第十八幕:疑惑
高橋恭介は困惑していた。
「どう、って聞かれてもなあ……?」
首を傾げてしまう。
彼の職場である飲食チェーン店、その休憩室での一幕だ。
「ほら、大塚さんって本心隠すタイプじゃないですかぁ」
軽い調子で言うのは、アルバイトでウェイトレスをしている片山菜緒。大学生だ。彼女はこの職場で、高校生の頃から三年間勤めている。
高橋と朱美が知り合ったのもこの職場だった。同居を機に朱美は職を変えたが、当然、菜緒は朱美の事もよく知っていた。
まあ、と高橋は曖昧に答えた。
「何とかやってるよ」
煙草の煙を吐き出して、軽く笑って見せる。しかし菜緒は、そうですかぁ、と食い下がった。
「でも最近、大塚さんの事話さなくなりましたよねぇ」
「そう?」
確かに、朱美との生活を始めた頃の高橋は、誰かに話さなくてはいられない、居ても立ってもいられない気持ちだった。惚気と言われて呆れられても構わず、自慢げに言い触らしていた。ところが近頃は、別段話題にするような出来事が無くなって、家庭の事など忘れ去ってしまったかのようだ。
ウザいくらいだったのに、と菜緒はけらけら笑う。
「何かあったんですか? アタシで良ければ聞きますよ?」
横並びに三つある椅子のうち、敢えて高橋の横に座った菜緒が、肩を擦り寄せる様に体を傾けた。
「いや、特には何も」
高橋は、菜緒が自分に好意を寄せているのを、若い別の従業員からそっと教えられて知っていた。高橋はそれが迷惑だとは思わなかったが、頭を悩ませる種ではある。
「またまたぁ。隠したって解りますよ。結構顔に出るタイプなんですから、恭介さんは」
下の名で呼ぶのは、親族か朱美か、この娘くらいなものである。
高橋はほとほと困り果てた。気掛かりは確かにあるが、菜緒に話したい事でもない。かと言って、社員としてアルバイト従業員の監督役の立場にある高橋には、ここで妙なトラブルを起こす訳にはいかず、頑なに菜緒を拒む事も出来なかった。
結局、正直な心境の一片を菜緒に打ち明ける羽目になった。
「……実は最近、ちょっと様子がおかしくて、さ」
「へぇ、どんな風にですか?」
「何だか呆っとしててね。たまに、話し掛けてもすぐには反応がない時がある」
ふむふむ、と菜緒はわざとらしく頷いて見せて、
「夫婦生活は変わり無いんですか?」
先の質問と同じでは、と不思議そうな顔を高橋が返すと、ですから、と菜緒は付け加えた。
「エッチはしてるんですか?」
高橋は煙を思い切り吸い込んで、大いに噎せた。
「……何だよ、いきなり」
随分と大胆な事を口走る娘だと少々辟易しながらも、高橋は答えた。
「少しも変わらないよ」
高橋が求めれば、朱美は応じてくれる。以前と何ら変わりなかった。
成る程、と再び頷いた菜緒は、
「尚更怪しいですねぇ」
と、意味深長に言った。何が、と高橋は聞き返す。
「だって、大塚さんって、本音言わないじゃないですか」
それはさっきも聞いたが、高橋は今一度頷いた。
「何を悩んでいるか知らないですけど、考え事してたら出来ませんよ、フツー」
そういうものだろうか。いや、そうだとしても、それは高橋が強要しているからだ。そういう自覚は高橋にもあった。
「……まあ、たぶん、オレがいけないんだよ」
きっと朱美を悩ませているのは自分だという、漠然とした猜疑心が高橋の中には存在した。しかし菜緒は、
「どうかなぁ」
と言いながら、苦笑じみた笑みを浮かべた。
「大塚さんに問題があるんじゃないですかねぇ」
高橋は改めて菜緒の顔を見た。前のめりに顔を近付けた菜緒は、上目遣いに高橋を見上げていた。
「……どういうことかな?」
「あんまり言いたくない事なんですけど……ここだけの話ですよ?」
そう前置きしてから、高橋の耳元に唇を寄せた。
「……大塚さん、浮気してるんじゃないですか?」
聞くなり、自らの眉間が痙攣したのを高橋は感じた。
「あいつが? まさか」
即座に否定する。浮気とは突飛な発想もいいところだと、半ば呆れたように笑った。
「違うってどうして言い切れるんです?」
「そりゃ、ね……」
明確な理由など示せる訳が無い。ただ、「朱美だから」という言葉しか高橋は思い浮かべなかった。
「解りませんよ、大塚さんなら」
高橋の考えを逆手に取るような事を言う。
「自分の気持ちを言わない人だから、不満があっても言わないだけかも知れないじゃないですか。それが溜まりに溜まって……」
言葉の途中で、もう聞きたくないと高橋は立ち上がった。
「休憩おしまい。時間はとっくに過ぎてるよ」
はぁい、と答えた菜緒は、ケラケラ笑っていた。
「ただいま」
夜、帰宅した高橋を迎えに、朱美は出てこなかった。
玄関に靴はある。しかし部屋はしんと静まりかえっていた。
「……朱美?」
胸騒ぎがした。




