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堕ちる  作者: 熊と塩
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第十六幕:決別

 佐上が姿を消したのは、高校卒業を間近に控えた頃だった。誰にも行方を告げぬままの、突然の失踪に学校中が混乱した。誰もが既に進路を決定していて、進学先を佐上と同じ大学にするという熱狂的なファンも多く、中にはショックから不登校になり、折角の合格を反古にしてしまう生徒もあった。

 当時、佐上の父親、つまり佐上製薬の社長が急死した。あまりに急な死であったために、本人が後継者を決める暇も無かった。長男にして唯一の息子である一郎はまだ高校生。経営者としての能力は皆無であり、到底後継ぎとして担ぎ上げるのは不可能だった。結局、幹部の一人が繰り上がり式で社長に就任し、佐上家には遺産だけが残った。

 佐上にとっては、これが良い機会だった。会社の経営など御免だったし、父親を心底憎んでいたのだ。これまで佐上を世話して来た十数人のメード達を解雇し、自分は持てるだけの大金を手に、家を出た。

 それが数年の時を隔てて、朱美の前に現れたのである。

「店に来た佐上君は、私が知ってる佐上君だった……なんだかワクワクした」

 佐上の素顔は誰も知らない。その行方も誰も知らない。しかし、朱美だけは知っている。作り笑いの無い冷め切った佐上が、目の前に居る。

「それが昨日、あんな貴方を見て……裏切られた気分だった」

 佐上は眉間に皺を寄せた。

 それは佐上自身そうなのだ。佐上は自分という人間を裏切りながら、今の仕事を続けている。だから他人に、それも傍目に見ていただけの朱美に看破されて、酷く腹が立った。

「俺だって好きでやってるんじゃない」

「じゃあどうして、どうして私に近寄ったの? 貴方は今何をしているの?」

 朱美は佐上を問い詰めた。その目は微かに潤んでいた。

「……答えられない」

 答えるわけにはいかないのだ。そう、と朱美は目を伏せた。

 思えば、今回の仕事は初めから失敗していた。妙な我を張らずに、もう一人に任せておけば良かったのだ。そもそも、既に接点のある女を標的にするのが間違いだった。そんな初歩的なミスを何故冒してしまったのか。

 疲労によって判断能力が落ちていたのか、朱美の地味な外見から油断をしたのか、それとも、目に見えない、手に負えない強大な力が働いたのか。

 何れにせよ、もう終わりだ。

「消えるよ、また……」

 佐上は呟くように告げた。朱美は再び、そう、と言った。

「じゃあ、お別れだね」

「ああ」

 佐上は深く息を吐き、がっくりと肩を落とした。

「引き止めて悪かった」

 声の調子を上げて明るく言い放った。吹っ切ったような、また偽りの佐上に戻っていた。朱美にはそれが、虚しく思えた。

 ドアを押し開けて、脚を出す。踏み出せば、そこにあるのは元通りの日常だ。逃れたい、逃れられない現実が朱美を迎え入れるだろう。それには勇気が要った。このまま佐上と何処かへ行けたら。朱美はそんな事を考えた。そんな浮気な気持ちを振り払うように頭を振って、歩道に足を付けた。

 それでも、全てを払拭する事は出来なかった。せめて何か一つでも置き去りにして行きたい、そういう思いに掻き立てられた。

「……佐上君、私……」

 佐上は疲弊した顔を朱美の背中に向けた。

「……妊娠してるんだ」

 目を見開き、振り向きかけた朱美の横顔を凝視した。

「今なんて言った?」

「さようなら」

 朱美は降り立って、ドアを閉めた。

 佐上はしばらく朱美の去った後のシートを眺めていたが、やがて、ハンドルに倒れ掛かった。目眩がする。顔面蒼白として、生気が抜けている。

 佐上は幼い頃に母親を亡くしている。屋敷内で首を括っての自殺。一番に発見したのは佐上だった。

 苦難の人だった。傲慢で横暴な夫を持ち、長男を授かっても喜ばれるどころか疎んじられ、揚句夫の不倫に悩まされる、不遇の人生だった。それでも健気に生き、唯一の子である一郎を愛し続けていた。ところが――。

 母親は浮気をした。初めての浮気だっただろう。その生涯において最初で最後の浮気で、あろう事か、第二子を孕んでしまったのである。滅多に家に帰らず、戸籍上の妻に興味の無くなった夫の子であるはずもなく、浮気相手との間に出来た子供だという事は、誰の目から見ても明らかだった。その重責から、自らの命を絶ったのである。

「……クソッ!」

 佐上はハンドルを叩く。

 初めて自らの仕事を悔いた。

 その時、助手席のドアが開き、一人の男が乗り込んで来た。斎藤だ。

「何をやってるんだ、佐上」

 言うなり、煙草をくわえた。そしてにやりと笑うと、サングラスの上縁から目を覗かせ、佐上を睨んだ。

「内臓売るか?」


 もう本当に終わったのだと、朱美は実感していた。虚無感が朱美の中に満ちていた。不思議と、涙の出る気配は無い。

 兎に角家に帰ろう。そう足速に歩いている時だ。またも朱美の前に立ち塞がる男があった。

「あの……大塚朱美さん?」

 朱美が警戒しながらも頷くと、男は名刺を差し出した。

「……雑誌の、記者さん?」

「横田といいます。出来ればお話を……」

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