第十九幕:再起
今現在、自分の命がまだ有ることを、佐上は不思議に思えてならなかった。髭も剃らず、一歩も外出せず、ただベッドに寝転んで煙草を燻らす日々が続いていた。そろそろ買い溜めが尽きる。
リオは呑気なもので、何も知らずに佐上を真似て煙草を吸っている。せいぜい仕事の失敗から謹慎しているのだと、その程度にしか思っていないのだろう。
この数日間、佐上は生きているのでも死んでいるのでもないような心地だった。いわゆる、生殺しの状態である。いっそ殺されてしまった方が良いのに、と佐上は思った。いや、しかし苦しいのや痛いのは勘弁願いたい。かと言って苦痛の伴わない死などあるのか。そんな事をぼんやりと考え始めた頃だった。
唐突に、佐上の携帯電話が鳴り始めた。電話をしてくる相手などはなから決まっている。いよいよ沙汰が下るかと、佐上は通話ボタンを押した。
『元気にしているか?』
開口一番がその台詞だった。悪い冗談だと、佐上は鼻で笑った。
「お蔭様で」
『それは良かった。健康な内臓の方が高く売れるからな』
「何なら煙草も止めますけどね」
ははは、と斎藤は声を上げて笑った。
『冗談だ。用件はそんな事じゃ無い』
漸く本題に移る。
『大塚朱美、昨日から入院してるぞ』
佐上は思わず聞き返した。
「入院? どうして?」
『過労とストレスが元で倒れたらしいな。重身であれだけ働けば無理も無い。……ところで、普段のお前ならこんな話に興味は持たないはずだが?』
「……何でも良いでしょう」
『初めて口説き落とせなかった女だからな。まあ、気掛かりなのは解る』
斎藤は見透かして言う。
「だから何だって言うんです。俺にはもう関係が無い」
全て終わった事だ。朱美の事情や佐上自身の過去には、もう触れたくなかった。斎藤は佐上のそんな意に反して、
『見舞いに行けよ』
と言った。
「は?」
『見舞いに行けと言ってるんだ。場所は……』
一方的に朱美の入院先を告げる。
「ちょっと待った。俺は行きませんよ」
佐上は断固拒否する積もりだったが、スピーカーの向こうで斎藤は溜息を吐いた。
『……佐上、これは命令だ。お前に拒否権なんかねぇんだよ。解るか。お前は一度失敗してんだ。生かすも殺すもこっち次第……そうだろう?』
ドスの利いた、脅すような口調だ。佐上の命は斎藤に握られている。この脅迫に逆らう手立ては残されていなかった。つまりこれは脅迫であり、強要なのだ。
「……行きますよ。いつ行けば?」
『今日だ。これからすぐにでも』
「すぐ?」
『すぐだ。でなければ間に合わない。もし間に合わかったら、その時は……』
意味深に言葉を切って、くくく、と笑う。
「……解りました。すぐに」
何に間に合えと言うのか、それは佐上には解らなかったが、聞くべき事でもないのだろう。もうどうとでもなればいいと、佐上は捨て鉢に考えていた。
それと、と思い出したように斎藤は続けた。
『餓鬼、居るだろ? 代わってくれ』
斎藤が娘であるリオと話をしようとするのは、珍しい、と言うより、初めての事だった。意外に思いつつ、佐上は電話をリオに手渡した。
「あたしに? パパが?」
リオも驚いた様子で、己の顔を指差し、電話を代わった。
「もしもし、パパ? あ、うん……うん……今から? 解った。うん……それじゃ」
たったこれだけのやり取りの後、リオは電話を切った。
「何だって?」
「今から会おうって……下で待ってるからすぐ降りて来いって……」
リオは戸惑いを隠せなかった。実の父親とは言え疎遠だ。しかもそれは斎藤から距離を置き、連絡も取れないようにしていたのだ。それを何故か今日ばかりは、斎藤の側から接触を図ってきた。何かがあるに違いない。
「一郎。あたし、嫌な予感がする……」
寒気がしたのか、リオは肩を震わせた。
「……予感で済めば良いがな」
そう言いつつ、佐上は知っていた。予感なら、佐上もとっくのとうに感じているのである。
恐らく、佐上と同様にしてリオが感じたであろう予感は、予感では終わらない。必ず現実のものになる。斎藤が何を画策しているのかは全く解らないが、何か良からぬ事を企んでいるのは絶対だ。斎藤はきっと、その計画の為に、自らの娘までをも利用しようとしているのだろう。
陰謀が渦を巻き始めているのが、佐上にも解る。渦の中心点では、何もかもを吸い込む絶望と破滅とが待ち受けている。しかし、佐上には波に抗う力が無い。ただただ渦中に漂う藻の如くに、流されて行くしかないのである。
佐上は鏡を前に、不精髭の伸びた醜い顔を脳裏に焼き付けてから、今一度、誰もが羨む佐上一郎に戻るべく、数日ぶりにその頬に剃刀の刃を立てた。
剃り終わった髭の無い顔は、まるで人形のようだと、佐上は思った。




