受けた佐上自身である。朱美の幸福を願うのは、亡くした母親と、自らの幸せを望むのに等しい。その障害となる堕ちた男は、佐上一郎は消え去るべきだ。そして、幸福な佐上が誕生する。これほど素敵な事はない。

「佐上君……」

 幾度めかの佐上の名を口にして、朱美は不安げな視線を佐上に投げた。

「今度こそお別れだ。お大事に……」

 佐上は踵を返し、朱美に背を向けた。それが朱美や自らの過去との決別だった。一歩足を踏み出すと、その先の床がまるでぬかるみの様に感じられた。底なしの沼だ。

「佐上君!」

 朱美が呼び止め、佐上は足を止める。

「……死なないでね」

 絡み付くその言葉に佐上は答えられず、振り解くように立ち去った。


 泣きじゃくるリオの手を引いて病院を出る。迎えたのは皮肉な程に澄み渡った夜空と、街灯を背負ったシルエットだった。

「やっぱりお前か」

 男が言う。佐上は目を細めた。

「あんた、香織の……?」

「香織から聞いたよ。お前が香織にした事を全部」

 黒く塗り潰された横田の顔色は、少しも読めなかった。

「……そうか」

 佐上は低く応え、リオの手を放した。その途端、横田は佐上に掴み掛かり、怒りの形相に満ちたその顔を、佐上の鼻先に突き付けた。

「お前の所為で、香織がどんな思いをしたか解るか! 考えた事はあるか!!」

 佐上は答えなかった。

 考えないはずなどない。香織に対する感情を、恋や愛と呼ぶことが許されるのなら、香織を何度も犯しながら抱いたものは、まさしくそれなのだから。

 横田は言葉もなく、胸倉を掴む手の力を増した。そこにあるのは、間違いなく殺意だった。このまま横田に殺されるのも良いかも知れない。だがそれも良い。佐上はそう考えた。

「やめろよ!」

 そこへ、リオが割って入った。佐上と横田の間に身体を捩込み、渾身の力を込めて、横田を突き飛ばした。

 押された横田は、仰向けに倒れ、コンクリート地に強か頭を打ち付け、そして動かなくなった。一瞬の出来事だ。

 リオはハッと我に返り、口元を押さえた。

「殺しちゃった……」

 暗い地面に横たわり、ぴくりとも動かなくなった横田を見遣りながら、佐上の袖を引く。

「に、逃げよう……!」

 今一度叫ぶ。その声は、この時初めて、はっきりと佐上の耳に届いたのである。

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