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堕ちる  作者: 熊と塩
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第二五幕:攻撃

 朱美は申し訳のない気持ちで一杯だった。高橋との事は勿論だが、誰かの迷惑を考えると居ても立ってもいられない心持ちだった。朱美が入院することで周囲に与える影響は決して大きくないが、ほんの一握りの人々にはいくら詫びても足りない気がしていた。そうした気の持ち様が自らを追い込んだのだという自覚はあったが、性分というのはそう変えられるものではない。兎に角、朱美はベッドの上で、一刻も早く退院出来る事を祈った。

「あ、居た居た」

 唐突に、病室に似つかわしくない、女の明るい声がした。

「マスター、朱美さん居ましたよ」

「君、大声を出すものじゃないよ」

 後から潜められた声が続く。

 カーテンをめくって現れたのは、朱美の勤める喫茶店の店主と、アルバイトの娘だった。

「いやはや、女性部屋は何とも入り難いね」

 困ったような笑みを浮かべる。それ以上に困惑したのは朱美の方だ。

「お二人とも揃って……お店はどうしたんですか?」

「閉めて来たよ」

 平然として言う。

「そもそもから、君がいなけりゃうちの店は回らないんだから」

「すみません……」

「ああ、いやいや。責めるつもりで言ったんじゃないんだ。それだけ重要なパーソンだってことさ。君を働かせてたぼくの責任もあるし」

 慌てて付け加える。それを横合いから、

「そんな事言って、マスター。あまりに暇だったからじゃないですか」

 アルバイトの娘が茶々を入れる。しかしそれが事実らしく、店主は苦笑した。

「……いや、まあ、お見舞いに行く良いチャンスだと思ったのは確かだよ」

 店主は頭に手を当てた。三人は一様に声を立てて笑った。

「朱美さん人気あるんですよ、きっと。朱美さんが入院してから超暇ですもん」

「まさか」

 朱美にそんな魅力などない。愛した男一人の気持ちも引き付ける事が出来なかったのだ。

 高橋はあれ以来姿を見せない。それは当然かも知れなかった。信じてくれと言う方が無理なのだ。しかし朱美の、高橋を想う気持ちに嘘はない。全く偽りが無いから、朱美は自らその重みに耐え切れなくなってしまった。そして高橋は離れていったのである。

 今でさえ、逃げ出してしまいたい気持ちがあった。あわよくば、佐上の元に逃げ込んでしまいたいと思う時もある。だが、そうした事で何になると言うのか。夢の中の登場人物だった佐上は、今や現実の存在だ。ロマンスはもはや、不倫という忌避すべき背徳の様相しか持たないのである。それを望んでしまう事だけでも、朱美が自責するに足る理由になった。

「まあ、そんな暗い顔しなくて良いよ。彼女の言う通り、暇だからね」

 店主は優しい調子で言う。

「……すみません」

 朱美は謝ることしか出来なかった。


 二人は程なくして帰った。あまり長居をしては余計に朱美が辛くなる一方だと、店主が気付いての事だろう。

 朱美は知っている。店主が朱美に気を遣うのは、朱美が数少ない従業員の一人だからというだけの理由ではない。それだけに、朱美は心苦しかった。

 ふと、朱美の脳裏で、ある考えが首を擡げた。それは今までに何度も浮上し、なかったかのように忘れ去って過ごしてきた考え――死である。

 心は一度ネガティブに傾き始めると、止まることを知らない。終いにはいつどういった手段で命を絶つか、その考察まで始めていた。それでも目は紙面の文章をなぞり、指は項を送って、本を読むまね事は続いた。朱美は自らのこうした心理を薄ら寒く感じた。

 そんな時、ふと足音が近付いてくるのに気付いた。知り合いの絶望的に少ない朱美である。入院を知らせた相手は香織と店の人間くらいで、それらは既に見舞いが済んでいる。しかしそう何度も訪れるとは思えず、時刻も日の入りが近い。高橋がやって来てくれるとも思えなかったから、朱美は己とは関係のないものと思い込んだ。

 ところが、勢い良く開け放たれたカーテンは、朱美のベッドを囲ったものだ。

「アンタ、大塚朱美?」

 不躾に言うのは、朱美の知らない娘だった。学校制服を着た、いかにも「今時の」といった小娘だ。朱美は戸惑いながらも、闖入者の問い掛けに頷きで答えた。

 娘は顔を歪めた。その満面に、怒りや憎しみといった感情がありありと現れる。そして大股に朱美に歩み寄ると、突然に、朱美の頬を平手打ちにした。

「アンタの所為だ!」

 怒鳴り付ける。一瞬、朱美には何が起きているのか解らず、頬を押さえてきょとんとした。

「アンタが殺すんだ!!」

 病院という場所も構わず、絶叫し、激情する。怒り狂い、朱美の身体の何処かしらに、幾度となく鞄を振り下ろす。朱美は訳も解らず、狼狽えて抵抗すら出来ず、為すがままにされていた。

 唐突に、女の攻撃が止んだ。飛び込んで来たもう一人の人物によって、腕を掴み挙げられたのである。

 その人物は佐上だった。

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