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堕ちる  作者: 熊と塩
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第十一幕:虚偽

 九時半、駅前の待ち合わせ場所に佐上は現れた。黒いジャケットとパンツの上下に、開襟のシャツ。インナーは着ていないのか、銀のネックレスと白い鎖骨が覗いている。

 対して朱美は、赤いチェックのワンピースに黒のレギンスと、あまり派手とは言えない服装だった。化粧も薄く、全体に於いて異性の目を引く部分は無い。まるで友達とでも軽く食事に出て来たような、そんな装いだ。しかし朱美は意図してそういう格好にしたのである。

 高橋は今晩のところ、仕事で家に帰らないらしい。普段そういった事は滅多に起きない。この機会を逃すわけには行かなかった。そこで朱美は、高橋に「友人と久しぶりに遊んで来る」という嘘の口実を作り、その裏付けとして、こういったラフな服飾に止めたのだった。

 我ながらずる賢い、と朱美は内心で苦笑した。

 佐上は朱美の急な提案を責めるそぶりは見せず、

「食事でもする? もう食べた?」

「まだ食べてないです。でもこんな時間だから……」

 あまりいい店はないだろう。だが、

「この近くに知ってる店があるよ。そこでなら軽い食事が出来るけど、いいかな?」

 流石、佐上はよく知っている。朱美は躊躇いなく頷いた。

 佐上に連れられた先は、歩いて間もなくのところにある落ち着いた雰囲気の飲み屋、いや、バーだった。薄暗い店内は青っぽい照明にぼんやりと照らされている。入店するなりきっちりと背筋を伸ばしたウェイターが出て来て、席へ案内した。その席というのは、二人が向かい合って座る形の小さいテーブルで、一組毎が衝立で仕切られている。

「……凄い。うちの店とは大違いですね」

 朱美が素朴な感想を口にすると、佐上は笑った。

 この時点で、朱美は佐上という男が解らなくなっていた。朱美の知っている佐上と、今目の前にいる佐上とは、全くの別人に思えた。表情は柔和で明るい。言葉に刺は無くそれでいて率直で、聞き心地が良い。ルックスの素晴らしさは今更特筆すべきではないほど、完璧で非の打ち所が無い。しかし、朱美は違和感を覚えている。違う、という一言が朱美の脳裏を過ぎった。別人という意味では無い。兎に角、違う。朱美の知っている佐上一郎ではない。

 スティックサラダを摘みながら、尋ねてみた。

「佐上さん、お仕事は何を?」

「SEだよ」

「エスイー?」

「システムエンジニア。企業のコンピュータシステムを管理する仕事。平たく言えばIT関係の仕事だね」

 さらさらと、まるで決まり文句の様に言う。朱美は相槌を打ちながらも、嘘だと思った。しかし決して、根拠無く佐上を疑ってかかっているのではない。

「……佐上さん、今二十五歳ですか?」

「え? そうだけど。よく解ったね」

「私がそうだから、何となく」

「へえ、じゃあ同い年なんだ。鋭いね、君は。思った通りの賢い人だ」

 佐上は再び笑った。朱美は自分自身、察しの良い人間とは思わない。それでも朱美が佐上の歳を言い当てたのは、知っているからだ。

 他にも知っている。例えば、佐上は本来これほどよく笑う人物ではないという事。よって、今自分に向けられる笑顔が作られたものだという事。もし、本物の笑顔を見せられたら、気持ちが押さえられない自分がいる事。朱美は全て知っていた。

「じゃあ、これは解るかな?」

「何?」

「俺がどうして君に声をかけたか」

 朱美は考える間もなく首を横に振った。佐上が己を偽ってまで近付いてくる理由など、朱美に解る訳がなかった。

 佐上は含み笑いをして、

「飲まない? 美味しいよ、ここのカシスオレンジ」

「……飲もうかしら」

 朱美は、もう何も考えない方が良いような気がしていた。朱美がしているのは既に、浮気である。線引きは難しいが、朱美にとってはそうなのだ。酒でも飲んで逃避せずにはいられない。だが、メニューを手にとってから思い直した。

「……やっぱりやめておきます」

 子供の事を気にしてだ。朱美の周りには逃げ様のない事柄ばかりらしい。

「そう? それじゃあ、俺もやめておこう」

 そして佐上は、またも形だけの笑みを浮かべる。

 腹の足し程度の軽い食事を終えた。いくらか談話をしたが、やはり佐上という男は、嘘で塗り固めた高い壁を築き上げていた。朱美は、騙されているのでは、という考えを持ち始めた。

 いや、それにしても違う。騙される謂れも、佐上が騙す理由も、見当たらないのだ。そしてもし騙していたのだとして、朱美を騙したからといって、何になるのだろうか。金もなければ、男を惹き寄せる程の魅力も無い、ごく普通の女なのだ。

「じゃあ、出ようか」

 佐上が先んじて席を立つ。朱美もそれに続いた。

 店を出ると冷たい風が朱美の頬を撫でた。

「そこに車を停めてあるんだ」

 そう言いつつ、さもそうするのが当たり前という風に朱美の手を取り、コインパーキングへと足を進める。

「ちょっと待って。何処に行くの?」

 朱美は踏ん張って佐上を止めると、佐上は振り向き、首を傾げた。

「勿論、ホテルだけど?」

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