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堕ちる  作者: 熊と塩
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第十幕:無関心

 女というのは、どうしてこうも弱い生き物なのだろう。佐上は自室のベッドに横たわり、つくづくそう思った。

 今回の標的、大塚朱美はまんまと佐上の罠に掛かった。餌をちらつかせる度に生娘のような反応をするところを見て、長い期間を要して餌付けする必要はないと佐上は判じたが、まさにその通りだった。

 佐上は車の窓から身を乗り出し、器用な作り笑いを浮かべながら、きょとんとした朱美に言った。

「前から食事に誘いたかったんだけど、なかなか切り出せなくてさ」

 朱美は最初戸惑った様子で、あの、とか、でも、とか言葉にならない声を途切れ途切れに口にした。しかし佐上の美貌に立ち向かう事など、誰にも出来はしないのだ。最後には佐上の誘いに首を縦に振り、連絡先を書いたメモもすんなりと受け取ってしまった。

「都合のいい日があったら連絡してよ。待ってるから」

 それだけ言い残し、返事を聞かぬまま車を出す。後は、堕とすだけである。

 佐上に罪悪感などない。結果的には騙されたと嘆くのだろうが、佐上は強要をしていないから、堕落への道に足を踏み込むのは結局女の意思だ。そんなものは詐欺師の屁理屈かも知れないが、佐上にとっては自らの行いを肯定するに事足りる、立派な正論なのだ。

 そんな佐上にも良心はある。例えそれが痩せこけた枯木のようなものでも、倫理という大地に根を張っている。しかし今にも折れてしまいそうにか細い幹をしているがために、それを守る必要があった。

 良心を傷付けない様にするのは簡単だ。興味を持たなければ良い。他人のこれまでの人生、これからの人生にさえ興味を持たなければ、同情は生まれない。同情しなければ、誰が傷付こうと、誰を傷付けようと、自らの心は少しも痛まない。だから佐上は何事にも無関心に生きてきた。

 逆に言えば、誰かに同情したが最後、佐上という人間は崩壊してしまうだろう。

「ねぇ、一郎さあ」

 佐上はこの小煩い同居人にさえ興味が無い。

「暇だし、どっか連れてけよ」

「学校に行け」

 今日は平日だ。平日の朝からのんびりと化粧をしている方がおかしい。制服に着替えてはいるものの、登校する気は微塵もないようだ。リオはわざとらしく溜め息を吐いた。

「受験受験で居づらいんだよなぁ、ガッコ。みんな慌ただしいんだよ」

 佐上は返事をしなかったが、リオは勝手に喋り続けた。

「あたし、何もしたくないんだ。大学なんて行く気しないし、就職なんて絶対無理」

 睫毛にマスカラを塗りたくりながら、無気力に言う。

「主婦でもやろうかなぁ」

 佐上は寝返りをうって壁の方に向いた。そして、

「……ろくなもんじゃねえよ」

 と独りごちた。

 リオは一通り化粧をし終えたのか、体ごと佐上に向き直り、ベッドに肘を載せた。

「ねぇ、結婚しよっか」

 佐上の背中に手を添え、ワイシャツのタックを指でなぞる。

「悪い冗談だ」

 そう一蹴されながらも、リオは笑った。

「あたし、本気なんだけど?」

「俺にそんな気は無い」

 佐上は即座に答える。取り付く島も無いとはこの事だろう。それでもリオは構わなかった。

「そんなの知ってるよ」

 佐上の背中に爪を立てながら、リオは目を細めた。

「あたし、一郎が好きだよ」

 爪を立てるのをやめ、掌全体で撫でる。佐上は迷惑げに唸り声を上げた。

「どうでもいい」

 リオがどう思っていようと、佐上の知った事ではなかった。何故なら、

「俺はお前が嫌いだ」

 興味が無いのである。リオの身の上に同情はしないし、ましてや気持ちに応えてやろうなんて気は更々起きなかった。それに、リオは女だ。

 突き放されたリオは眉間に皺を寄せ、今にも泣き出しそうに顔をくしゃくしゃにしたが、それでいて言葉はなかった。そして無言のまま立ち上がり、佐上の背を思いきり蹴った。

「……彼氏んち行ってくる」

 化粧道具一式を乱暴にバッグに詰め込んで、部屋を出ていこうとした。しかし一旦戸口の所で立ち止まり、

「……嘘だよ、学校だよ!」

 怒鳴り声を上げ、どたばたと居なくなった。

 佐上は、そんなリオの態度を見てもやはり、面倒だとしか思えなかった。


 その晩、仕事用の携帯電話に朱美から連絡があった。

『あの、大塚です』

「ああ、待ってたよ。電話ありがとう」

 リオに向けるのとは違う、明るい声音だ。ただし表面的なものである。

『佐上、さん。食事のお誘いなんですけど……』

 日程の詳細か、はたまた断るものか、佐上はどちらかを予想していたが、

『その……これからじゃ駄目ですか?』

「これから?」

 佐上が思わず聞き返すと、朱美は酷く恐縮した。

「……いや、大丈夫だよ。仕事もちょうど一段落付いたところだから」

『ごめんなさい。じゃあ……』

 朱美は待ち合わせ場所を告げた。

『待ってます』

 その言葉を最後に電話は切られた。時間は夜の九時を回っていた。

 また面倒が始まる。いや、佐上は既に面倒だと感じ始めていた。

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