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堕ちる  作者: 熊と塩
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第二一幕:懐疑

 高橋は沈痛な面持ちで、医師から朱美の診察結果を聞いていたが、徐々にその顔色は清々しいものに変わって行った。幸い大事には至らなかったらしい。

 高橋がほっと胸を撫で下ろしたところを、医師は、それと、と付け加えた。

「奥さんから聞いてます?」

 高橋は笑みの消えない顔のまま、聞き返した。

「何をですか?」

「ああ、やっぱり……いえ、奥さんの事ばかりを心配している様子でしたからね」

 医師はペンの尻で頭を掻き、高橋は妙な口振りだと首を傾げた。

「と、言いますと?」

「まあ医者として伝えなくてはいけない事なのでお伝えしますが……奥さん、妊娠してますね」

 え、と高橋は腰を浮かした。

「所見では二ヶ月くらいですか。幸いお子さんも無事です。妊娠の初期に無理をしたのも原因の一つでしょうな」

 高橋は呆然とした。

「……お、オレの子供ですか?」

「そんなことはこちらじゃ解りませんよ」

 放り投げるように言い、医師は眉を吊り上げた。

「ご本人に訊いてみたら宜しいでしょう? ただし、奥さんの症状は精神的なストレスも一因と考えられます。下手に追い打ちをかけないように。良いですか?」

 困惑しながらも、高橋は頷いた。


 高橋が朱美の病室に戻ったのは、横田夫妻が立ち去った後だった。

「恭ちゃん……」

 朱美は沈痛な面持ちをして、目を伏せた。それは高橋が暗い顔をしていた所為だろう。だから高橋は、努めて明るい口調で喋った。

「具合はどう?」

「……うん。だいぶ良くなったみたい」

 朱美はそう言うが、恐らくこうして言葉を交わすのが精一杯だろう。何せつい先ほど救急車で運ばれ、つい今しがた意識を取り戻したばかりなのである。事実、朱美は枕を立て、それを背もたれがわりに頼っていた。

「無理はしなくて良いんだ。今はゆっくり休もう。さ、横になって」

 高橋は朱美の肩に触れ、そっと促した。朱美は素直に応じ、助けられながらベッドに横たわった。掛け布団を朱美の首元まで掛けると、朱美の口から、ふう、と長い息が漏れた。

「こんなになるまで無理をして……」

「ごめんね。体調が悪いのは気付いてたけど、少しでも食費を稼ぎたくて」

 そう言って苦笑した。しかし、朱美の言葉は高橋の耳に、白々しく届いていた。

「……どうして黙ってたんだ」

 高橋はベッド脇のパイプ椅子に腰を下ろした。朱美は再び謝った。

「恭ちゃんにはあまり心配かけたくなくて。自分では大丈夫だと思ったんだけど……これじゃ本末転倒だよね」

「違う!」

 高橋は大声を上げていた。朱美が何故そこまで隠し通そうとするのか解らない。いや、それに対する解は高橋の中にあった。しかしそれを肯定する事など出来ないし、したくなかったのだ。それ故に、その理不尽に、高橋は怒っていた。

「検査で解ってるんだ。君が隠そうとしたって、無駄なんだよ」

 つい叩き付けるような口調になる。朱美は黙した。そして高橋から視線を逸らし、天井に視線を投じた。

「……そっか」

「教えてくれ、朱美。君は、浮気をしていたのか?」

 朱美は答えず、眉を悲しげに歪めただけだった。

「答えてくれ! でなきゃ、オレは……オレは……」

 高橋は頭を抱えた。

 朱美への気持ちは、生活を共にする以前から変わっていなかった。ただ、怖かったのだ。朱美の想いが離れて行くのが、恐ろしかった。だから高橋は朱美を抱いてきた。何度も何度も、身体を求めた。高橋は元来無口な男である。言葉を求められれば返す事は出来るが、その声の低さにコンプレックスを抱いている高橋は、あまり率先して会話をする男ではなかった。人と人との結び付きは、言葉に依る所が大きい。しかし高橋にはそれが出来ず、心を繋ぎ留めていられないから、身体を縛ったのである。

 その結果が浮気だとしたら、高橋にはもうどうすることも出来ない。高橋という男は崩壊してしまうだろう。

 やおら、朱美は口を開いた。

「……浮気はしてない。でも、しようとした」

 やはり、と高橋は溢れ出んとする涙を堪える事が出来なかった。そして、

「その人とは、何も無かったの。もう、終わったの……」

 朱美の目尻から流れた涙を、高橋は見ていなかった。

「だから、恭ちゃんの子供だよ」

「なら、どうして、どうして黙ってた。今まで……!」

「恭ちゃんの気持ちが解らなかったから。もし、恭ちゃんが子供なんか欲しくないって言ったら……そう思うと怖くて、言えなかった」

 漸く、高橋は朱美との間に横たわる深い溝を知った。

 高橋は、朱美の子を望んでいた。だから避妊はしなかったのである。もし高橋が快楽のみを欲していたのなら、今、これほど辛い思いはしなかっただろう。

 朱美はきっと、高橋の事を愛している。高橋も明美を愛している。互いに知っていた事だが、解釈が違った。互いが互いの愛の形を誤解していたのである。

 しかしこの時、高橋は朱美の告白に狼狽する事しか出来なかった。溝を深くした一因が、そこにあるとも知らぬまま。

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