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堕ちる  作者: 熊と塩
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第十三幕:香織という女

 横田香織はもやもやとした不安を胸に抱えて夫の帰りを待っていた。時計を見ると夜の十時を回っている。恐らくは件の「別れさせ屋」の記事を書くべく取材をしているのだろう。

 香織は横田勝平という男を熟知している。腰が低く弱気で、優柔不断で、駄目な男だ。それが今回の記事を書くにあたって、珍しく気力を見せたために香織は驚かされたが、それ故に不安だった。

 どうしたら横田を止められるか。香織はそればかりを考えている。

「ただいま……あ」

 横田が帰宅したのは十時半頃だった。リビングで待っていた香織を見るなり、驚いた様な感心した様な顔をした。香織からすれば当たり前の事で、今晩のみならず横田の帰りが遅い日は必ずそうしているのだから、いい加減に慣れてくれないだろうかと、香織は呆れた。

「お帰りなさい。ご飯にする?」

「うん、お願いします」

 疲れているのか、横田は憔悴した様子だった。白米を口に運ぶ箸も心なしか遅く、普段なら美味いとひっきりなしに言うのに、覇気がない。

「お疲れ様」

「あ、うん……ありがと」

 そう答えて、苦笑した。香織が今度の仕事に反対しているのを、後ろめたく思っているらしかった。

 横田は落ち込みながらも、茶碗で普段より一杯少ない三杯の米をたいらげ、ご馳走様、と手を合わせた。

「はい。お粗末様」

 香織が片付けを始めると、下げられた食器の代わりに書類を広げて、うんうんと唸りだした。いつもなら仕事を家に持ち帰るような事はしない。香織は洗い物をしながらその背中を眺めていたが、並々ならない気の入れ様を感じ取った。もし別の機会にそうしていたなら、香織は感心も出来るし喜びもしようが、この時ばかりは複雑な心境だった。

「……それ、今度の取材の?」

 香織から横田の仕事に干渉する事は稀だが、仕事の虫と化した横田はさして気にもしなかった。

「そうだよ。『別れさせ屋』の資料とか色々」

「随分悩んでるみたいだけど」

 書類をテーブルに放ってから、まあね、と答え、頭を抱えた。

「大丈夫?」

 香織は一通りを済ませて、横田の横に座った。横田は眉毛の繋がりかけた眉間に皺を寄せ、苦笑した。

「あんまり。朝から張ってて、夜になってやっと動き出したなと思ったら……あ」

 仕事の愚痴を饒舌に語っている事に気付き、横田は口を噤んだ。

「ごめん」

 香織は頭を振った。

「良いよ。それで少しでも気持ちが楽になるなら、いくらでも聞いてあげる」

 そう言いながら、香織は身体をずらして横田に寄り添った。

「良いの?」

「うん」

 頷いてから、香織は横田の肩にそっと頬を乗せた。

 香織はこの愚直で冴えない夫を愛おしいと思う。横田と添い遂げたいと心から思っている。その為には乗り越えなければならない障壁がある事を知っている。そしてそれは家庭を築く上で欠かせない事だという事も、勿論解っている。しかし、香織はそれを望んではいなかった。結婚という選択をした時点である程度の覚悟はあったが、横田はその今一歩を踏み出し、一線を越える決断を下すのが困難な男だった。それだけに、香織は横田が愛おしくて堪らなかった。香織が求めている愛情とは、父性なのかも知れない。

 香織には生まれた頃から父親が居ない。女手一つで香織を育て上げた母親に理由を尋ねても、答えてはくれなかった。香織の勘では、父親は死んだのではないらしい。香織の母親というのもあまり派手な性格ではなかったため、家に男を連れ込むような事もなく、母娘慎ましく暮らしていた。だから香織は父性愛というものを知らずに、生きてきたのである。

 横田の肩は緊張していた。横田は女を知らない。横田の人格ならば、理解に困らないだろう。ところが、香織は男を知っている。それに男の浅ましさも暴力性も、よく知っていた。横田にさえ触れさせていない古傷である。

 この関係がいつまでも続けば良いと、香織は願った。

 横田の肩口は良い匂いがする。体格の割にあまり体臭の強くない横田だが、そのあたりは特別だった。形容の出来ない、まるで嗅覚ではなく脳に直接働き掛けるかのよう。その匂いは嗅ぐと心が休まり、安堵する。そんな匂いが身体を包み込み、安らぎに抱かれて瞼を下ろしてみれば、自然と眠りに落ちてしまう。ゆっくりと、深く、重力に引かれていく。

 ハッ、と目を覚ましたのは、ほんの数秒後だった。眠りこけている場合ではない。まだ家事が残されている。

 香織が跳び起きた拍子に、横田の手元から紙切れが落ちた。

「あ……ごめんなさい」

 拾い上げ、横田に返そうと拾い上げた時、ふと、目に触れる。それは写真だった。香織はその写真を凝視して、絶句した。

「あ、それが『別れさせ屋』だよ」

 横田の声は、香織の耳に届いただろうか。香織は青い顔をしてすっくと立ち上がり、無言のままトイレへ向かった。ドアを静かに閉じると、便器の中へ食べたばかりの夕食を全てぶちまけた。胃が背筋が肩が、体中が激しく顫動(せんどう)する。そして香織は呟いた。

「……どうして、こんな……」

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