表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
堕ちる  作者: 熊と塩
22/32

第二二幕:罪

 まさかこんな所で香織に出会うとは、佐上は予想だにしていなかった。いや、予想出来る訳がなかった。香織は数年前に行方をくらました女なのだ。

 驚愕する佐上に対して、香織はさして驚きもしなかった。

「来たんだ……御主人様」

 佐上は険しい顔付きをした。香織は気の抜けたように、ふ、と笑った。

「やっぱり、君は……」

 香織の隣に立った男、横田は佐上と香織の顔を交互に見遣った。

「ちょっと、二人だけで話をさせて」

「ま、待ってくれよ。だってこいつは……!」

 香織は横田を睨むように見た。眉間に深い皺を作り、今にも泣き出しそうな表情をした横田は、暫く香織の視線に射竦められたように立ち尽くしていたが、やがて踵を返し、離れて行った。


「久しぶりね、御主人様」

「……その呼び方は、もうしなくて良い」

 程近い小児科の待合所で、同じベンチに腰掛ける。二人は人一人分を空けて座った。

「お前も彼女の見舞いか」

「ええ、友達だから……貴方と違ってね。貴方が来るのはお門違いだと思うけど?」

「俺は……」

 佐上は黙った。斎藤の指示でやって来たまでだが、それを言っても仕様がない。

「それに、もうわたしは中村香織じゃない。結婚したの。だから今は横田香織」

「そうか……」

 佐上は二の句を継ぐ事が出来なかった。

 唐突に、診察を待つ子供が咳き込んだ。顔を赤くして、幾度となく苦しげな咳をする。横に居た母親が、その子の背中を優しくさすった。香織は、その光景を羨ましげに、愛おしげに見詰めていた。

「……皮肉ね」

 香織は母親になれなかった女だ。そして父親になるはずだった男は、佐上。

 高校時代、佐上と香織は同級生だった。無論、群がる他の女どもと同様に、有象無象の一部に過ぎなかった。そして、佐上が香織の存在を認識するようになったのは、校内でなく自宅での事だった。

 当時、佐上は五、六家族は暮らせるだろう豪邸に、たった一人で住んでいた。父親は別荘を己の城とし、愛人を囲って、亡き妻と暮らしていた家も息子も蔑ろ。それ故、豪勢な住居は実質的に佐上一郎だけのものだった。佐上としてはその方が都合が良い。佐上が評するところの「無表情の暴君」など、居ない方が心地良かったのである。金は毎月必要分かそれ以上が送られてくるし、身の回りの世話は十数人のメード達がしてくれる。何一つ困る事などなかった。

 唯一佐上を悩ませる事を挙げるなら、年に数回、父親が邸宅を訪れる事だった。流石に全く自宅に帰らないというのは体裁が悪いのか、度々戻って来ては息子を(あげつら)い去っていく。ほとほと嫌気が差していた。

 その日もそうだった。父親の言葉による暴力に怒り心頭として、苛々とする気持ちを落ち着けるため、自室のソファにどっかりと座り込み、覚えたての煙草を吸っていた。その周りで、一人の若いメードが部屋の掃除をしている。佐上にとって彼女らメードは空気に等しい存在であり、気を払う事は無かったが、しかし突然に、彼女に目を奪われる事になる。

 何の拍子か、メードが花瓶を床に落とし、割ってしまったのだ。

「も、申し訳ございません!」

 メードは慌てて屈み込み、破片を拾い集めだした。耳に掛けた髪がはらりと落ちて、頬に垂れる。

 花瓶は父親の趣味で買われたものだ。佐上には別段叱る理由などはなかったが、メードの横顔を眺めているうちに、ある思い付きをした。

「それが片付いたらコーヒーを持ってきてくれ。アイスで」

「は、はい。すぐにお持ち致します……!」

 メードは急ぎ、小走りに出て行った。佐上の思い付きとは、つまり悪巧みである。

 暫くして、件のメードは戻ってきた。ポットと氷の入ったグラスとの載った盆を携え、怖ず怖ずと部屋に入った。

「先程は大変な失礼を……」

 配膳の後、メードは恐る恐る深々頭を垂れた。またも髪の毛が頬にかかる。

「いや、良い。それより……」

 佐上は真っ直ぐにメードを見ている。メードは顔を上げようとして、佐上の視線に気付くと、避けるようにもう一度頭を下げた。

「お前、俺と同じクラスの女だろう? 名前は確か……」

 他人の名前などいちいち憶えていなかった。メードは顔を伏せたまま、自ら名乗った。

「中村です、中村香織」

「そうか……まあ、どうでも良い」

 佐上はすっくと立ち上がり、香織に歩み寄った。そしてその二の腕を鷲掴みにし、ぐいと力任せに引き寄せる。香織は驚き、顔を上げた。途端に目が合い、香織は蛇に睨まれた蛙のように、身体を硬直させる。

 佐上は無言で香織をドア一枚隔てた寝室に引き込んでいった。

 この時まで、佐上は童貞だった。女に対する嫌悪感から、自ら避けていたのだ。しかし、この時の佐上には殺人を犯すのと同様の心理、衝動が働いていた。

 禁忌を犯してみれば、どうだろう。煙を吸うより余程心地が良い。それ以来、病み付きになってしまった。

 しかし、香織以外の女では嫌だった。何度も回数を重ねるに連れ、身体も、心も、香織から離れられなくなっていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ