第十二幕:失態
やりにくい、佐上はそう感じていた。大塚朱美という女は、どうにも掴み処が無い。ただでさえ他人の、特に女の感情の機微など解らないのに、朱美に関してはこれまで口説き抱いて騙してきた女の中でも、最も扱いが難しい女だと思えた。誘えば乗るし、奨めれば従う。しかし後になって、遠慮してみせたり躊躇したりする。何を考えているのか、佐上には理解出来なかった。
ホテルに誘い、車に乗せるまでもそうだった。
「え?」
朱美は驚いて聞き返した。驚かれても、困る。普段なら佐上が誘えば即座に頷く女が殆どで、まるで考えになかった、という態度を取られると、驚くのは佐上の方なのだ。
「嫌? まだ早いかな」
佐上は試しに一度引いてみた。朱美はじっと佐上の目を見返していたが、やがて視線を逸らして、
「……嫌じゃ、ないけど……」
と、震えた小声で呟く。遠回しな承諾か、或いは拒否か、佐上には判別出来なかった。
「じゃあ、行こうよ」
佐上は苛々として、そう押し切る様に言うと、朱美は漸く頷いた。
車に乗り込み、イグニッションを回した時、助手席の朱美が、あ、と声を上げた。
「でも、私……」
「どうしたの?」
「……ううん、何でもないの。良いよ、行こ」
朱美は自らの言葉を打ち消し、シートベルトを締めた。またか、と佐上は半ば呆れる気持ちだった。
本来なら、ホテルに誘うにはまだ段階が早い。何度かデートを交わし、匂わせる程度に留めておく。焦らす、というのが通常だ。女の方から仄めかされるのを待つのが最良だが、佐上は朱美を押しに弱い女と踏んで、今回それを避けた。見た目も地味だし、プライドの高いタイプには見えない。佐上が右と言えば右を向くような、従順な女だと思っていた。しかし、それが間違いだったかも知れない。朱美の態度は常に曖昧だった。
車を走らせる間、朱美は佐上の隣で沈黙している。緊張をしているのか、何かを考えているのか。何れにせよ、佐上と関係を持つ事に期待している様子ではない。もしかすると、不倫というものの後ろめたさを感じ始めているのだろうか。だとしたら、厄介な事に成り兼ねない。佐上はハンドルを操りながら、対策を練っていた。
郊外のラブホテル、その地下駐車場へと車を乗り入れた。暖簾のような入口を潜り抜け、蛍光灯の無機質な明かりが照らす地下は、既に背徳的な雰囲気を漂わせていた。
「着いたよ」
朱美は黙ったまま俯き、返事もしなかった。やはりまだ早かったのだろうか。かと言って、今更後に引くことは出来ない。佐上は強引な手段を選んだ。
シートベルトを外し、上半身を朱美に向ける。左手を朱美の手に重ねつつ、右手を頬に添え、朱美を引き寄せると、自らも身を乗り出して、朱美の唇を吸った。
朱美は抵抗しなかった。鼻先同士がくすぐり合う様に当たっても、佐上がその舌で薄い口紅の味を感じながら、唇の隙間に舌先を差し込んでも、朱美は身じろぎ一つせず、為すがままにされていた。
愛撫にも似たキスがひとしきり終わり、佐上が顔を離すと、朱美は目をしっかりと見開き、真っ直ぐに佐上を見詰めていた。佐上は思わず唸り声を上げそうになった。他の女なら恍惚とした表情を浮かべているはずなのに、朱美は殆ど表情を変えていなかった。無表情の下にはどんな感情がうごめいているのか、計り知れない。故に佐上は、すかさず目を逸らした。
「……キスが上手」
朱美は静かに言った。佐上は身体を戻して、ハンドルに手を掛けた。今、佐上は朱美という女に恐怖を覚えていた。
その目で見られると居たたまれない。その声を聞くと頭を掻きむしりたくなる。佐上は今にも叫び出したくて仕方が無かった。こんな気持ちを女にさせられたのは、初めてだった。
「嘘ばっかり」
朱美は呟いた。
そう、何もかも嘘だ。過去も現在も、感情も、自分も、佐上は全てに嘘を何重にも塗り重ね、全てを窒息させ、殺してしまった。
そして、そんな強固に見える嘘の層に、朱美はたった一言でいともたやすく亀裂を生じさせてしまったのである。
腐乱し液化した自分が、ひび割れから零れ出そうになる。佐上は必死にそれを抑えていた。
「私ね、結婚してるの。籍は入れてないけど」
「……知ってる」
佐上は低く答えた。不意の失言。だが、今の佐上にそんな事を考えるゆとりはなかった。
「そう。知ってたんだ?」
朱美は、ふう、と一息吐いて、シートにもたれた。
「……私も知ってる」
独り言の様に言ってから、シートベルトを外した。
「今日はご馳走してくれてありがとう。タクシーで帰るから」
早口に言いながら、バッグを取り、ドアを開けた。佐上も慌てて出る。何をやっているんだと、己を叱責しながら。
「また、店に行っても?」
背中へ向けた問い掛けに、朱美は答えず、足速に立ち去って行った。
佐上は地面を蹴った。




